ゴースト&コープス
――オフィス街に夜の帳が降りて久しい。街は永遠の夜に沈み、月は不自然なほどに白く輝いていた。夜風に靡く書類、割れた窓からこぼれる冷たい光。すべてが死者の世界のように沈黙していた。
コツ、コツ、と革靴の音が交差点に響く。
男の名前は大塚十郎太。67歳。
どこかで着替えてきた古びたトレンチコートを羽織り、目深に被ったハットの下から鋭い眼光が夜を睨んでいる。震える手に握られているのは、決して老いのせいではない。彼の全身には、正体不明の緊張感と警戒心が染みついていた。
その場に立ち止まると、彼は誰に聞かせるでもない小声で呟いた。
「……匂うな、死の匂いが。まるで俺の中身を覗き込むみてえだ」
かつて、36人の命を絶ち、なおも誰にも知られることなく生き続けてきた男。爛れた心には、罪悪感も、後悔もない。あるのはただ、自分の悪徳が暴かれないことへの執念のみ。
そんな彼の前に、ふと、女性の姿が現れた。
宗方由梨。
彼女もまた、前の戦いで汚れた服を着替えてきたのだろう、長い髪を無造作にまとめたポニーテールに、パンツスーツのシルエットから見て取れる細い足が月光に照らされる。顔は見えない。だが、彼女の周囲だけはまるで空気が違っていた。薄い霧のような気配、寒気を思わせる虚無。
大塚の眉がわずかに動く。
「……あれが、俺の相手か。なかなか、美人さんじゃないか」
由梨は一言も発さず、大塚を見つめ返す。氷のような沈黙の中で、彼女の指がポケットの中で小さく動いた。
その仕草に、大塚は直感した。――この女は、普通じゃない。
そして、その瞬間、虚空に2つの影が現れた。
悪魔の姿は伝承の度に代わる。
彼らもまた姿を現すたびに異なる姿をしていた。
ひとりは深紅のローブを纏った優男、アガレス。
「ふふ……この夜に紛れて交わされる殺し合い、実に興味深い。」
もうひとりは仮面をつけた貴族のような風貌の紳士、ベリアル。
「さあ、始めたまえ。地獄の観劇は、我らが糧なのだから。」
彼らは観客であり、裁定者。だが決して助言はしない。戦いを盛り上げること、それが彼らの唯一の役目。
そして、月光がひときわ強く輝いた瞬間、
戦いの幕が上がる。
永遠の夜のビル街。光の届かぬ裏通りは、まるで地獄の口だった。
革靴の底がアスファルトを踏み鳴らす音だけが響いていた。
宗方由梨は無言で歩を進める。黒のパンツスーツ、風に揺れるポニーテール。背筋は静かに伸び、彼女の瞳は冷たく、戦場を見据えていた。
だが――先に音を放ったのは、大塚十郎太だった。
「……よォ、そこの嬢さん。ちょっと付き合ってくれねぇか」
笑っていた。その笑みの奥には、獣の匂いがあった。
彼の足元に、じわりと影が滲む。影の底から――呻き声が響いた。血泡のような声。肉が潰れた音を思わせる、破綻した呼吸音。やがて、這い出してきたのは――裂けた顔面、捩じれた四肢、皮膚のない腕。
「うちの子たちさ……お前に会いたがってるんだよ」
地面から、6体の“死霊”が這い出してくる。それはただの死人ではなかった。指の骨が伸びて鉄条網のように絡みつき、裂けた顎から無音の悲鳴を上げる。内臓が潰れた音を立てながら、腹部を擦り、進む。
――拷問され、惨殺されたままの姿で。
宗方は眉ひとつ動かさなかった。だが彼女の手はすでにジャケットの下のホルスターに伸びている。
グロックの冷たい感触。スライドを引いて確認。フル装填。
「……なるほど。おぞましいわね」
戦が始まろうとする緊張の中、大塚十郎太の担当悪魔ベリアルが観客気分まるだしで
「嗚呼、始まりましたな……十郎太の、孤独な遊戯。死者を以て生を弄ぶ、素敵な晩餐の幕開けだ」
続けて宗方由利の担当悪魔アガレスもまた、まったく緊張感を持たずに答える。
「死者を引き連れて踊る道化か。それとも――餌を撒く猟犬か。だがあの女、愚かではないぞ。さて、どう迎撃するか見ものだな」
宗方は1歩も退かず、構える。
死霊たちが、呻きながら迫る。
夜の劇は、もう始まっている――。
――“開宴”の合図は、呻きだった。
「ぃ”ぃ”い”い”い”い”……っ」
声というにはあまりにも不明瞭で、音というにはあまりにも忌まわしい。
6体の死霊がアスファルトを爪で裂き、四方から宗方由梨へ迫る。
地面には黒く焼け焦げた影が滲み、空気が粘膜のように重たく沈んでいく。
由梨は一歩も動かない。
ただ、銃口を死霊のひとつに向け、引き金を引いた。
パァンッ!
