犬飼京介VS風巻大吾
コンクリートの壁にひび割れ。
油のしみ込んだ床に、誰かの足跡が乾いて残る。
天井は低く、光は少ない。
排気ガスの臭いと、金属の焼けたにおいが混ざった場所──
廃墟化した立体駐車場。
無数の車止めブロックと崩れた鉄柵、放置された廃車が、階層構造の影に沈んでいた。
その奥、かつてのスロープの曲がり角に、影がひとつ立っていた。
**
「……へぇ。ここが、今日の“バトルステージ”ってわけか」
犬飼京介──21歳、無職、前科あり。
中学時代に教師を殴って停学、街中で通行人を殴って初鑑別、
大人になってもイライラが消えず、定職にも就かず、暴行で収監された。
生きてる理由は「ムカつく奴を殴ること」。それだけ。
バンダナを巻いた頭。
ボロボロのカーゴパンツに、ヴィンテージを装ったストリートジャケット。
タバコを噛んだまま、無言で立ち尽くすその姿には、理性も希望もなかった。
「オイ、アモン。そろそろ敵ってやつ、来んのかよ?」
隣で宙に揺れていた、黒き獣のような悪魔──アモン──が低く唸るように笑った。
「来るさ。
お前の“ムカつき”が、呼び水になった」
「チッ……ムカついてるのはいつもだろ。
ああムカつく、全部ムカつく、クソが……」
犬飼の右腕が、ぐずぐずと崩れ始めた。
血管のような黒い腱が隆起し、骨が膨らみ、毛が生え始め、
皮膚の内側から牙のようなものが突き出す。
そして──
“右腕”が変化を終えた。
鋭い牙を持った狼の頭部、伸びた四肢。
犬飼の肩から離れたそれは、**独立した“獣の右腕”**として地を這い、駐車場の床を嗅ぎ始めた。
「まずは“挨拶代わり”だ。
噛みついて、肉を引き裂いて、喉を潰してやる……」
**
その“迎え”に応えるように、駐車場の奥に、
正確な足音が、地を均すように響いた。
「──貴様が、今回の標的か」
現れたのは、無駄な動きの一切ない長身の男だった。
迷彩の名残を残したパンツ、角刈り、無表情。
筋肉で引き締まった肉体を、軍人そのものの姿勢で支えている。
風巻大吾──元自衛官。
秩序の申し子。法と命令の奴隷。
それゆえに、命令を与える“上”が腐っていたとき、彼の忠誠は彼自身を滅ぼした。
「暴力衝動。自己制御不能。社会復帰不能。
貴様は矯正対象。排除する」
「……ハァ?」
犬飼は頭をかく。
「なに? おまわりごっこ?
オレが“イラつく”のを止めてくれるとか言うつもりか? バカじゃね?」
「暴力を欲する者は、法で裁かれる。
ここに法がないなら──私が、法となる」
「ッハハ! 最高だなァお前!!
“ぶっ壊す価値”がありそうだッ!!」
嵐の前の沈黙。
だが、すでに空気は動いていた。
風巻の足元には、風が集まり始めていた。
重力に逆らうように、埃が浮き、空気が波打つ。
それに対し、犬飼の狼の右腕は、喉の奥で唸りを上げる。
この空間には、誰も守られるべきルールも、理由も存在しない。
ただ──
イライラする者と、ルールに従わせたい者が、
互いの存在を全否定するために、牙と風をぶつけるだけだ。
「……ぶっ殺すぞ」
犬飼京介の声は、地を這うような低さだった。
唸るように、喉の奥で言葉を発酵させる。
そして、彼の右肩に連なる獣の腕──狼の姿をした右前脚──が、コンクリートを四足で這って前へ進み出す。
床に爪を立てながら、肉付きの良い狼の顎が唾液を垂らす。
その目には知性はない。ただ主と同じ“苛立ち”だけが燃えていた。
「おい、“元軍人”──お前、あれ見て何も思わねえの?」
犬飼が顔をニヤけさせた。
だが、目は笑っていない。
「俺の右腕が、こんなモンになってんだぜ?
犬だか狼だか知らねぇけどな。
しかもコイツ、オレの命令で動くんだ。なぁ? 気持ち悪ぃだろ?」
返事はなかった。
代わりに、風巻大吾の瞳がわずかに動く。
その視線の先──犬飼の変化した右腕を、数秒かけて観察していた。
「……敵意有り。自律可動部位。分類:変異型個体。
法に基づき、即時排除対象に指定」
「ハァ?」
犬飼の顔から笑みが消える。
「なに独り言ぬかしてんだよ。お前、マジでどこにでもいる“融通きかねぇバカ”の上位互換だな」
「言語による挑発、意味を為さず。
貴様の存在は構造的に社会不適合であり、矯正不能。
……ならば、破壊するだけ」
その瞬間、風巻の背後の空気が──爆ぜた。
空気の層が捻れ、光が歪む。
目には見えないはずの風が、構造を持ち始める。
それはまるで、“無音の弾丸”の準備運動のようだった。
「……何か飛ばす気か?」
犬飼の顔が険しくなる。
「まぁいいや、そういうのは──」
狼の右腕が唸り、コンクリートの床をバリッと引き裂く。
「ぶっ壊せば、終わるだろ。」
**
アモンとナベリウスは、少し離れた駐車場の影から、戦いの構図を静かに見つめていた。
「風巻の思考回路は単純明快、論理的帰結しか許容しない。
“裁けない者”を見つけると、彼は自ら“法”になる」
ナベリウスの三つの口のうち、中央の口が語る。
「ふん……くだらねぇ。正しさってのはな、
誰かをぶっ飛ばしたあとで勝者が都合よく名乗るもんだ」
アモンの牙が鈍く光る。
「だが……俺の坊やは、理由もなくイラついてるだけ。
ある意味、いちばん純粋だぜ」
そして、戦場の中心。
狼の腕を構えた犬飼と、風を螺旋に捻る風巻が、静かに対峙する。
「イラつくからお前を殺す。
何か問題あるか?」
「それが“理由”なら──撃ち抜くのに十分だ」
拳を握る風巻の手元に、空気の濁流が集まった。
犬飼の獣の右腕が、筋肉を膨張させて跳躍の構えを取る。
瞬間。
両者の間の空気が弾け飛んだ。
理由のない怒りと、意味しかない秩序が──
ただ互いを否定するためだけに、ぶつかろうとしていた。
「──行け」
犬飼京介の口元が、ニヤリと歪んだ。
その言葉と同時に、**右肩から独立した“狼の右腕”**が、コンクリートを蹴って猛スピードで駆け出した。
四足を持つ獣の腕は、犬飼の命令と共に動く“自走型の怒り”だった。
金属を引き裂くような唸り声。
駐車場の柱をすり抜け、廃車の残骸を踏み砕きながら、一直線に風巻大吾へと向かっていく。
**
風巻は動かない。
ただ、その場で静かに拳を構えていた。
呼吸も変わらず、目線すら逸らさない。
そして、狼が接近した瞬間──
「第一段階・警告排除」
その声と同時に、彼の拳から目に見えない風の弾丸が放たれた。
バシュッ!!!
音のない炸裂。
狼の胴体へ向けて、螺旋状の衝撃波が発射される。
それは銃声ではない。
空間を絞って放たれる、**“方向を持った圧力”**だった。
直撃。
ゴッ!!
「……ガルッ!!」
狼が、空中で吹き飛ばされた。
コンクリートの地面に背中から叩きつけられ、柱に激突し、そのまま床を転がる。
だが──
「よぉし、“まだ”動くなよォ……」
犬飼の目には、一切の焦りがなかった。
その間に彼は、すでに左手の皮膚を蛇のような鱗に変化させていた。
再び命令。
「オイ、そろそろ“2発目”いけるか?」
崩れた瓦礫の隙間から、狼がゆっくりと立ち上がった。
その体には風の傷が刻まれていたが、目はまだ殺意を宿している。
「ふむ……生体操作型。自律性高い。だが攻撃パターン、単調」
風巻は即座に再分析していた。
理性と冷徹な観察で、犬飼の動きを測っていた。
「次は“もっと重い風”を食らわせてやる」
風巻が片膝を低く落とした。
両掌を前に突き出すと──
重低音の“風鳴り”が発生する。
「第二段階・迎撃突風──“爆風推進弾”」
足元から発生した空気の塊が、まるで低空を這うミサイルのように走り出す。
その風は、“風”というにはあまりに重く、あまりに速く──
肉体では対抗できない質量を持った流体弾と化していた。
**
「クソがッ!!」
犬飼は叫びながら自分の右脚を変化させた。
ゴリゴリと骨が軋み、筋繊維が膨張し、太ももから下が──豹のような四肢に変化する。
跳ぶ。
そして、その跳躍の直後──
「狼」が再び風巻へ向かって走り出す。
その走りは先ほどより鋭い。
風の衝撃波に削られた皮膚が剥き出しになっても、牙はなお鋭く、主人の怒りに応えようとしていた。
「“だれがご主人様”教えてやるよォ!!」
叫びと共に、犬飼本人も突っ込んだ。
獣の腕と、変形した脚を持つ人間が、猛獣のごとく地を蹴って風に向かう。
まるで檻から解き放たれた猛虎のように。
対する風巻は、ただ一言だけ言った。
「制裁、開始」
両腕をクロスさせ、風を集中。
次の一撃は、回避できない。
だが──犬飼の目には、恐怖の色はなかった。
あるのは、純粋な殺意と、興奮だけ。
「ぶっ壊してやるよォ!! このクソ秩序の風野郎がァ!!」
「──死ねぇぇぇぇ!!」
怒声と共に、犬飼京介の獣脚がコンクリートを砕いた。
跳躍。
そして、地を滑るように走る狼の腕。
二体一の奇襲。
それは明らかに、“作戦”ではない。ただの“衝動の共鳴”だった。
風巻大吾は、それを正面から迎え撃つ。
両手の間に圧縮した風を集め──
「反応圧縮、解放」
爆風推進弾、再発射。
風の質量弾が地を這い、轟音と共に突進してくる狼を飲み込もうとする──
その刹那。
「──ッ!!?」
風巻の目がわずかに動いた。
犬飼が、“狼を飛び越えた”。
それは、本来なら攻撃タイミングがずれる愚行。
だが、犬飼にとっては“考えてない”からこそできる奇策だった。
風巻は、狼を狙って風を撃った。
だが、その直後──本命の“本体”が、視界の死角から降ってきた。
「喰らええええぇぇッ!!」
犬飼の左脚が、空中で豹の脚からバット状の筋骨に変化する。
鋼の筋肉がうねり、全体重を乗せた回し蹴りが風巻の右肩に炸裂した。
ガギィィン!!!
風巻の身体が吹き飛ぶ。
風を纏っていたはずの体勢が崩れ、コンクリートの支柱に背中を叩きつけられる。
(……直撃……!?)
風巻の思考回路が一瞬だけ空白になる。
風圧の読み、動線の計算、敵の質量、投射角──
すべての前提が、**“論理の外側から飛んできた獣の思考”**によって崩れ去った。
**
「ハハッ!! どうしたよ、おい軍人!!」
犬飼は叫ぶ。
空中で反転し、変形した右手を人型に戻すと、今度は素手で拳を構えた。
「人間相手なら“理屈”で押せりゃ通じるかもな。
でもな──俺は違う。
俺はただムカついてるだけ。
ムカついたら殴る。それがダメなら“何がいい”ってんだよ!!」
再び狼と化した腕が、風の衝撃波の残滓を抜けて再び突進する。
今度は、風巻の足元を狙っていた。
風巻は咄嗟に身体をひねるが、脛に牙が食い込む。
「──ッ……!!」
一瞬、風が乱れる。
風巻の制御する空気の流れが、集中を乱されたことで不安定になる。
犬飼は見逃さなかった。
「おーらぁァァァッ!!!」
その一瞬の隙に、地面を蹴って突進。
今度は、右肘から先をドリル状のバッファローの角に変形させ、
全身を矢のようにして風巻へ突っ込んだ。
ドガァッ!!!
角が肩を掠め、風巻が再び後退する。
ついに、風の制御者が、“獣の理不尽”に押されはじめていた。
「うふふ……いいねぇ。ああいう“考えてない奴”、本当に好きだ」
アモンがどこか嬉しそうに笑った。
血塗られたコンクリートを眺めながら、その声はまるで観客席で拍手するかのよう。
「論理が通じないってことは、敗北の予測すらできないってこと。
それを“戦略”として使ってるわけじゃないんだ。
……あいつ、ただ本当に、殴りたいだけなんだよな」
ナベリウスは口を閉ざしたまま、風巻の表情を観察していた。
ほんの僅かだが、眉間に皺が寄っている。
「……想定外の連続。風が乱れ始めたか」
怒りに導かれた一撃が、理性の壁を軋ませた。
犬飼京介は今、戦場で**最初の“有利”**を掴んでいた。
だが、その有利は永くは続かない。
この男が本能だけで動く限り──
風はすぐに、冷静さという名の暴力で反撃を始める。
「……被害確認──異常なし」
風巻大吾が静かに立ち上がった。
血は流れていない。だが、右肩に残る角の痕跡が、犬飼の一撃が本気だったことを物語っていた。
「チッ、まだ立てんのかよ……。なら──もっとぶっ壊すだけだろうがァ!」
犬飼が再び突撃の構えを取った。
その背中から、獣の尾のような筋肉の鞭が伸び始める。
右脚は豹、左腕は爬虫類、両肩は骨の突起──不安定な融合を伴う進化。
「風……? 空気……? そんなもん見えねぇし、感じねぇし……」
ドンッ!
跳ぶ。犬飼の身体が空中でひねりながら回転し、風巻の上空から拳を叩き込もうと迫る。
だがその瞬間──
「第五段階・制裁構成、展開」
風巻の声が響いた。
直後、駐車場の空気が一変した。
ザァァァァァァァァ──ッ
突如として、天井の通気孔から風が吹き降ろされる。
一点集中の気流ではない。
まるで“気圧そのもの”が、空間全体を下に押し潰しているかのような圧力だった。
「──はッ!?」
犬飼の跳躍が、途中で止まる。
いや、正確には**“空中で押し潰された”。**
「これは、風じゃねぇ……! 壁だ……ッ!!」
圧縮気流──ダウンバースト。
建物の構造を無視して発生した突風が、コンクリートの地面に向けて一直線に降り注ぐ。
ドガァァァァッ!!!
犬飼の身体が床に激突する。
変形した四肢がバキバキと軋み、床のタイルが蜘蛛の巣状に割れる。
「ガハッ……チッ……このヤロ……!!」
這い上がろうとする犬飼。
だが、風巻はその動作すら予測していた。
「──制裁続行」
彼が指を弾くと、今度は周囲から渦巻く風の帯が襲いかかる。
低空を這う旋風が、狼の右腕へ向かって巻きつく。
「グルルルッ……!!」
犬飼の使い魔とも言える腕が、その場で巻き上げられ──
柱に叩きつけられ、破裂音と共に弾け飛んだ。
獣の肉が壁に飛び散る。
犬飼の顔に、その返り血が飛ぶ。
「オイ……マジかよ……てめぇ……!」
風巻はただ静かに一歩、犬飼に近づいた。
その瞳に、怒りはない。ただ、法の名において“執行するだけ”の意思がある。
「制圧段階、完了間近──」
右腕を掲げ、風を巻き上げる。
「次の一撃で、お前は終わる」
犬飼は歯ぎしりしながら、立ち上がろうとする。
だが、身体の各部が変形しすぎていた。
四肢のバランスは崩れ、獣化した肉体は制御を失いかけていた。
(……風が……風が強すぎて、動けねぇ……)
暴力では届かない“秩序の壁”が、確かにそこにあった。
犬飼京介の最初の有利は、すでに瓦解していた。
「やはり……“本能”だけで築いた優位は、すぐに壊れる」
ナベリウスの声が響く。
その語り口は冷ややかだが、どこか悲哀を含んでいる。
「規律を敵にした者の末路など、どれも似たようなものだ」
「……でも、それが見てて気持ちいいんだよね」
アモンが笑う。
「だって、あの子、あんなに楽しそうに暴れてたんだもん」
「もうすぐ終わる。風が正義となる」
ナベリウスの瞳が光を帯びる。
風が吼える。
それは咆哮ではなく、“判決の言葉”だった。
「──はァ……くっそ……」
コンクリートの地面に膝をつき、犬飼京介は荒い息を吐いた。
風が強すぎる。
動くたびに、空気そのものが敵意を持って肌を裂いてくる。
まともに立っていられない。
だけど──
(……風の流れ……少し、わかった……)
その脳裏に残っていたのは、さっきの衝突。
壁に叩きつけられる寸前、風の力が一瞬弱まったあの感覚だった。
一瞬だった。
でも、確かに“息継ぎ”のような空白があった。
(アイツ……一撃ずつ構えて撃ってきやがる。無限じゃねぇ)
犬飼の口元が吊り上がる。
「ハハッ……じゃあよ──それより速く、喰らいつけばいいだけだろッ!!」
全身に力が入る。
筋肉が膨れ、皮膚が裂け、骨が軋みを上げて変形していく。
獣人化。
右脚は虎、左腕は鰐、背中にはオオワシの羽のような筋繊維。
顔面の皮膚は裂け、露出した歯茎の中から鋭利な牙が並ぶ。
目が、完全に獣のそれへと変わった。
「……理屈の風に、噛みついてやるよ……」
風巻が空気の乱れを察知する。
「──生体反応が活性化……来るか」
次の風圧弾を構えるために、両手をかざす。
だがその瞬間──
ドォッ!!!
犬飼の肉体が、水平に滑るように突進していた。
(……地面……!?)
風巻が気づいた時には遅かった。
犬飼は風の気圧が弱まる床のすぐ上を、爬虫類の腹のように這って距離を詰めていたのだ。
「よお──裁判長サマよ!!」
変形した右肩が、巨大な象の鼻のように伸び──
「これは控訴ってヤツだ!!」
ドガァァァァン!!!
風巻の身体が横に吹き飛ぶ。
直撃ではない。だが肩の風制御装置を破壊された。
「……っ、外部吸引率が低下……空気制御のブレが……」
風巻の制御する風が、ほんの少しだけ乱れる。
そのわずかな時間差を、犬飼は見逃さない。
「ほらよッ!」
両足をバッタのように伸ばし、スプリングのように飛び上がる。
天井を蹴って、垂直に降下。
変形した左腕が、蝦蛄のハンマーと化して風巻の頭部を狙う。
風巻はとっさに風を旋回させるが──
ドゴッ!!
回避は間に合わず、だが多少、軌道をずらすことに成功し風巻の頭部ではなく腹部に衝撃が走た。
床に叩きつけられる音。
瓦礫が砕ける音。
そして、風が一瞬、止まった。
観戦席のような異空間で、アモンが嬉しそうに口笛を吹く。
「やっるぅ〜! あの子、やっぱりケダモノになるといい動きするねぇ」
ナベリウスが無言で風巻の呼吸を確認している。
「……応答は遅延、意識レベルは低下……犬飼の暴走率は予測値を超え上昇中」
「そうそう、獣ってのはさ、“暴れたい”って気持ちがあるときが一番厄介なの」
アモンはにっこりと笑った。
「それが目的じゃなくて、ただ“やりたい”だけってやつ。
その欲求が無軌道なとき──
法律も倫理も、正義ですら関係ない。
だって“ムカついたから殴る”って、それ以上に強い理由ないじゃん?」
風が破られた。
風巻の秩序が崩された。
再び、戦場の主導権は犬飼京介の手に戻りつつあった。
牙を剥き、唸り声を上げる彼の影が、
立体駐車場の蛍光灯の下、獣のように蠢いていた。
風巻大吾の体が、コンクリートの床に沈む。
胸元から肺の空気が抜ける音がした。
だが──彼はまだ、目を閉じていなかった。
「──獣化状態、確認」
犬飼京介が唸りながら歩み寄る。
肩には甲殻類のような鱗、両脚は猛禽の鉤爪、
右腕には鋸のような骨が浮き出ている。
犬養の不安定な精神を象徴するかのように獣化が目まぐるしく変化する。
「てめぇ、もう立てねぇだろ? じゃあそろそろ──潰すぜ」
だが、風巻の口元がかすかに動いた。
「……貴様の動き、規則性を確認」
「はァ?」
「お前の精神の変化には、分かりにくいがパターンがある。
それに合わせて獣化の性質を腕は攻撃、脚は加速、背中は防御……
頭部の変化が、命令中枢だ。
今、お前の顔面は──“感情の処理”の最中と見た」
犬飼の目が見開かれる。
その瞬間、空間が揺れた。
──ズゥン……
床のコンクリートが陥没し、犬飼の足元が急激に吸い込まれるように沈む。
「ッ──な、に……!?」
「“竜巻の接地”──定点旋風」
風巻の周囲、直径3メートルを中心に微細な竜巻が立ち上がっていた。
それは目に見えぬほど高速で回転しながら、重力すら歪めるような吸引力を帯びていた。
犬飼の右脚が沈み、バランスを崩した。
「チィッ!」
獣の反応速度で背中の翼をバッと展開する──が、それも読まれていた。
「背面防御を展開。反射行動、確認済み」
風巻が右手を掲げると、空中に四方から圧縮された風の刃が現れた。
「──制裁、第二段階」
シュバァッ!!
空気が鋭利な線となって交差し、犬飼の翼ごと背中に斬りつける。
「ガアアアァッ!!?」
痛覚を忘れていたはずの犬飼の叫び声が、立体駐車場に反響した。
斬られた背中から黒い血が噴き出し、壁にまで飛び散る。
「お前……さっきまでより、精密に……!」
風巻は立ち上がる。
制服のような戦闘服は裂け、血が滲んでいるが、
その目には一点の曇りもない。
「獣の力に頼る者は、理性を捨てる。
理性を捨てた瞬間、“感情のままの法則”が露出する。
そして、私は法を裁く者だ」
犬飼が距離を取ろうと跳躍する──その動作も予測済み。
「──排風圏、収束」
次の瞬間、犬飼の周囲の空間がぴたりと静まった。
動けない。
風が、身体にまとわりつく。
「まるで、空気が“檻”になってやがる……!」
「その通り。罪に逃走の余地なし──」
風巻の右手が、地面を指差す。
「“落下風刑”──発動」
空から、見えない拳のような風塊が、犬飼の頭上に降下した。
ドオォォォォン──!!!
犬飼の身体が、駐車場のコンクリ床に深く埋まる。
瓦礫が宙を舞い、鉄骨が軋み、辺り一帯が土煙に包まれた。
アモンが、楽しげに口を尖らせた。
「やっべっ……マジで“公務”しちゃってるじゃなの、あの軍人」
ナベリウスは無言のまま、眼鏡を押し上げるように額を撫でた。
「秩序の暴力は、時として無秩序以上に残酷だ」
アモンが笑う。
「じゃあ、このまま獣の坊や……終わっちゃうのかな?」
「さあな。まだ“幻獣化”は使っていない」
ナベリウスが静かに、そう答えた。
地面に崩れ落ちた犬飼京介の口元が、わずかに動いた。
「……まだだよ……クソが……
……こんなんで、俺のムカつきが終わるわけねぇだろ……!」
地面に埋まりかけた犬飼京介の身体が、わずかに蠢く。
ガラガラ……とコンクリート片を押しのけて、
地獄の底から這い上がるように、その腕が持ち上がった。
「……ガハッ……クソ……やっぱ……ムカつくわ……」
血に塗れ、破れた服の下から、
ドロドロと生物的な質感を持った筋肉が、脈動しながら盛り上がっていく。
「オメェみてぇに……ルールだの秩序だの押しつけてくるヤツがよ──
一番、気に食わねぇんだよッッ!!」
怒声と共に、犬飼の全身が“変化”を始めた。
それはもう、獣ではなかった。
肉体の骨格が砕け、再構成され、
皮膚はざらついた赤黒い甲殻へと変わり、
背中からは蝙蝠のような皮膜の翼が生える。
顔の下半分は裂け、三列の鋭い歯が顎の奥まで並ぶ。
尻には蠍のような毒針を備えた、異様に長い尾。
──幻獣、マンティコア。
「──ッ、認識不能な形態変化……!」
風巻大吾が一歩後退する。
彼の中の秩序が、この存在を分類できずに揺らいだ。
「はァ……ハハッ……」
犬飼──いや、“それ”は笑った。
声帯も咽頭も歪んだまま、笑っていた。
「想像で創れるもんは、何でもアリなんだよ……
伝説の獣なら誰にも止められねぇんじゃねーの?」
マンティコアが地を蹴った。
一瞬の静寂。
そして──爆風のような接近。
風巻の風壁が炸裂し、
左腕を上げた直後──
ザクッ!!!
「──っ!」
鋭利な前脚が風巻の肩を斬り裂いた。
血が飛ぶ。
回避が間に合わなかった。
理由はただ一つ。
(動きが……既存の生物の限界を超えている──!)
風巻が痛みに顔をしかめながらも、次の風圧を叩き込もうと構える。
だが、それよりも早く──
マンティコアの尾が、空中で渦を巻いていた。
「毒針、くらっとけやァ!!」
尾が振るわれる。
風巻が身を翻して避けようとするも、かすった毒液が風巻の右脚に触れた。
ズズズ……!
「……ッ、これは……神経毒……か」
足が一瞬、麻痺しかける。
「ははっ、動けねぇってのも……ムカつくだろ?」
風巻の顔色が変わる。
犬飼の行動は、もはや秩序の外にある。
(この“姿”……動きも、意図も……全てが想定を超えている……!)
観戦空間。
アモンが満面の笑みで拍手していた。
「イイねえ、イイねぇ!
あの子、最初から“怒り”を手懐けようとしてなかったんだ。
むしろ“怒りに飼われてる”んだよ」
ナベリウスが静かに頷いた。
「想像による存在の顕現……極めて高位。
風巻の“ルールの地盤”が、侵されている」
「さーて、風サン。お堅いだけじゃ勝てないってこと、
ちