乃木坂涼子VS天満宮紅子
永遠の夜が支配する世界。
現実から切り離されたこの空間では、ビル街の谷間に真昼のような満月の光が降り注いでいた。
鋼鉄とガラスの狭間に延びる一本の道は、まるで夜の舞踏会へのレッドカーペット。
そこに、二つの影が現れる。
ひとりは――
ピンクのルーズソックスにミニスカート、フード付きパーカーを羽織った女。
つけまつげの重さに耐えるようにまぶたを伏せ、手にはスマホとストラップだらけのバッグ。
ゆるゆると腰を振りながら、彼女は無意味に通りを歩いていた。
「ねえ〜……ここってどこぉ? まじウケるぅ……なんか、月、でっかくなぁい? え、なにここ夢?ねぇ夢?」
彼女の名は、乃木坂涼子。
思考は軽く、感情も軽く、生きることすら軽く。
だがその手に握られた小さなスマホケースの中には、すでに血で濡れた過去が眠っている。
その声に応じたのは、反対側から優雅に歩いてくる女だった。
真紅のドレスのように翻るコート。
ヒールの音がコツコツと静かに響き、腰まである黒髪が月光に照らされ艶めく。
「まぁ……随分と下品な声が聞こえてきたと思えば。月が泣いておりますわよ?」
その女の名は、天満宮紅子。
成功を当然と信じ、敗北を現実として認めない、傲慢にして冷静な勝者の顔を持つ女。
涼子は大袈裟に目を見開いて、紅子を見上げた。
「え〜〜〜なになに〜? お嬢さま系〜? すごーい、でもさぁ〜、その服……ちょっと古くない? なんか“世界の女王様です”って感じぃ〜〜……」
紅子は口元に笑みを浮かべた。
「ふふっ、ええ。世界の女王様ですもの。あなたのような虫けらには、恐れ多いのでしょうけれど」
そのとき、空に二筋の影が差した。
オフィスビルの屋上に、二体の悪魔が立っていた。
一柱は――ベレト。
ライオンの頭を持ち、炎を纏った胴体から、月光を撥ね返す黒い甲殻が不気味に光る。
「始まるな……人間の滑稽な愛情劇だ。ふん、くだらん」
もう一柱は――フルフル。
蝙蝠のような翼に、美しい女の顔を持つこの悪魔は、涼やかな笑いを漏らす。
「くだらなくて、愉しいのですよ。愛は戦いより滑稽で、戦いより残酷。どちらが勝っても……素敵な終わりが待っているでしょう?」
フルフルが楽しげに手を叩くと、ビル街の照明が一瞬にして落ちた。
満月の光だけが二人を照らす舞台。
紅子の足元から、緑の蔓が蠢くように伸びてくる。
涼子は胸元からスマホの裏に挟んでいたピンク色のメモ帳を取り出す。
「えっと〜、ポエム、ポエム……今日の気分で書いたやつ……『強くなったあたしが、お花のお姫さまをふみつぶすの』……これで、いっか♡」
言葉が放たれた瞬間、彼女の背後に巨大な影が立ち上がった。
無骨で歪んだ力に満ちた、おとぎ話に出てくるモンスターのような影。
「まぁ……面白いじゃありませんの」
紅子が小さくつぶやいた瞬間、彼女の背中から無数の蔓と花弁が生え始める。
──永遠の夜。
──月の舞台。
──滑稽な戦いと、偽りの愛。
悪魔たちが見下ろす中で、
ふたりの女の戦いが、幕を開けた。
舗道に、甘ったるい香りと草の青臭さが混ざった風が流れる。
その中心に立つのは、女王のように背筋を伸ばした天満宮紅子。