1発。
しかし――死霊は倒れない。
弾丸は肉を裂いても、骨を砕いても、止まらなかった。
死霊の眼窩がじわりと揺れる。口腔から何かが湧き出し、咽びながら、前進。
「……物理じゃ止まらないってことか」
由梨が呟く。
死霊たちが一斉に跳びかかった。
「囲まれたか……」
由梨は咄嗟に後退し、ビルの壁を背にして構え直す。
その瞬間、死霊のひとりが腕を伸ばし、彼女の右腕に掴みかかる――
「ッ!」
間一髪、由梨は死霊を振り払うと、その勢いをさらに加速させ、どう回し蹴りを叩き込む――
他の死霊が脚に巻きつく。
異様に捻れた肢体、内臓が垂れ下がる異形が、彼女を押し倒すように襲いかかってくる。
「ちょっと……しつこいって」
観戦していたベリアルが悪趣味な笑いを夜空に響かせ楽しんでいる
「ふふふふ……愉快でだな。殺してなお這いずり、愛しき彼女に縋りつく。まるで欲望そのものじゃないか」
宗方由梨は冷静だが、状況は不利。
囲まれた。
銃は効かない。
打撃は当然、無効。
これはただの亡者ではない――「操られた怨念」だ。
十郎太は静かに笑う。
「わかるか? コイツら、俺が殺した奴らだ。見ろよ、この顔、この体。全部、俺の“作品”なんだぜ」
背後に現れた3体の死霊が、今度は足元からの侵入を図る。
由梨の視線が鋭くなる。
「……まずいかもね」
彼女はまだ“それ”を使っていない。
だが、今はまだその時ではない。
十郎太が、笑う。
「嬢ちゃん、お前もコレになるんだよ。俺の“作品”にさ」
死霊たちが叫ぶ。
「ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”……ッ!」
十郎太は、最初の“有利”を手に入れた。
死霊に囲まれた宗方由梨は、倒れた体勢のまま、なおも冷静だった。
グロッグの弾倉は残りわずか。射撃は意味をなさない。
「この子たち、物理で倒せないなら……ねえ、こっちも死んだふりすればいいのかな?」
彼女は小さく息を吐くと、瞼を閉じ――
幽体化。
その瞬間、彼女の体は淡く白い光を放ち、物質世界から“すり抜ける”。
死霊の手が彼女の頬を裂こうとしたのを躱し――指が空を切った。
「アアア……?」
怨霊の叫びが疑問に変わる。
彼女の身体は、まるで霧のように実体を持たず、本当に幽霊のようだった。
「ねえ……同じ、なんだよね。あんたたちも幽霊。あたしも、今だけ幽霊」
死霊の背後に回り込んだ由梨の手に、グロッグが現れる。
その銃もまた、実体を離れ、半透明の“幽界の武器”となっていた。
パン。パン。パン。
由梨の放った銃弾が、今度は確かに死霊を“弾き飛ばす”。
肉が裂け、骨が砕ける音が、死の静寂を破った。
6体いた死霊のうち、2体が消滅する。
十郎太の目が見開かれる。
「……なに?」
「幽霊に触れたかったら、幽霊になるのが一番手っ取り早いと思ったけど、当たりだったようね」
由梨がすうっと地面に降り立ち、なおも幽体のまま、残る死霊の間を器用に躱しすり抜ける。
そのたびに、一発ずつ確実に撃ち抜いていく。
残るは3体。
時同じくして由利を担当していたアガレスが
「彼女、意外と戦術的ですね。幽体化がただの回避手段じゃないと見抜いたのは見事。やはり彼女には人並み以上の判断力がありますね。」
ベリアル
「ちっ……何が“幽体”だ。面倒な小娘だな」
十郎太が初めて、歯を食いしばった。
「てめえ……幽体化なんて反則だろ……!」
「反則なんて言葉が出るなら……ちょっとは悪いって思ってるのかな?」
