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国家の引越し - 1869年の「南山大脱出」と双頭の近代日本の形成  作者: しげぞう
第七章 鉄と血の戊辰戦争 - 近代兵器による遅滞戦闘と戦略的撤退
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第三節 甲府盆地の「肉挽き機」 - 東海道戦線の崩壊と手仕舞いの始まり(2)

▪️近藤勇とブリュネのキルゾーン:甲府における徹底的な遅滞戦闘の全貌


 1868年(慶応4年)3月6日、甲府盆地に早春の淡い陽光が降り注ぐ中、板垣退助率いる東山道軍先鋒・土佐藩迅衝隊の第1大隊約600名は、勝沼の柏尾橋(Kashiwao Bridge)を渡り、扇状地に広がるブドウ畑へと足を踏み入れた。彼らの士気は、成層圏を突き抜けるほど高かった。


 彼らの眼前に翻るのは、一本の寂しげな「誠」の旗。それは、京の街で人斬りとして恐れられた時代遅れの浪士集団、新選組の残党が立て籠もる、最後の砦の目印であった。迅衝隊の小隊長たちは、腰の刀を叩き、部下たちに檄を飛ばした。


「相手は敗残兵だ! 一気に蹴散らし、江戸への手土産にするぞ!」


 彼らの脳裏には、敵陣に突入し、逃げ惑う浪士たちを背後から斬り伏せるという、勇壮かつ一方的な掃討戦のシナリオが描かれていた。


 彼らが装備するスナイドル銃やエンフィールド銃は、確かに旧来の火縄銃とは比較にならぬ性能を持っていたが、彼らの戦術思想ドクトリンそのものは、依然として関ヶ原の合戦から一歩も出ていなかったのである。




1. 不可視の処刑人とガトリングの洗礼


 彼らが橋を渡りきり、あるいは浅瀬を徒歩で渡河し、ブドウの古木が立ち並ぶ緩やかな登り坂に差し掛かった瞬間、その牧歌的な風景は、何の前触れもなく牙を剥いた。


 最初の異変は、聴覚よりも先に、視覚的な「現象」として発生した。先頭を歩いていた指揮官が、軍配代わりのサーベルを振り上げた次の瞬間、その上半身が霧状の血煙となって弾け飛び、物理的に消滅したのである。


 銃声は聞こえなかった。いや、聞こえた時には既に手遅れだった。人間の知覚速度を超えた「死」が、空間そのものを切り裂いて飛来したのだ。それは、街道右手の斜面に建つ粗末な農機具小屋と見せかけた、フランス工兵仕込みの「隠顕銃座(Concealed Gun Emplacement)」から放たれた、ガトリング砲の初弾であった。


 距離150メートル。当時の黒色火薬を用いた銃器において、弾丸の運動エネルギーが最大化し、かつ命中精度が数学的に保証される「絶対必殺距離」である。ジュール・ブリュネ大尉の設計に基づき、この瞬間のために隠匿されていた2門の「1865年式ガトリング砲(58口径)」が、指揮官のホイッスルとともに、その多銃身を唸らせ始めた。


 「ガガガガガガ……ッ!」 その発射音は、通常の銃声の連続音ではない。巨大な帆布を力任せに引き裂くような、あるいは悪魔が喉を鳴らすような、乾燥して連続的な破裂音であった。 毎分200発。1秒間に3発以上のペースで、人間の親指ほどの太さがある58口径(約14.7mm)の鉛弾が、束になって迅衝隊の隊列に突き刺さる。


 「伏せろ! 散開しろ!」


 誰かが叫んだが、その命令が兵士の耳に届く前に、物理法則が彼らの肉体を破壊していた。通常の戦場であれば、前列の兵士が撃たれれば、その死体が後列の兵士への「盾」となる。しかし、ガトリング砲が吐き出す質量弾の運動エネルギーの前では、人体など濡れた紙細工に等しかった。 弾丸は先頭の兵士の胸郭を貫通し、背後の兵士の脊椎を粉砕し、さらにその背後の兵士の大腿部をもぎ取って、ようやく地面にめり込む。


 わずか数十秒。


 その短すぎる時間の間に、街道上に密集していた先鋒部隊の中隊規模の人員は、原形を留めない有機質の混合物、すなわち「挽き肉」へと還元された。石畳は赤く染まり、ちぎれ飛んだ四肢と、主を失ったスナイドル銃が散乱する。それは戦闘ではない。人間という原材料を投入し、死体という製品を効率的に生産する、近代的な工場の操業風景そのものであった。


