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真木野真司VS大塚十郎太

──静寂が、舞台を形づくる。


高層ビルが林立する都市の片隅に、ひときわ異様な建造物があった。

かつては公営の劇場施設だったというが、老朽化が進み、取り壊し予定のまま数年が経過していた。


外壁にはスプレーで描かれた落書きがびっしりと重なり、

窓は板で打ち付けられ、周囲は完全な無人地帯。


だが今──その中に二人の影が、確かに足を踏み入れようとしていた。


最初に現れたのは、薄暗いロビーをゆっくりと歩く男。


白シャツの胸元に、乱雑に吊り下げられたLEDライト。

ベルトポーチには、懐中電灯、小型フラッシュ、果ては軍用閃光弾まで収められている。


真木野真司まきの しんじ・28歳。


その表情に感情の起伏はない。

あるのはただ、無言の「確認作業」のような目線だけ。


彼はポケットから小型ライトを一つ取り出し、スイッチを入れる。

影が壁に映り、黒く広がっていく。


その影の端から、黒い指先がわずかに蠢いた。


真木野……ここか


そのつぶやきにも、喜びも不安も、何もなかった。


一方、裏口から音もなく劇場に足を踏み入れる者がいた。


大塚十郎太おおつか じゅうろうた・67歳。


くすんだジャケットを羽織り、杖をつきながら歩く老人。

だが、その瞳だけは妙にギラついている。

笑ってもいないのに、口元は薄く引きつって歪んでいた。


足を踏み入れた途端、彼の背後で**何かが“這う音”**がした。


暗闇から、歪なシルエットが現れる。


──手足が逆に折れ曲がった者。

──口を閉じたまま、裂けた腹から呻き声をあげる者。

──両目を塞がれ、身体中から煙のように苦悶を放つ者。


いずれも、人間の面影を辛うじて残しながら、**この世ならざる“存在”**に成り果てた。


それらが、大塚の背にまとわりつくように集まっていく。


大塚「……ふ、ふふ……今夜も、来てくれたかね……」


喜びでも恐怖でもない、妙な安堵がその声にはあった。


(……誰にも、見つかってはいけない。誰にも……俺の生き方を邪魔させてはならん)


その胸の奥で、ひそやかな願いが、陰のように蠢いている。


やがて二人は、中央ホール──舞台と客席が朽ちたまま残る空間で、視線を交差させた。


真木野は無言のまま、またライトを一つ点ける。

その影が床に落ち、そこから“黒い手”がじわじわと伸びる。


大塚の背後では、36の死霊たちが苦悶に満ちた声を上げながら、ぬるりと姿を現す。


誰も拍手しない。

誰も見ていない。


──けれど舞台は、始まろうとしている。


──静けさの中で、蠢く本能と空虚。


崩れた舞台の中央、薄暗いスポットライトのように、天井の穴から外光が漏れている。

その光を囲むようにして、ふたりの男が立っていた。


片や、感情の欠落した青年。

片や、快楽殺人の常習者である老爺。


静寂の中、大塚十郎太が最初に口を開いた。


「……お前も、招かれたか。何を望んで、ここに来た?」


その声はしゃがれ、どこか探るような調子だった。

だが真木野真司は応えない。無言で足元にライトを置き、角度を変える。

すると床に伸びた影が変形し、そこから複数の黒い手が生え始める。


「……答えたくないか。いや、違うな……感情がないのか、お前は。」


大塚は舌なめずりをするように口元を拭った。


「いいなぁ、若い身体は。……この爺さんにも、少しは楽しみをくれよ」


その瞬間──大塚の背後で、影のように蠢く36の“死霊”たちが姿を現した。

異形の顔、欠けた四肢、無数の血と裂け目。

呻き、嘆き、叫びながら、だが攻撃の命令を待つように舞台袖で蠢いている。


(……来る)


真木野はひとつ、わずかにまぶたを下げ、

手に持った小型ライトのスイッチを押す。


ピカッ──!