由梨の微笑には、どこか空虚な残酷さがあった。
そして――死霊は残り1体。
満月の光が差し込むビル街で、
血に濡れたステージの下――
死霊の影に隠れていた大塚十郎太の顔が、不気味にほころぶ。
「――ヒヒッ……なるほど、幽霊ごっこか」
血を吐いたような笑いが十郎太の喉から漏れる。
死霊が一方的に撃ち落とされていく異様な光景。
あの娘――宗方由梨は、死霊に物理で対抗しているのではない。
“同じ側に渡って”、殴り合っているのだ。
「幽体化……そういう能力か」
幽霊には幽霊が効く。
ならば。
「その“幽体”、いつまで続けられるんだ?」
十郎太の目がギラついた。
幽体化した直後に由梨は目を閉じ、呼吸を静かに整えていた。
その行動は、「精神の集中」が不可欠であるという証左――
つまり、“長時間は維持できない”可能性が高い。
十郎太は懐からとある小瓶を取り出す。
赤黒い液体に漬かった“舌”。
「おい、由梨……こいつはな、7番目のヤツの一部だ。俺が喰ったあと、声を奪った」
彼は瓶の蓋を開け、液体ごと舌を口に含むと、喉奥で噛み潰した。
「くぅぅ……ッ、あぁッ!」
痛みと快感の混合が走り、脊髄を叩いた。
次の瞬間――残った死霊1体が異常に活性化する。
頭を掻きむしりながら、断末魔の悲鳴を上げて由梨に突進。
「ああああアアアアアアア!!!」
その叫びは“耳”ではなく“精神”を揺らす。
由梨の体が一瞬ピクリと揺れる。
幽体化が――解除される。
「もらった……!」
十郎太は既に手を構えていた。
死霊の視線ではない、“自分自身の狙い”を、正確に重ねて。
ガッ
裂けた顎と爛れた四肢を持つ死霊が、実体を取り戻した由梨に掴みかかる。
その姿を見てベリアルが喜ぶ。
「なるほど、死霊そのものに頼らず“快楽”で繋いだ絆か……36人目の“声”を囁かせ、精神を削る。嫌らしい真似をする」
アガレスもまた展開の変化に興奮しながら答える。
「だが、戦術的には正しい。幽体化の時間制限、それに精神集中の必要性……全部、あの男の“猟奇的直感”が嗅ぎ取ったのだ」
宗方由梨は地面に転がり、肩を裂かれ、グロッグが滑り落ちた。
その唇に、かすかに呟きが混じる。
「……なんで……触れるの……?」
「幽霊ってのはな、人間よりも“人間らしい”。未練がなきゃ、成仏もできねぇ……。
お前の“無”には、届かねぇ。
だが俺の“欲望”には、死者が応えるんだよ……ッ!」
大塚十郎太、優勢。
大塚十郎太の顔に、歪んだ悦楽が張りついている。
幽体化が解除された瞬間、彼の“36の死霊”が由梨の小さな身体を取り囲み、
掴み、裂き、押し潰そうとしていた。
「終わりだ……ガキ……!」
しかし、そのとき。
由梨は笑った。
口の端を、わずかに持ち上げながら。
「……違うのよ」
十郎太の目がすぐに細くなる。
死霊たちの動きが――一瞬、止まった。
「……死霊たちの動きが鈍った。主の命令が――通らない?」
アガレスが疑問に思うとベリアルが疑問に応じる。
「いや、通ってはいる。ただ、“揺らいで”いるだけだ。精神の糸が、裂けかけている」
「あなた……。全部、コントロールしてるんでしょう?」
由梨の片目が、血の中から十郎太を射抜く。
倒れ伏せた身体を起こし、膝立ちのまま手を前へ――
指先が、滑り落ちたグロッグの冷たい金属に触れる。
「あたし、気づいたの。
この死霊たち、自分の意志で動いてない。
だから、どれだけ怖くても、あんたを見てればいい――そうすれば……!」
由梨の引き金が引かれた。
パンッ!