 生き残った兵士たちは、パニックに陥り、本能的に射線ファイア・レーンから逃れようと、左右に広がるブドウ畑へと飛び込んだ。


「畑だ! 木の陰に隠れろ!」


  だが、それこそがブリュネと近藤勇が待ち望んでいた行動であった。ブドウ畑に逃げ込んだ彼らを待ち受けていたのは、身を隠すための木陰ではなく、より陰湿で、計算され尽くした死の罠であった。  


「痛い! なんだこれは!?」


 兵士たちの軍靴や脚絆に絡みついたのは、枯れた蔓草ではない。工兵隊が数日かけて丹念に敷設した、鋭利な棘を持つ「有刺鉄線(Barbed Wire)」であった。当時の日本ではまだその存在すら知られていなかったこの障害物は、パニック状態で走り回る兵士たちの皮膚を裂き、軍服を絡め取り、彼らの動きを強制的に停止させた。


 そして、鉄線の檻の中でもがく彼らの頭上に、今度は高台の大善寺裏手から、死の雨が降り注いだ。


「山砲、効力射! てえっ!」


 隠匿配置されていた4ポンド山砲が火を噴く。放たれたのは、通常の炸裂弾ではない。ブリュネが持ち込んだ、遅延信管付きの「榴散弾(Shrapnel Shell)」であった。


 敵の頭上数メートルという絶妙な高度で炸裂した砲弾から、数百個の鉛玉が円錐状に散布される。


 地面に伏せれば助かる通常の砲撃とは異なり、空中で炸裂する榴散弾に対しては、塹壕のない畑の中では逃げ場がない。鉄線に絡め取られ、身動きの取れない土佐兵たちは、虫かごの中の標本のように、頭上から降り注ぐ鉄の雨によって次々と串刺しにされていった。


「見えない! 敵がどこにもいない!」


 硝煙と土煙の中で、迅衝隊の生き残りが絶望的な叫びを上げた。 彼らのスナイドル銃は火を噴く先を失っていた。正面の小屋は煙に包まれ、側面からは十字砲火クロスファイアが浴びせられ、頭上からは鉛玉が降ってくる。  


 これが、近代兵器による「キルゾーン」の正体であった。そこには、武士の名乗りも、一騎打ちの美学もない。あるのは、座標と弾道計算、そして時間当たりの殺傷効率キル・レシオという冷徹な数学だけである。 甲州勝沼のブドウ畑は、芳醇な果実を実らせる前に、人間の血液というあまりにも高価な肥料を、限界まで吸い込むことになったのである。




2. 近藤勇の変貌: 「サムライ」から「コマンダー」へ


 もし、この地獄絵図と化した甲州勝沼の戦場において、講談や錦絵でお馴染みの「壬生の狼」すなわち、ダンダラ模様の羽織を翻し、鉢金を締めて敵陣へ斬り込む近藤勇の姿を探そうとするならば、それは徒労に終わるどころか、歴史に対する重大な認識錯誤であると言わざるを得ない。


 勝沼の扇状地を見下ろす稜線上に構築された指揮所コマンド・ポストに佇んでいたのは、前近代的な武侠の徒ではなく、近代的な概念によって再構築された、冷徹な野戦指揮官フィールド・コマンダーであった。


 彼の外見の変化は、そのまま徳川幕府軍が経験したドラスティックな意識改革パラダイム・シフトを象徴していた。象徴的だったまげは切り落とされ、頭にはフランス陸軍形式のケピ帽が載せられている。身体を包むのは、既に南山に向け出発していた横浜の被服廠が最後に縫製した、金ボタンが並ぶ濃紺のウール製フロックコート(一八六七年式将校軍衣)。足元は試験的に輸入された加硫ゴムをソールに用いた、泥濘に強い革長靴で固められていた。


 彼の腰には、確かに愛刀「虎徹」が吊るされていた。しかし、その柄糸はすでに装飾品としての意味しか持っていない。彼の手が戦いの最中に触れていたのは、刀の柄ではなく、首から下げたフランス・ヒューエット社製の高倍率双眼鏡と、右腰のホルスターに収められたS&W・モデル2アーミー(32口径リムファイア弾を使用する6連発リボルバー)であった。


「第四分隊、弾幕バラージが薄い。右翼の散兵壕へスペンサー銃手を回せ。…敵の第二波が来るぞ、ガトリングの冷却を急がせろ」


 近藤の口から発せられる言葉は、「誠」や「天誅」といった情緒的なスローガンではない。ブリュネ大尉から叩き込まれた、座標、射界、再装填時間、そして弾薬消費率アムニッション・レートといった、即物的な軍事用語の羅列であった。


 彼は、この瞬間、完全に理解し、そして受容していたのだ。自分がここで担っている役割は、華々しく散って武士の意地を見せることではない。横浜港のクレーンが稼働し、横須賀製鉄所の旋盤が船倉に収まるまでの時間を、一分一秒でも長く稼ぐための「死のマネジメント業務」であることを。


 近藤の指揮下にある300名の甲陽鎮撫隊(旧新選組+見廻組)もまた、劇的な変貌を遂げていた。 彼らはかつて、京都の路地裏における近接格闘ストリート・ファイトのプロフェッショナルであった。しかし、土方歳三による過酷な再訓練リ・トレーニングを経た彼らは、今や幕府軍の中で最も練度の高い軽歩兵ライト・インファントリーとして機能していた。


 塹壕の中に身を潜めた彼らの主力装備は、刀ではない。米国から緊急輸入された「スペンサー七連発騎兵銃」である。 チューブ式弾倉をストック(銃床)に内蔵し、レバーアクションで次弾を装填するこの連発銃は、当時の単発式ライフルが主流の戦場において、圧倒的な制圧力ファイア・パワーを持っていた。


「ガチャリ、ズドン。ガチャリ、ズドン」 塹壕線から響くのは、雄叫びではない。レバーを操作する金属音と、排莢・発射の規則的なリズムだけであった。彼らは、眼前のブドウ畑で鉄線に絡まり、のたうち回る土佐兵たちを、あたかも射的場のブリキの的であるかのように、無感情かつ機械的に処理していった。


 そこに「剣禅一如」の精神性は介在しない。あるのは、トリガーを引く指の圧力と、照準器越しの弾道計算だけだ。かつて一番隊組長・沖田総司が愛したような、刹那の輝きを放つ剣技は、ここでは「非効率な時代遅れの芸当」として切り捨てられていたのである。


 この光景を、望遠鏡越しに目撃していた東山道軍司令官・板垣退助の驚愕と恐怖は、筆舌に尽くしがたいものであった。  


「あれは本当に、あの近藤勇なのか?」


 板垣は、古風な武士道精神に則り、近藤が「我こそは!」と名乗りを上げて突撃してくることを、どこかで期待していたのかもしれない。そうであれば、彼らもまた武士として、正々堂々と相手を討ち取る名誉に浴することができたからだ。


 しかし、現実はあまりにも残酷で、そしてドライであった。近藤は姿を見せない。彼が構築した「システム」だけが、板垣の部下たちを一方的に、工業的に殺戮していく。  


「奴は、魂を売ったのか。……いや、違う」板垣は戦慄と共に悟った。近藤は魂を売ったのではない。彼は、守るべきもの(徳川の遺産と南山への脱出)のために、自らのアイデンティティであった「武士の殻」を脱ぎ捨て、泥と油にまみれた「近代の殺戮機械」へと進化したのだと。


「隊長、ガトリングの二番機、焼き付きました! これ以上の連射は不能です!」  


 伝令の悲痛な報告に対し、近藤は表情一つ変えずに會津製の懐中時計を一瞥した。  

「予定通りだ。十分じゅうぶん、元は取った」  


 彼の計算盤の上では、この数時間の戦闘で東山道軍に強いた800名以上の損害と、3日間の進軍遅延という成果は、ガトリング砲2門と山砲4門のコストを遥かに上回る黒字プラスであった。  


「全軍、撤収プル・アウト…置いていくのは、死体と空の薬莢だけでいい」


 近藤勇は、夕闇が迫る勝沼の谷を背に、静かに踵を返した。その背中は、かつて京の街を震撼させた「人斬り」のそれではなかった。それは、一つの巨大なプロジェクト(国家移転)の一部門を任され、その責任を血と鉄で完遂した、孤独で優秀な*プロジェクト・マネージャーの背中であった。


 彼は知っていた。この戦いは終わりではない。八王子、日野、そして江戸。彼の仕事は、南山行きの最終便が出るその瞬間まで、この残酷な計算を繰り返すことなのだと。


3. 遅滞戦闘の完了と、未来への撤退


 1868年(慶応4年)3月6日、西の空を赤く染めていた太陽が南アルプスの稜線に沈み、甲府盆地が濃紺の帳に包まれる頃、勝沼の扇状地における「熱狂的な殺戮の宴」は、唐突に、しかし冷徹な計算通りに幕引きを迎えた。


 このわずか半日の戦闘で消費されたリソースは、スペンサー銃弾約1万2,000発、ガトリング砲弾4,000発、そして山砲弾60発。


 対して得られた戦果は、東山道軍(土佐・因州藩兵)の死傷者842名(うち即死・行方不明315名)、および彼らの精神の深層に不可逆的に刻印された「近代兵器への根源的恐怖」という名の呪いであった。


 一方、塹壕と有刺鉄線に守られた甲陽鎮撫隊の損害は、死者8名、負傷者24名。キル・レシオ(敵味方損害比)にして約26対1。これはもはや「戦闘」の範疇を超えている。損益分岐点を遥かに超えた、極めて高収益な軍事的投資活動であったと言えよう。


 午後5時40分、近藤勇は懐中時計の蓋をパチンと閉じ、静かに、しかし断固として撤収命令を下した。


「店じまいだ。……客には十分すぎるほどだろう」


 彼らの撤退行動ディスエンゲージメントは、敗走する軍隊の無秩序なそれとは対極にあった。それは、工場の操業終了後に熟練工が工具を片付け、清掃を行うような、淡々とした事務手続きであった。


 まず、過熱して銃身が歪んだガトリング砲は、再利用を防ぐために機関部の主要部品カムとボルトが抜き取られ、柏尾川の深みへと投棄された。残された鉄塊は、敵にとって解析不能なガラクタとなる。


 次に、4ポンド山砲の砲口には、残った火薬と榴弾が詰め込まれ、導火線に火が点けられた。数分後、砲身内部での自爆によってライフリングはズタズタに破壊され、ただの鉄パイプと化す手はずだ。


 そして、塹壕の要所や、敵が休息を取りそうな木陰には、フランス工兵が考案した悪質なブービートラップ、手榴弾のピンを糸で固定し、何気なく動かすと作動する仕掛けが、別れの挨拶としてセットされた。


「Bon Voyage(良き旅を)」 ブリュネ大尉の部下が、最後に放棄された指揮所の壁に木炭でそう書き残したのは、単なる皮肉以上の意味を持っていた。これから江戸へ向かう彼らの旅路が、地獄への観光ツアーであることを示唆していたからだ。


 彼らは闇に紛れ、笹子峠を越える正規ルートではなく、あえて険しい山道を選んで大月方面へと姿を消した。重装備を捨て、軽装となった彼らの移動速度は、負傷者を抱えて混乱する東山道軍の追撃を完全に無効化するものであった。


 翌3月7日の朝、板垣退助率いる東山道軍本隊が、ようやく硝煙の晴れた勝沼の陣地に踏み込んだ時、そこで彼らを迎えたのは、累々と横たわる味方の死体と、不気味なほどの静寂だけであった。  


「勝った……のか?」 若い兵士が呆然と呟いたその言葉は、勝沼の虚空に吸い込まれた。確かに、地理的には彼らがこの地を制圧した。近藤勇は逃げた。形式上は官軍の勝利である。しかし、その代償として支払わされたコストはあまりにも甚大であった。精鋭部隊の3割が戦闘不能となり、生き残った者たちも、有刺鉄線とガトリング砲の悪夢に怯え、士気は崩壊寸前まで低下していた。  


 何より深刻だったのは、指揮官である板垣自身の心に植え付けられた疑心暗鬼である。  


「次の峠にも、また奴らがいるのではないか? 次の曲がり角に、あの回転砲が待ち構えているのではないか?」  


 見えない敵への恐怖は、物理的な障害物以上に軍隊の足を重くする。事実、この後、東山道軍の進撃速度は劇的に鈍化した。本来なら2日で到達可能な八王子までの道のりに、彼らは慎重な索敵を繰り返しながら、実に7日間もの時間を費やすことになる。


 これこそが、勝と近藤が描いたシナリオの真の狙いであった。彼らが欲していたのは、板垣の首ではない。彼らが欲していたのは、板垣が恐怖で立ち止まり、地図を広げて長考に沈む、その「ロスタイム」であった。


 東山道軍が勝沼で足踏みし、八王子手前で怯えているその7日間の間に、横浜港と品川港ではさらに12隻の大型輸送船が出港を果たした。その船倉には、横須賀製鉄所の核心部品であるスチーム・ハンマーのシリンダー、産業の裾野である品川の中小の工房の幾百もの旋盤やフライス盤や削り盤、大量の統治に関わる書類、学問書の膨大な書籍、幕府天文方の貴重な観測機器、そして数万人の官僚、技術者、職人、学者、医者、商人(資本家)、とその家族が詰め込まれていた。近藤たちが流した血は、南山へと向かう船のボイラーを焚くための、最も高価な燃料となったのである。