瞬間、暗闇に光が刺さり、黒い影が床と壁に生まれる。


そこから伸びた十数本の**“影の手”**が、這い寄るように静かに地を這い始める。


大塚は死霊たちに軽く合図する。

刹那、呻き声をあげながら数体の死霊が舞台に躍り出る。


歪んだ笑顔を浮かべた死霊たちが、獲物に向かって手を伸ばす。


だがその時──


「……っ」


一体の死霊の足に、黒い手が絡みついた。

影は足を引き裂くのではなく、重く、粘つくようにまとわりつき、

死霊の動きを封じていく。


(……遅い)


真木野の心に浮かぶのは、ただその一言。

怒りでも歓喜でもない。

まるで、「実験対象」の反応を見ているかのような、無表情な観察。


一方、大塚は笑みを深める。


「……ほう。何か芸はあるようだな。ならば──少し、増やすとしようか」


**


舞台の暗がりに溶けるように、十体を超える死霊がぞろぞろと現れる。

舞台の下から、二階席から、天井の崩れた梁の上から。


苦痛に歪んだ顔が、黒い手に向かって殺意をぶつけてくる。


真木野は、小型のLEDを二つ取り出し、床に投げた。

複数の角度から新たな影が走り、“影の手”の群れが倍増する。


黒と灰のコントラストが、舞台を染めていく。


──地獄の幕は、まだ開いたばかり。


──影と亡霊、舞台を埋めるのは静寂か、叫喚か。


沈黙を破るように、一体の死霊が叫び声を上げながら真木野へ突進する。

血に濡れたような足音が舞台に響き、口からこぼれる呻きは理解不能の言語と痛みの記憶の残滓。


(来る)


真木野は一歩も動かず、ただ足元の影を伸ばした。

死霊が踏み込んだ瞬間、床から突き出した三本の黒い手がその足を絡め取る。

動きが止まった死霊に、続けざまに他の影の手が胴を押し倒し、

最後には喉元に一本が巻き付き──動きが、止まる。


「死者をも捉えるか……面白い」


大塚が口元を歪める。

「だが、そんなもんで全部を止められると思うなよ……!」


その声に応えるように、十体を超える死霊たちが一斉に飛び出した。

観客席の通路から、天井の崩れた梁から、舞台袖の暗がりから、

あらゆる死角から呻きと共に迫り来る“生前の痛みをまとった亡者”たち。


真木野は目を細め、小さなペンライトを三つ、

指の間から投げるようにして舞台に転がした。


床に生まれる影。

天井の梁が生み出す深い闇。

舞台照明の死角が伸ばす長い影。


それらが次々と連なり、

何十本もの黒い手が、絡み合うように立体的に形成される。


──ひとつ、死霊の首が締め上げられた。

──ひとつ、腹を貫かれ、舞台に磔にされる。

──ひとつ、空中で手足を引かれ、もがいた果てに霧散する。


(……反応は、悪くない。だが、まだ足りない)


真木野の顔に感情はない。

ただ、何かを確かめるような冷ややかさだけが残る。


その背後──

舞台の照明機構の陰に潜んでいた一体の死霊が、

影をすり抜けて真木野の背中へ飛びかかった。


その瞬間、真木野は閃光弾を取り出し、足元に投げる。


──バンッ!


激しい光と音が舞台を満たし、

その眩光が作り出す圧倒的なコントラストで巨大な影の手が現れる。


その腕は他の影とは異なり、骨と血のような意匠すら感じさせる。


真木野はゆっくりと指を握る仕草をする。


影の巨大な手が、襲い来る死霊を掴み潰すように握りつぶした。


バキィン、と乾いた音が舞台に響く。


大塚はなおも笑みを崩さない。


「いいねぇ、もっと見せてくれ。

君がどれだけ“自分を証明”したいのか、俺は見ていて飽きないよ」


その背後ではまた、新たな亡者の影が、舞台袖から浮かび上がる。


戦いは、まだ始まったばかり。

舞台は地獄絵図、演者はふたり、観客は悪魔。


──影と亡霊の舞踏会が、今まさに幕を開けた。


舞台全体に漂うのは、死霊たちの呻き声と、焦げた匂いだった。

真木野は、沈黙のまま立ち尽くしている。

彼の足元から伸びる影は、まるで呼吸するかのようにゆらめき、舞台全体に網のように広がっていた。


「影……広げてやがるのか。いい度胸してんな、おい」


大塚は鼻で笑いながら、掌を振りかざす。

その手のひらから、黒い瘴気を纏った三体の死霊が現れる。

いずれも両腕が不自然な方向にねじれ、顔面は焼けただれたまま、絶えず呻き声を上げていた。


「こいつらはな、俺が“時間をかけて”作った芸術品だ。味わってくれよ」


死霊たちが一斉に跳びかかる。

天井から、床から、左右から。


その瞬間──

舞台の端に仕込まれた小型の白色LED照明が突如起動。

真木野があらかじめセッティングしていたリモコンのスイッチが静かに押されていた。


「影が、伸びる」


彼は呟いた。

直後、強烈な照明が舞台上の物体に硬い陰影を生じさせ、

そのすべての影から同時に無数の手が出現した。


──三体の死霊が、一瞬で空中で停止する。


影の手が脚を掴み、背骨をねじり、顎を押し上げる。

苦悶の声すら、絞り出せない。

そして。


ズドン!


舞台の床に、同時に三体が叩きつけられる。

その衝撃で、観客席の木の装飾が軋み、

舞台全体が薄く揺れたように感じられる。


「……さっきのと、違うな」


大塚が、初めて眉をひそめた。


「影はただの武器じゃない。網なんだ。お前の“領域”ってわけか」


真木野は答えない。

ただ照明の光の反射を見つめて、言った。


「境界を拡げているだけさ。生きてるって、そういうことでしょう」


彼にしては珍しい言葉だった。

どこか、感情らしきものを探ろうとしているような。


だが、そこに温度はない。


大塚が後退る。

背後に影がない場所を選んで位置取りを変えようとするが、

真木野はすでに次の照明を起動していた。


──照明の海。

──影の網。

──そして、無数の腕。


それはまるで、神の裁きの手のように舞台全体を覆い尽くしていた。


ここに来て、戦いの主導権は完全に真木野真司が握った。

だがその瞳には、勝利の喜びも、誇りもない。


ただ、自分の感情がそこにあるかを、

確かめようとする焦燥と空虚だけが映っていた。


──屠殺人の足音は、いつだって静かに迫る。


「──ちっ」


倒れ伏した三体の死霊を見下ろして、大塚十郎太は舌打ちをした。

その視線の奥には恐怖も怒りもない。ただ、“次の愉しみ”を見つけたような興味深げな光。


「坊や、なかなか楽しませてくれるじゃねえか。だがな……」


彼は懐から、古びたメスのような器具を取り出す。

それを自らの掌に突き立てると、血ではなく黒い靄があふれだした。


「──“俺が一番愛した子”はまだ出してねえんだよ」


黒い靄の中から、ただ一体の異様な死霊がゆっくりと浮かび上がってくる。

焼け爛れた肌、無数の釘が頭皮に突き刺さった女の姿。

しかしその顔は、苦痛ではなく、笑っていた。


「十番目の彼女だ。俺の傑作だよ……声を聞かせてやれ」


女の死霊はその場で突然、両腕を広げ、

胸から発せられる悲鳴と共に、超音波のような波動を放った。


「ッ──?」


影の手が、震えた。


「なるほどな……“声”で影を乱してる」


真木野が呟いた。

この女の悲鳴は、単なる音ではない。死の中で記録された、拷問の末の“生きた悲鳴”。

人間の記憶と痛覚を直接刺激する、精神干渉波のようなものだった。


影の手は震え、力を失い、地面に戻っていく。

広がっていた照明の支配領域すら、音の波に飲まれて滲みはじめる。


「苦しいか? 痛いか? それとも……楽しいか?」


大塚が狂気を帯びた笑みで前へと進む。

その背後に、またも新たな死霊たちが姿を現す。

今度は子どもらしき小柄な死霊たち。

誰かの名前を呟きながら、顔の見えぬまま這い寄ってくる。


「……」


真木野は照明のスイッチを押す。

しかし、電源はノイズ音を立てて反応しない。


「やれやれ……お前の光は、死の記憶の中では無力なんだよ」


大塚が囁いた瞬間、

影の網は一気に引き剥がされた。

そして、死霊たちの手が真木野の身体を掴んだ。


「“感情が欲しい”んだろ? なら見せてやるよ、痛みってやつを──!!」


死霊たちが一斉に叫ぶ。

その悲鳴が空気を焼き、真木野の鼓膜を切り裂くかのように響き渡る。


──優位は、崩れた。

影の支配は剥がされ、今や真木野は追い詰められている。


だが。


その瞳には、依然として焦りも、苦悶もない。

それが、より不気味だった。


──影は、灯のないところにも差し込む。


「……痛み。悲鳴。恐怖。絶望。感情の奔流……」


死霊たちの群れに押し潰されるかのように、真木野真司は地面に倒れていた。

その身体を這い、噛みつき、締め付ける36人の拷問死者たち。

皮膚に焼きごての跡、指が抜かれ、口を縫い付けられた顔が呻く。


「返して」「殺さないで」「痛い」「痛い」


だが、その中心にいる真木野だけは、

まるで“他人事”のように、薄い目を開いていた。


「──感情は、まだ……来ない」


呻きながら、彼はポケットの中から銀色の円筒型の物体を取り出す。


「……次はこれだ」


カチリ。


閃光。


炸裂。


それは軍用のスタングレネード──

半径十メートルに及ぶ光と衝撃を放つ、視神経と聴覚を破壊する閃光弾。


「ッ!? ぐあああああッ!!」


死霊たちが一斉に悲鳴を上げる。

その視覚と聴覚に焼き付けられたのは、生前の拷問の記憶を増幅させる刺激だった。


精神の再殺。

かつての死を“再体験”させられた死霊たちは、一瞬で苦痛の頂点に達し、影へと還っていった。


「バカな……俺の“子どもたち”が……ッ」


十郎太の膝が揺れる。

その隙に、真木野はふらりと立ち上がる。

足取りはどこかふわふわとして、地に足がついていないようにも見えた。


「光を当てて、影を落とす。落ちた影に、手を伸ばす」


床に新たに生まれた、濃い闇の帯から、

まるで生きているかのように、漆黒の腕が何本も這い出す。


「……試してみる価値はある」


一斉に伸びた影の腕が、十郎太の身体を絡め取る。

それも、拷問を加えていた“道具”の形を模した、歪な手。


鉄の鉤爪。鉄パイプ。手術鉗子。

それぞれが、十郎太の四肢を引き裂かんばかりに締めつける。


「がはっ……く、くはははっ、いいぞ……やっと楽しくなってきやがった……!」


だが、十郎太は笑う。

苦悶に歪む顔すら、恍惚に満ちていた。


「もっとだ、もっと来い……! この命、残り少ねぇんだ、死ぬまで楽しませてくれよォ!!」


影と死霊。

感情の欠如と快楽の業火。


両者の戦いは、再び針が振れ──

戦況は真木野に傾きつつあった。


──だが殺人鬼は、恐怖を栄養にして蘇る。


「はっ……ああ……いい、いいぞ……!」


十郎太の呻きは、もはや苦痛とは違う質の熱を帯びていた。

影の手に四肢を拘束され、拷問器具のような腕に締め上げられ、骨が軋む音さえ響いているのに──彼の目は光っていた。


「“痛み”だ。“生”だ。俺が生きてるって感じる……」


両膝から落ちるように崩れた彼が、ゆっくりと、背筋を伸ばす。

歪な身体のまま、どこか人形のように。


「36人を殺したのは、感情じゃねぇ。反射だ。心じゃねぇんだよ。

お前にはわかんねぇよな? “感じねぇ”人間にはよォ……」


 


その瞬間、真木野の背後で、影が“裂けた”。


**ヒュオォ……ン……という風の音のような音。

そこに、“別の声”**があった。


「──“助けて”」


 


声の主は、かつて十郎太に殺された“少女”。

彼の“最初の犠牲者”だった死霊が、泣きながら真木野の背後に手を伸ばしていた。


「ッ……」


その“躊躇”が、一瞬のスキを生んだ。


 


「──全員、喰らいつけッ!!」


十郎太が絶叫する。


影の手に喰らいつかれていた死霊たちが、一斉に反転し、真木野に襲いかかった。

骨が露出した顎、火傷で焼けただれた腕、剥がれ落ちた皮膚が、真木野の肉体に爪を立てる。


 


「……ああ、そうだよ。俺の子どもたちは、“痛み”で呼び戻せるんだよ」


影の拘束は破られ、十郎太は自由の身となった。

肩越しに、笑う。

眼球が飛び出しかけた死霊の赤ん坊を抱えながら、口元だけが笑っている。


 


「影の力か……すげぇけどな。お前の“手”より、俺の“子ども”の方が深く噛むぞ?」


真木野は無言だった。

ただ、血を流しながら、死霊たちの群れに沈んでいく。


一瞬、彼の手元に転がるスタングレネードに手を伸ばしかけたが──


「もう、通じねぇよ」と、十郎太がそれを踏み潰した。


カチリという乾いた音だけを残して、閃光は生まれなかった。


 


死霊たちは真木野の体に巻き付き、肉を抉り、骨を締め上げる。

それは、かつて十郎太が36人に繰り返した“儀式”そのもの。


そして今──その呪いの再演によって、再び彼に勝利の兆しが宿り始めていた。


かつて劇団が栄光を謳った、老朽化したオペラ座の舞台。

崩れかけたバルコニー、割れたシャンデリア、埃にまみれた赤絨毯。

その中央に、真木野真司は静かに立っていた。


上手かみてから転がり落ちるように、十郎太の死霊が──舞台袖から這い出す。


 


「……ずっと、こいつらを出すか迷ってたんだがな」


大塚十郎太が呟いた。

客席の天井桟敷から現れた彼は、ステージを睥睨しながら両手を広げる。


「この劇場……まるで見せ物小屋だ。

なら俺の芸も見せてやらねぇとな、真木野センセェ」


 


──ドオオオオオオオオオン……!!


舞台上、地下から迫り出すように檻がせり上がる。

その中から、36体の死霊が現れる。

かつて大塚に殺された“観客”たち──その全員が舞台に立つ演者となった。


「俺が殺した36人──みんな、お前の“感情”を試す道具になってくれるってよ」


影の手が死霊を拘束し、吊るし上げる。

宙吊りになった彼らの身体が、舞台装置のようにくるくると回転し、スポットライトに照らされる。


「……動揺してるな。真木野」


 


実際、真木野の額には汗が滲んでいた。


吊られた死霊のうち、ひとりの少女の口がかすかに動いた。


「……タス……けて」


それは“音”ではなかった。

だが、明確に“言葉”だった。


 


「……ッ……!」


反応してしまった。


──その刹那、死霊たちが拘束された影をすり抜けて飛び掛かる。


 


「気づいてねぇだろ。影の手は“物質”には強いが……**霊体には甘ぇんだよ」」


十郎太が笑った。

舞台上、死霊たちが真木野を押し倒し、噛み付き、爪を突き立てる。


 


その肉体に、真木野は──反応しない。


何も、叫ばない。

痛みにも、呻きにも、怒りにも似た反射もない。


「おいおい、そんなに無表情じゃ、こっちが冷めちまうぜ……?」


 


十郎太が静かに、袖に隠していたスタングレネードを見つける。

死霊に囓られても尚、それに手を伸ばそうとする真木野を、彼は足で押さえつける。


「それ、お前の大事なおもちゃだろ。使わせねえよ」


──バキンッ!


光る音を立てて、真木野の左手が折れる。


 


「お前、強かったけどな。ここで、終わりだよ。

この劇場の最後の演目は、“感情のない男が無様に死ぬ話”だ」


そう言いながら、十郎太が少女の死霊の首を掴み、真木野の顔の前に突き出した。


「**お前が試したかった“感情”、最後に味わえよ──“絶望”ってやつをな!」」


 


──赤黒い血が、舞台の幕に滲んでいく。

十郎太の“演出”が、今この劇場の主役を塗り替えようとしていた。


死霊たちが蝟集する舞台の上、真木野真司の身体は沈黙したまま横たわっていた。

噛まれ、踏まれ、裂かれながらも、彼の瞳だけが動かない。


 


「……こっちが拍子抜けするぜ。

感情が無ぇってのは、ここまでか?」


十郎太が不満げに呻いたその瞬間、

カチャリ──と小さな金属音が響いた。


 


十郎太の足元、真木野の折れた左手が、ピンを抜いた閃光弾を転がしていた。


「ッ……! まさか──!いったい何個、持ってんだ!」


 


──ドッ!! バアアアアアアアンッ!!!


廃劇場を灼く閃光が咆哮する。

白濁とした光が、無数の影を一斉に生み出す。


その影の一つ一つから──“腕”が伸びた。


 


「これは……!」


驚愕する十郎太の周囲に、まるで植物が蔓を伸ばすように影の手が這い寄る。

観客席から、天井の梁から、バルコニーの下から。

劇場そのものが、影の触手に呑まれていく。


 


舞台中央、ゆっくりと身体を起こす真木野真司。

血まみれで、片手はぶら下がり、口元が切れ、内出血で片目が潰れていた。


だが彼は、静かに言った。


「……この“手”が、俺の“心”の代わりになるなら、それでいい」


 


──ズアアアアアッ!!


百を超える影の手が十郎太と死霊たちを一斉に捕縛する。

影の手は冷たく、しかし強靭で、死霊の身を裂くほどの力を持っていた。


十郎太が叫ぶ。


「バカな、こいつら影なんかに──!」


 


影の手は死霊たちの首に絡み、引きちぎり、腕をねじり、

あらゆる方向から十郎太の背中を締め上げる。


「ぐああああああッ……!」


十郎太の身体が空中に引き上げられ、ステージの上で磔にされるような格好になる。


まるで──

演目の“罪人”役が処刑される儀式のように。


 


劇場の壁面がきしみ、影の根がそこかしこに張り付いている。

光が生んだ影が、空間全体を支配していた。


 


そして、

影の手の一本が、十郎太の口をふさぐ。


「──黙れ。お前の台詞は、もう無い」


そう言った真木野は、もう一つ光源を投げた。


無音の閃光。

それに呼応して影の腕がさらに増幅し──


十郎太を天井へと突き刺すように撃ち上げた。


 


劇場の天井板を突き破り、十郎太の体が消える。


 


光が消え、影も沈む。

そして、再び沈黙が劇場を包む。


舞台中央に立つ真木野真司。

その表情は、やはり──無感情のままだった。


──この世界に、俺はいるのか?


劇場の天井に穿たれた穴から、舞台に静かに粉塵が舞い落ちてくる。

宙を支配していた影は消え、残るのは瓦礫と沈黙と、冷たい空気だけ。


真木野真司は、頭上を見上げたまま、微動だにしない。


 


「……あいつの叫びも、断末魔も、苦悶も……」


その場にひとり呟く声は、どこまでも平坦だった。

言葉には激情も、誇りも、戦い抜いた余韻すら宿っていない。


「……なんにも、感じないんだな。俺」


 


ふらつく足で舞台袖へと歩みを進める。

あちこちに撒いたライトの余光が、彼の影を引きずる。


「殺した。勝った。

でも、なに一つ、感情が動かない。

怒りも、憎しみも、達成感も──

何より、“恐怖”が無い。俺には」


 


劇場の壁に寄りかかりながら、彼はうつろな目で自分の手を見つめた。

その手がつい先ほどまで、死霊と殺人鬼を貫いていたとは信じられないほど、静かだった。


 


「試したんだ。

……小学生を殺しても、

死にかけても、

勝っても負けても、

この心は、まるで水底に沈んだ石みたいに、動かない」


 


影が蠢く。

まだ反応する影が、彼の足元で波紋のように広がる。


「だけど、願うんだ。

……もし、もし、“感情”ってやつが、

この世界のどこかに本当に存在するなら……」


 


彼の視線は、劇場の天井を突き抜け、空の向こうへと向かっていた。


「それを、“感じてみたい”」


 


静かに、空調の唸る音だけが残る。

その空間に、「願い」という言葉の重みだけが、ひとり歩いていた。


 


そして、また、沈黙。


劇場の中央、瓦礫の山の下から、死霊の呻き声が再び這い出してくる。

痛みの記憶に染まった36人の亡霊たち。顔の形も、手足の数も揃わない。

それでも大塚十郎太の命令に従い、苦悶に歪んだ顔で笑いながら真木野へと群がってくる。


「──まだ終わっちゃいねぇよ、哲学ゾンビ」


崩れた舞台セットの裏から、大塚が姿を現す。

体中に黒い痣と裂傷が広がっている。

口の端を切り裂かれたように笑いながら、血塗れの指を天に突き立てた。


「お前が出した影の手だかなんだか知らねぇが……なぁ、アイツらも痛がってたぜ? 俺が殺ったあいつら」


そう言うと、大塚は自分の左腕をナイフで切り裂いた。

その血を床に叩きつけ、血溜まりに溺れるように死霊たちが舞台へと再召喚される。


「感じねぇなら──もっとくれてやるよ、“実感”ってやつを!」


 


死霊のひとりが舞台裏の照明を引きちぎり、舞台全体をほの暗い闇へと包み込む。

それは真木野の影の手にとっては利点のはずだった。


だが──


「……光が、消されていく……?」


 


照明が落とされたことで、真木野の出せる影の範囲が狭まり、

動かせる“手”の数がみるみる減っていく。


彼はすぐに懐から新たなLEDライトを取り出して起動しようとする。

──しかしその瞬間。


ガシッ──!


背後から、死霊の一体がぬるりと絡みつく。


骨が見える腕。口が裂けた女。

「返して……返して……」と呻きながら、真木野の手首を掴み、ライトを握る力を奪っていく。


「……ッ、離せ」


足元では別の死霊が這い寄り、太腿を掴み、歯で肉を噛みちぎる。


その隙に、大塚が迫る。


「お前はまだ“生きてる”ってわかってねぇだけだよ」


彼の手には、拷問に使っていたという鉄製の杭が握られていた。


 


真木野が最後の力を振り絞り、足元に小型懐中電灯を転がし──光が漏れたその瞬間、影の手が再び舞い上がる。


だが遅い。


杭が、真木野の腹部を正確に突き刺した。


「……っ──」


呻きはない。

倒れた真木野の目は、天井を映したまま、微動だにしない。


「ほら、“痛み”ってやつは──なかなかのモンだろ?」


血のついた杭を見下ろしながら、大塚は笑った。

その笑いも、どこか空虚だった。


かつて舞台だった場所は、今や焼け焦げた幕と瓦礫と、死霊の痕跡にまみれた無惨な残骸だった。

血ではなく、怨念が染みついたその空間の、崩れかけた観客席に、ベリアルとアスタロトが静かに座っていた。


「どうやら、幕は下りたようだな」

ベリアルが微笑む。

彼の姿は、整った顔立ちの青年。だがその瞳は、嘲ることしか知らぬ永劫の冷たさに満ちていた。


「下りた? 違うわ、これは“割れた”のよ。ふさわしい終幕だったじゃない」


アスタロトは、うっすらと微笑を浮かべる薄青いドレスの女の姿で、退廃的な優雅さをまとっていた。

手にはグラス。中には観客の涙を絞った透明な液体。


「真木野真司……感情を求めた彼にとって、この結末は皮肉に満ちていたわね」


「“痛み”は感じた。だが、痛みに“意味”を感じなかった。彼は“快楽”も“恐怖”も、空っぽなままだ」


「ええ、むしろ十郎太の方が人間らしかったわ。恍惚、怯え、欲望……薄汚くて、でも生きていた」


ベリアルが笑った。

「──我らが劇場は、人間を試すには実にふさわしい舞台だったな」


「ねぇ、ベリアル。もしも彼に感情が芽生えたとしたら……その時、彼は自分を“救われた”と感じるかしら?」


「さあな。だが一つ確かなことがある」


ベリアルは空を見上げる。

落下しかけた照明がギシリと音を立てる。


「──敗者は願いを叶えられない」


「それだけのことよね」


アスタロトの笑顔は、憐れみにも、優しさにも似ていた。

だが、そのどちらでもなかった。


「さぁ……次の幕を引き上げましょうか。観客はまだ飽きていないわ」


 


闇の底から、新たな足音が響いてくる。


次なる哀れな願い人たちが、舞台袖で出番を待っている。


崩れ落ちた舞台の奈落の奥。

影の奔流と死霊の咆哮が交差した地獄のような空間で、男はひとり膝をついていた。


大塚十郎太。


その顔に、感情と呼べるものはなかった。ただ――


「……やっはり、男を殺すのは女より詰まらんな」


ゆらりと立ち上がった彼の足元には、無数の死霊に絡まれ、引き裂かれた真木野真司の肉片と、無惨な臓物が残りがうごめいている。


男は死んだ。


だが、それでも、36の死霊は主の勝利に歓喜することなく、苦悶と怨嗟を吐きながら消えていった。


真木野は、最後まで感情を得ることはなかった。

殺しの衝動も、勝利の誇りも、あるいは後悔も恐怖も――


ただ、空虚な静けさが心に横たわっていた。


大塚はゆっくりと、真木野の死骸が所持していた指輪を拾う。

指先にそれをはめ、無言で歩き出す。


その場には、悪魔の声だけが残った。


「ようやく……一歩前進、か?」


アスタロトが舞台の上から大塚を見下ろしてつぶやく。


「進んでいるように見えるがな。彼の足元にあるのは、進む道じゃなくて……底のない穴だ」


ベリアルが肩をすくめ、次の舞台を指差す。


──夜の帳が落ちた街。

オフィスビルとオフィスビルの間にある、光の射さない細道。


照明の届かぬその場所に、すでに2人の人影が立っていた。


ひとりは、艶やかな長髪に濃いメイク、胸元の開いたパーカーに短いスカートを着た若い女。

もうひとりは、長身のスーツに身を包み、足元からまるで蔓草が生えるような気配を漂わせる美女。


──次なる哀れな戦いが、始まろうとしていた。

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