火花が弾け、大塚の右肩が赤黒く染まる。
「ッが……ッああああアアア……!!」
その瞬間――死霊たちの連携が乱れた。
左右から迫っていた2体が同士討ちのようにぶつかり、
裂けた肉の山がバラバラと床に崩れる。
「……操り手を狙えば、傀儡は崩れる。簡単な理屈よね」
大塚十郎太、苦悶。
肩から血を噴き、片腕がぶらりと垂れる。
「チィ……!クソガキが……!!」
悪魔はおおむね人間を見下している。
ベリアルも当然、大塚十郎太にあきれたように
「愚かだな、十郎太。お前は“道具”の性能に酔い過ぎた。
死霊は手段にすぎぬ――敵は、道具ではなく“心”を見た。」
その言葉を引き継ぐようにアガレスが
「まさか、死霊たちの動きの主因が“大塚の意志”だと見抜くとは……なかなかに鋭い娘だ」
死霊たちは今も十郎太の命令に従おうとしている。
しかし、その声が、うまく届かない。
疼く傷が、恐怖と痛覚を通じて“快楽”と混ざり合い、
命令の明瞭さを奪っていた。
「……ッ、クソが、痛ぇ……けど……」
十郎太は再び手を掲げた。
崩れた指の間から、血が滴る。
それでも――“残りの死霊”が、再度起動する。
だが、優勢は崩れた。
由梨が、死霊の弱点に気づいたことで。
大塚十郎太、劣勢へ。
だが肩から血を垂らしながら、大塚十郎太は笑っていた。
「ぐ……ふふ……っは……ははは……! 効いたぞ……今のは効いた……!」
痛みが脳を揺らし、快楽が神経を焼いた。
死霊たちの連携が崩れた今、状況は不利。
――だが、終わってはいない。
彼の左手が、“影”を掴んだ。
その足元に延びていた、由梨の影。
照明の下で長く伸びたそれに、彼の手がじわりと沈み込む。
「もう一つ、見せてやるよ。オレの……“別の地獄”を」
地面が、ぐにゃりと歪んだ。
床に広がった影の中から、何十本もの黒い腕が――**“影の手”**が出現する。
それは由梨の足元を這い、壁を這い、空気を裂くようにうねり出す。
先の戦いで大塚十郎太が真木野真司から奪った能力だ。
観客として宗方と大塚の殺し合いを観ているベリアルが大塚十郎太にテレパシーで話しかけた。
「死霊たちは“記録”でしかない。だがこの“影”は違う……。
これは彼の“本能”から滲み出たもの。
36の死霊の後に、これを出す――ふふ、ずいぶん楽しそうだな、十郎太?」
「死霊ってのは、単なる前菜だったんだよ。
こっからが……オレの本当の“嗜虐ショー”さ」
影の手が、由梨の両脚に巻き付く。
滑らかな絹のような手触り――しかしその力は、コンクリートをも粉砕する力を秘めている。
由梨が拳銃を構える。
「――ッ!」
だが間に合わない。
拳銃を構えたその腕にも、影が絡みつく。
グロッグが床に落ちると同時に、由梨の小柄な身体が、影の奔流に引き倒される。
「捕まえた」
十郎太が、足を引きずりながら歩み寄る。
「さっきは肩を撃たれたが……今度はどうだ?
オレの影の中じゃ、何一つ逃げられない……!」
由梨は咄嗟に幽体化を――しようとした。
が、影が触れている場所には**“実体”**が残されている。
部分的な幽体化を試みるが、影の手がそれを妨害する。
「ここから……好きにできる、なぁ?」
十郎太は、口角を引き上げたまま、指先を振る。
影の手が一斉に、由梨の関節という関節を締め上げる。
肩、膝、肘――鈍い音が鳴る。
由梨、絶叫。
「――っッ!」
ベリアルの目が細められる。
「やはり、彼の真価は“恐怖と拘束”にある。
相手を痛めつけ、逃げ場を封じ、心を壊す。
この執着は……死霊よりも純粋で、深い」
大塚十郎太、再び優勢に立つ。
ここからは一話にまとめると長くなるので前後編に分けていこうと思います。