「あなたのような凡庸で無様な女でも……この舞台では一応、相手にして差し上げますわ」
その口調には憐れみでも軽蔑でもない。
ただ、自分の世界においては“どんな存在であろうと他人は道具”という確信だけがあった。
一方の乃木坂涼子はというと、ポエム帳を指でくるくるしながら笑っている。
「え〜〜〜、なになに〜? あたし、いきなりやるとかムリぃ〜。ちょっと休憩とか無理〜〜? てか〜、そのツルみたいなの、さっきからウネウネしてるけど、なんかエロいんだけどぉ〜〜♡」
紅子の瞳が、ほんのわずかに細められた。
「……その口、戦いが終わるまでに潰して差し上げます」
──その瞬間。
紅子の足元から音もなく何かが突き上がる。
植物の鞭だ。
アスファルトを突き破るようにして出現し、涼子の首を狙う。
「きゃーーッ!? うそぉ〜!? いきなり〜〜!? ひど〜〜い!」
涼子は地面を転がりながらよけた。
背中に刺さったアスファルトの痛みを、彼女は表情一つ変えずに受け流す。
「……ねぇ〜〜、ひっどいよねぇ〜、ちょっとくらいおしゃべりタイムしても良くない〜〜?」
紅子は無言のまま、左手を軽く振る。
すると、その手元から細い蔓がまるで意思を持つかのように地面に沿って涼子に向かって走る。
涼子はようやく、スマホの裏から新しい下手糞なポエムを取り出した。
「えっとぉ〜〜、こっちのが強いかなぁ……『ムカつく女の足が、アメーバみたいにとけてくやつ〜♡』」
その瞬間、彼女の背後から伸びた影が、モコモコと形を変え始める。
黒く、ぬめるような質感を持つ腕が、まるで触手のように伸びる。
ただの幻影ではない。
“言葉”を“力”に変える、愚直な現実操作。
「ふふ……まぁ、少しは楽しませてちょうだい」
紅子は、踵を鳴らすように軽く足を踏み出した。
そして――
ビルの壁を伝って、数本の花鞭が涼子を挟み撃ちにするように放たれた。
涼子はポエム帳を開きながら、ポツリとつぶやいた。
「まじやば〜〜……でも、ちょっと楽しいかも♡」
彼女の足元からは、トゲだらけの巨大なクマのぬいぐるみの影が、地面を這うように姿を現す。
夜のビル街、
月光のカーペットの上で、
無責任な願いと傲慢な欲望が、ゆっくりと火花を散らし始めていた。
「このぉ〜〜〜〜、お嬢様ぶった上から目線女ぁぁっ!」
──ポエムが燃えた。
乃木坂涼子の指先でくしゃっと握られた紙がピンク色の火花を散らしながら燃え上がると、
その周囲の空気が弾けるように震えた。
「『お花畑に連れてってぇ〜♡ でもツタでびっちり絡めて動けなくしてくれるやつ♡』……っとぉ〜〜♡」
瞬間、アスファルトを割って**ド派手な花びらに包まれた“ロマンチック拘束植物”**が出現した。
ピンクとパステルグリーンの蔦が、リボンのように空を舞い、ビルの壁を這いながら天満宮紅子を囲う。
「……自分の能力と他人の能力の区別もつかないのかしら?」
紅子は冷ややかに笑い、
指先をくいっと持ち上げるように動かした。
すると地面から、まるで触手のようなツタ植物が別の動きで起き上がった。
──それは紅子自身の能力が生み出した、自律型の植物兵器。
「私の植物は……躾が行き届いておりますのよ」
ブンッ!