 後年、南山陸軍士官学校で教鞭を執ることになる元フランス軍事顧問団の某教官は、戦史講義においてこの「勝沼の戦い」を次のように総括している。  


「諸君、戦争とは破壊ではない。戦争とは建設のための『地均し』であり、時には『引っ越しのための時間調整』である。甲州勝沼において、近藤将軍(彼は後に南山陸軍の名誉元帥となる)が示したのは、敵を倒すことよりも、敵の時間を奪うことこそが、戦略上の至高の勝利であるという真理だ…もっとも、あのブドウ畑の持ち主には、戦後、南山政府から十分すぎる補償金と、最高級の苗木が送られたことを付け加えておくがね」


 近藤勇とその部隊は、闇の中を東へ走った。彼らの戦いは終わらない。次は八王子の浅川で、その次は日野の渡しで。横浜港の最後のクレーンが停止し、巨大な蒸気船が汽笛を鳴らして水平線の彼方へ消えるその瞬間まで、彼らは死神のサイズとして、新政府軍の足首を刈り取り続ける運命にあった。彼らが背負っていたのは、滅びゆく徳川の過去ではなく、海を越えた先に待つ、まだ見ぬ共和国の未来だったのである。





櫻井教授のコラム

<南山における「ワイン戦争」と、歴史修正主義的テロワール>


 読者諸賢は、現在の南山共和国が、チリやアルゼンチンと並ぶ世界有数のワイン生産国であることをご存知だろうか。  

 特に、南山北部の冷涼な高原地帯、通称「ニュー・カツヌマ(New Katsunuma)」地区で生産される『シャトー・コンドウ・レゼルヴ 1868』は、その重厚なタンニンと、どこか鉄錆のような複雑な余韻を持つフルボディの赤ワインとして、オークションで天文学的な高値を記録している。


 実は、このワインのルーツは、あの血塗られた勝沼の戦場にある。

 私の研究室に、当時の移民船の積荷目録マニフェストの写しがあるのだが、そこには工作機械や金塊に混じって、「甲州葡萄の苗木 5,000本」という項目が記されている。


 近藤勇とともに戦い、生き残った新選組の隊士たち―その多くは多摩の農家の次男坊や三男坊であった―は、南山への船に乗る際、武器を捨てる代わりに、故郷の焼けた畑から、奇跡的に生き残った葡萄の枝を切り取って持参したのだという。


「俺たちの血を吸った葡萄だ。向こうの土でも、きっと赤くて強い実をつけるだろう」 そんな演歌のような台詞を吐いたかどうかは定かではないが、彼らが新天地で鍬を振るい、開墾した土地に、故郷のDNAを植え付けたのは事実だ。


 しかし、ここで歴史学者として一つ、不都合な真実を暴露せねばならない。南山ワインの銘醸地には、なぜか「ヒジカタ・ヒル」や「オキタ・ヴァレー」といった勇ましい地名が付けられているのだが、地元の古老(大和4世)に話を聞くと、とんでもない証言が飛び出してくる。


 「ああ、あの地名かい? じいちゃんが言ってたよ。土方さんはワインなんて酸っぱいものは好かん、と言って、自分の畑には全部『沢庵タクアン用の大根』を植えさせたんだとな。だから本当はあそこは『タクアン・ヒル』になるはずだったんだが、戦後の観光局の役人が『映えない』と言って、勝手にワイン畑にしちまったんだ」


 ……なんと。


 あのクールな副長・土方歳三が、南山の熱帯の太陽の下で、上半身裸で汗だくになりながら大根を干していたとは。そして、彼が本当に愛したのはボルドーワインではなく、白飯と沢庵だったとは。この話を編集者のK君にしたところ、彼は顔面蒼白になって私の口を塞ごうとした。  


「先生、その話は墓場まで持っていってください! 『南山ワイン』のブランドイメージが崩壊します! 読者の夢を壊さないで!」  


 やれやれ。歴史とは常に、勝者と観光局によって美しく濾過フィルターされる運命にあるらしい。


 だが私は、洗練されたピノ・ノワールよりも、土方歳三が愛したであろう、泥臭くて塩辛い沢庵の味の方に、より深い「歴史のテロワール」を感じてしまうのである。今夜は、スーパーで買ってきた沢庵を肴に、安酒を煽ることにしよう。



最後までお付き合いいただき感謝します。

気に入っていただけたら、ページ下部よりブックマークとポイント評価をお願いします。


*本編未読の方も、この『架空歴史講義』だけでお楽しみいただけますが、下記の講義録の第一弾をお読みいただくと、より講義の解像度が高まるかと存じます。

_______________


講義録「徳川海洋圏の地政学と「南山」の政治経済史 棄民から生まれた「双頭の帝国」の構造分析」

https://ncode.syosetu.com/n5547lt/


本編「南山共和国建国史」

https://ncode.syosetu.com/s0124k/

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