自律植物の一本が、涼子の“ポエム植物”を叩き落とす。
ふたつの能力がぶつかり合う中、周囲のビルの窓ガラスが震え、
夜の闇に**きゃる〜ん♡**という謎の効果音が響く。
涼子はひらひらとスカートを気にしながら後退した。
「え〜〜〜!? やだぁ〜〜、マジで戦闘ガチ勢なんだけどこの人ぉ〜!? ホストとケンカしたときよりキツい〜〜!」
紅子はそのまま一歩前に出た。
まるで優雅な舞踏会の始まりのように。
「私は、“世界”を統べる女ですもの。
あなたのような浅ましい生き物とは、根本から立っている舞台が違いますわ」
涼子はポエム帳をもう1ページめくる。
鼻で笑いながら、ぶつぶつと詠む。
「え〜〜っとぉ〜〜……『女王様の心臓がキャンディみたいに砕けて、ピンク色の汁が飛び散る』……ふふっ♡」
すると、彼女の背後から血飛沫のような飴色の弾丸が植物の中から飛び出す。
ポエム式迫撃弾、直撃すればそれなりにエグい威力がある。
紅子は軽く息を吸い、右手を横に振る。
直後、地面を這うように伸びた太いツタが迫撃弾を薙ぎ払った。
──夜の道、舗装されたアスファルトの上、
二人の女が能力を重ねていく。
花と影、詩と現実、欲望と虚無。
この戦いは、
どちらが“自分”を持っているかを問う舞台だった。
「うわ〜♡ やっぱムカつくぅ〜♡ お嬢様とかほんと無理ぃ♡♡」
涼子はスキップのような足取りで一歩引くと、
ポエム帳の1ページを豪快に破って宙に舞わせた。
「読んじゃうよ〜〜♡♡
『世界中の男たちが、私の涙で溺れて死ねばいいのに♡』」
ひゅるるる……
空に舞ったページが淡く光り出す。
その光がまるで月の涙のように弾け、
空気がねっとりとした甘い香りで満ちた。
そして──
天満宮紅子の足元の地面が、泥のようにとろけ始めた。
「……!? 何これ」
紅子が跳び退こうとした瞬間、
泥からツタとは違う質感の“ピンク色の手”が無数に現れ、脚を引きずり下ろす。
それは“男の涙でできた手”──
涼子のポエムに感情を込めた一撃が、紅子の足を捉えた。
「うわあっ!?」
紅子は膝から崩れるように地面に片膝を落とす。
その瞬間、涼子がもう一枚、ポエムを引きちぎって空に掲げた。
「読んじゃえ〜〜♡ 『うちの心の中でだけ咲く花は、ドクロでできてるの♡』」
すると、紅子の背後から、
骸骨の花びらを咲かせた巨大な花が開花した。
バァン!
ドクロの花が爆ぜるように散り、
紅子の背に爆発的な衝撃が走る──
彼女は背中からコンクリに叩きつけられた。
「ぐっ……!」
その瞬間、路地裏の陰からひとつの嗤う声が響いた。
「……ほう、やるじゃないか、あのバカ女」
声の主は、悪魔ベレト。
紅蓮の炎をなびかせ、電柱の上から涼子たちを見下ろしていた。
「知性も理性も皆無、ただの享楽主義の権化……だが、
詩に魂が乗ると、凡人の妄想も現実を侵す。愉快だな」
その隣に立つのは悪魔フルフル、
背中に羽根のような影を揺らめかせ、うつろな声で囁いた。
「でも……あれ、本人が本当に意味わかって書いてるのかしら……?」
「関係ない。力は意思の強さでなく、“感情の濃度”だ。
──あの女は、現実の痛みや倫理に、一切のフィルターを持たない。
それが“力”になっている。皮肉な話だがな」
戦場の中央、涼子は無邪気に笑った。
「ねぇ〜♡ なんでぇ? さっきまでイキってたのにぃ♡♡
やっぱ、お嬢様って打たれ弱いんじゃ〜ん♡」
紅子は静かに立ち上がる。
スーツの肩口が破れ、白い肌にうっすらと煤がついている。
「……まさか、あなたのような人間に手傷を負わされるとは……」
瞳が、ほんの僅かに見開かれた。
「許せませんわね……この不愉快さ。
少し、“本気”でいかせていただきますわよ」
その足元に、再びツタがざわめき始める──
戦いは、これから激化する。
「──あなた、本当に……下品ですこと」
紅子の声が静かに響く。
その口調に、もはや嘲りも侮りもなかった。あるのは、徹底した侮蔑と怒り。
涼子がポエム帳の次の一枚を破ろうとしたその瞬間──
バシィッ!という破裂音と共に、彼女の右手首に鋭いツタが絡みついた。
「へ……? うそ、え、ちょ、痛っ♡」
紅子の足元からうねるように伸びた黒緑のツタは、
まるで生き物のように涼子の右腕を巻き取り、ぐいと引き寄せた。
「申し上げておきますけれど、私──
“甘く見られる”のが、何よりも嫌いなんですのよ?」
ズルルッッ!
涼子の身体が引き倒され、地面に叩きつけられる。
「がはっ……♡ い、いた……♡ なにこれぇ……♡」
紅子は指をぱちんと鳴らした。
その瞬間、地面のマンホールの隙間から、何本ものツタが噴き上がった。
まるで火山の噴煙のように──
「蔦よ……喰らいなさい」
ツタたちは、赤い口腔のような裂け目を開き、涼子に群がる。
「ひぃ……♡♡ やめてってばぁ! 涼子ちゃんそういうプレイ嫌いなんだってばぁ♡♡」
涼子は慌ててポエムを叫ぶ。
「『この世界が全部お花畑になればいいのに♡』」
その言葉と同時に、あたりの舗装が薔薇とスミレの絨毯に変化する。
だが──それは植物の支配下であり、
紅子のツタにとっては、ただの増援だった。
「“植物を生成する”とだけ思っていただいては困りますわ。
私の能力は、“あらゆる植物を、私の支配下に置く”──その程度の応用、基本ですの」
涼子のポエムが自身の首を絞める結果になったのだ。
上空から、ベレトとフルフルの声が重なる。
「──形勢、逆転だな」
「やっぱり、あの子……バカなのね。」
「しかし、それが実に人間らしい。愚かで、滑稽で、美しい。
詩を武器にしながら、言葉の意味を殺す──まるで神話の逆再生だ」
地面に引き倒され、ツタに巻かれ、ポエム帳を落とした涼子は、
その胸元を這う蔓にビクリと肩を震わせながら──
「うそ……うち、負けちゃうの……?」
わずかに浮かぶ“涙”は、ポエムでしか現実を動かせなかった少女の真の感情か。
紅子の目が細まる。
その口元には、今や完全なる支配者の笑みが浮かんでいた。
「あ、あのね……」
ツタに絡め取られ、頬を土に擦りつけながらも、涼子の手はじわじわとポーチに伸びていた。
お花畑に変わったアスファルトが、彼女の“言葉”に反応し、かすかに震える。
「……涼子ちゃん、今の……すっごく、ムカついたから……」
涼子は涙を浮かべたまま、ポーチからキラキラのペンを取り出した。
それは推しホストにもらった、ただのキラキラしたノベルティ。
けれど彼女にとっては唯一の“愛の証拠”。
そのペンで、ボロボロになったポエム帳の余白に殴り書く。
『わたしの気持ちをふみにじるお花は 燃えてなくなってしまえ♡』
──直後。
「ひぃっ⁉ な、何ですのコレはっ!?」
紅子の背後の自己判断型のツタ植物たちが、爆ぜるように発火した。
メキメキ、ボォオォッ!!
神経節を持ったツタの中枢部から出火し、制御不能な炎が紅子の周囲を巻き込む。
「うそぉ♡ やっちゃったぁ……♡」
涼子はポエム帳を手に立ち上がり、
火に包まれた紅子を見ながら、うっすらと笑みを浮かべた。
空中に佇む悪魔たち──ベレトとフルフルが囁き合う。
「ふふ……奇跡のようだな。知性のない衝動が、たまに正しい。」
「人間という存在が“バカ”で“可哀想”で“面白い”から……
こういう偶然が起きる。好きよ。こういうの」
ベレトは微笑しながら涼子を見下ろした。
「言葉には意味があり、意味には力があり、力には代償がある。
だがこの少女は意味も力も代償も理解せず──ただ、愛されたいと叫ぶ」
紅子の身体は一瞬、ツタの盾で包まれる。
しかし“自己判断型植物”はすでに暴走を始めており、
その防御は完全ではなかった。
「私の……ツタが……勝手に……!」
紅子の顔に、初めて焦りの色が浮かんだ。
そして──
ツタの焼け焦げた匂いと共に、風向きが変わる。
涼子は新たなページを破りながら、小首をかしげて言った。
「ねえ、あたし、やっと分かったかも♡
“好き”って言葉……燃やすときに、一番キレイに燃えるんだね♡」
「……随分と、やってくれましたわね」
炎の中から立ち上がる天満宮紅子。
そのスーツは焼け焦げ、髪は乱れ、ツタの一部は炭化していた。
しかし、彼女の瞳には焦りも困惑もない──ただ、静かな怒りと確信。
「教えて差し上げますわ、乃木坂涼子さん。
この私に触れたこと、それがどれだけ罪深いかを──!」
彼女がヒールでアスファルトを叩くと、周囲の地面が花崗岩に変化したようにひび割れ、
そこから巨大な蔓が音もなく這い上がってくる。
「第七成長領域、展開……」
彼女が小さく囁いた瞬間、空気が震えた。
一瞬にして、道の中央から30メートルを超える巨木の幹が生え上がり、
その周囲に密生するかのように、自己判断型の捕食植物たちがうごめく。
ツタは明確な意志を持ち、振動と熱を感じ取り、
炎をまとってもなお、自律的に標的を求めていた。
──否、それは“森”そのものだった。
紅子の能力、隠された第2段階。
彼女の中にしか存在しない神経節型捕食植物の森。
「この森では……私の許可なく、息一つできませんのよ?」
涼子はその“森”に囲まれながら、ポエム帳を握りしめたまま、怯えた声を上げる。
「な、なにこれぇ……怖い、怖いよぉ……!」
足元から這い寄るツタは、炎にも怯まず彼女を絡めとる。
しかもその動きは前よりも速く、狡猾だった。
「……実況にしては、あまりに苛烈な展開だな」
ベレトが言った。
「紅子嬢は“勝つ”ために感情を燃やすタイプじゃない。
勝つのが当然と思っている人間が“少しムキになる”時ほど恐ろしいものはない」
フルフルが笑った。
「愛されたいがために詩を書く少女と、
支配するために植物を育てる女王……皮肉な構図ねぇ」
ツタが涼子の足を掴んだ。
今度は逃げられない。
「ごめんね、涼子ちゃん? あなたにはちょっと、世界が重すぎましたのよ──」
天満宮紅子は、微笑んだ。
「さようなら、愚かなる“夢見る乙女”さん」
「うぅ……やだよぉ……死にたくない、死にたくないよぉ……!」
涼子はツタに絡め取られながらも、涙と鼻水を混ぜたような顔でポエム帳を必死に開く。
すでに何ページも破れていたが、彼女の指が震える中、ようやく1枚のページに辿り着く。
そこには、雑な丸文字でこう書かれていた。
「おそろしいものぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、こわくなくなったらいいのに
おそろしいせかいがぜんぶ、ふわふわのピンクになっちゃえばいいのに」
「うぅぅぅぅぅぅぅぅっ……!」
声にならない泣き声とともに、彼女はそれを破る。
刹那──
「世界がピンク色に塗り替わる」
まるで現実がデコレーションケーキに塗られるように、
紅子の神経節ツタ植物が、ピンクの綿あめのような物質に変化し始める。
「な、なっ……これは……?」
天満宮紅子の顔が引き攣った。
「私の、アストリア・ネメシスが……“お菓子”に変換されていく……!?」
地面がスポンジケーキのようにフワフワと沈み始める。
鋭利なツタはマシュマロに、神経節はメレンゲの泡になって消えていく。
「えへへ……これで、こわくない……」
涼子がしゃがみ込み、うっすらと笑う。
彼女の手にはもう一枚の詩があった。
「わたしをいじめるひとはみんな
すっごくすっごくかわいそうな人たちになっちゃえばいい」
破る。
同時に──
紅子の身体を包んでいた高級スーツが、ドン・キホーテで売ってそうな猫耳フード付きルームウェアに変化した。
「なっ……なにこれっ!? ふ、不潔っ……不潔ですわっ!!!」
紅子の叫びは届かない。
涼子の能力が短時間だけ世界の現実構造を“ふわふわポエム”に上書きしたのだった。
「……あのバカ、馬鹿力で奇跡を起こしたな」
ベレトが感心するように呟いた。
「彼女には知性も戦略もないが、心から絞り出す叫びだけは……世界を揺らす力がある」
フルフルがぽつりと言った。
「“詩”っていうのは、心に正直な奴が使うと、一番怖いのよ」
一瞬の反撃。
乃木坂涼子、感情の全てをぶつけるポエムの現実化で紅子に対し再び有利を取った。
だが、それは──自分の“破綻”と表裏一体だった。
──ふわふわな世界は、長くは続かなかった。
ピンク色に染め上げられたツタは、しばらくして力を失い、萎れ落ちた。
飴細工のように変化した舗装も、徐々に現実のアスファルトへと戻り始めている。
幻想は一瞬、そして──残されたのは、消耗した涼子の小さな背中だった。
彼女は、膝を抱えて蹲っていた。
ポエム帳はもうページがない。
破りすぎて、使える言葉が尽きていた。
──それでも、呟く。
「……ホストくん、今ごろなにしてるのかな……」
声はかすれていた。
頬を伝う涙は、もう感情の表現ではなかった。
涙を流している自分が、愛される女の子であると錯覚したいだけだった。
「わたしが……愛されたら……きっと、変われるって……思ってたのに」
涼子の指が、傷だらけの肌をなぞる。
さっきまでツタが巻き付いていた箇所が、赤く腫れている。
「なのに……なんで……? こんなに痛くて、こわくて、むなしいのに……」
ポエム帳の、最後の背表紙に、小さなメモ書きが残っていた。
「ホストくんがぎゅってしてくれたら、
わたし、ちゃんとわらえるきがする」
「ねえ、ホストくん……」
「ほんとうに、わたしのこと──好きだった……?」
言葉が虚空に消えていく。
そのとき、涼子の中でひとつの“願い”が、はっきりと浮かび上がっていた。
それは、彼女が意識していなかった本当の願い。
──「ホストくんに、本当に愛されること。」
ただそれだけ。
誰かに、存在を肯定されること。
この“クズな世界”で、たったひとり、抱きしめてくれる存在を手に入れること。
それが彼女の、唯一の希望であり、虚構の世界に投げた願いだった。
「……綺麗なモノローグだな」
どこからか、悪魔ベレトの低い声が響く。
「だが、“本当に愛される”ってのは、誰かの心を支配するって意味だ。こやつ、気づいてないようだが、欲望はけっこう重いようだぞ?」
フルフルが鼻で笑う。
「愛されるために、どこまで壊れていけるか──それを見たいのよ。人間ってさ、愛のために、自分すら裏切るから」
「……ッはぁ、はぁ……」
乃木坂涼子は、最後の力を振り絞り、ポエム帳の切れ端に震える指で書きつけた。
「この世界で、わたしだけが、
ほんとうに愛されていい女の子になりますように。」
その願いは、まるで子供の落書きのように無邪気で、しかし痛々しい。
一瞬、あたりの空気が震えた。
涼子の足元から、花びらが舞い上がり、彼女の周囲に幻の楽園を生み出そうとする。
「──まだやるつもり? 見苦しいわね」
天満宮紅子の冷たい声が夜を裂いた。
彼女の背後に広がるのは、意志を持って蠢く、神経を宿したツタの森。
ツタの一本が、足元のアスファルトにパイルのように突き立ち、地響きとともに涼子を狙う。
「あなた、わたくしに跪くどころか、自分を愛して欲しいだなんて。冗談も休み休みにしなさいな」
バッと、巨大な花弁が開く──
その中央に浮かぶのは、肉を喰らうための牙に満ちた口。
涼子の詩が生んだ花々を、紅子のツタが喰らい尽くしていく。
「だいじょうぶ……まだ……わたし、かわいくなれるから……」
ポエムを握りしめた涼子が、もう一度立ち上がろうとした、その瞬間──
紅子の命令すら介さず、自己判断で動く植物のツタが、涼子の腹を正確に貫いた。
「……が、はっ……」
赤い液が、ぬるく服を染める。
その場に崩れ落ちた涼子の瞳は、どこか信じられないという色を浮かべていた。
──"こんな結末"は、ポエムのどこにも書かれていなかった。
悪魔ベレトが観戦席で小さく笑った。
「終わったな……くだらない“愛”のポエムなど、自然の本能の前には通用しなかったようだ」
フルフルが肩をすくめて言う。
「けどまぁ……あの子、最期の表情は悪くなかったんじゃないかしら? “愛されなかった”と分かった顔って、美しいわよ」
永遠の夜の空に、満月が沈黙を落とす。
乃木坂涼子の身体が、ゆっくりと花弁の中へと包まれていく。
まるで誰かの愛に包まれるかのように──
それは彼女のポエムが現実になった、皮肉な形だった。
**
静寂を破ったのは、観戦席に座る2柱の悪魔の声だった。
「愛とは、やはり痛みとセットなのか。フルフル、お前はどう思う?」
紅く長い舌を覗かせながら、ベレトは退屈そうにあくびをし、片手で涼子の残骸を指さす。
「あの子、“本当に愛される”って願ったけど、
願うってことはつまり、“今は愛されてない”って自覚してるってことよね?
──皮肉なものだわ。」
フルフルは涼しげに笑いながら、膝の上で踊る小さな植物を摘み取った。
「ポエムは魔法。けどね、魔法って、知性がなきゃ使いこなせないのよ。
乃木坂涼子、あの子は……ただの“道化”だったわ」
ベレトが鼻で笑う。
「だが……道化には道化なりの美学がある。
嘘でも“愛されてるフリ”にしがみついてたあの表情。
悪魔の我々でさえ、少しだけ──ゾクッとしたぜ」
フルフルが目を細める。
「嘘で満たされた心が、一番綺麗に砕ける瞬間を見たからね。
…ああ、あたしもまた1つ、愛らしい“破片”を見つけた気分だわ」
ベレトは立ち上がり、手を打った。
「それでは、次の演目といこう。夜はまだ終わらい、
観客たちも──血と悲鳴に飢えてる」
月がまた、不気味に煌めいた。
倒れ伏す乃木坂涼子の姿を残し、夜の帳は風もなく静かに降りていた。
だが、その沈黙は永くは続かない。
――次の二人の、足音が響き始める。
場所は変わらない。
オフィスビルに挟まれた無機質な道路のど真ん中。
そこに現れるのは、まるで対照的な二つの存在だった。
一人は、冷たい月光に照らされた長い髪を揺らす女。
整った顔立ちに不敵な笑みを浮かべながら、ハイヒールで静かに歩を進める。
もう一人は、重たい足取りで現れた獣の目をした老人。
だが、その顔には浮ついた笑顔が浮かび、スマホのライトをいじっている。
二人の間を引き裂くように、空間の上空に二柱の悪魔の影が浮かび上がる。
ひとりはアガレス。
腕からカラスのような翼を生やし
背中に蝙蝠のような翼を広げ、優雅に椅子に腰掛けた悪魔の公爵。
知識の化身たるその姿は、世界のあらゆる理を俯瞰している。
「さて、次はどんな“人間劇場”を見せてくれるのかしらね」
ベリアルが微笑む。
「この世界は彼らの内面を映す鏡に過ぎません。
誰が舞台に立とうと、最も醜い者が最も輝く──それが“地獄の美学”でだ」
アガレスが静かに囁く。
月が、今夜も照りつける。
この夜に終わりはない。
観客の誰もが血と絶望の次幕を待っている。
闇の舞台に、新たな役者が立つ。
初戦のラストバトルでござる。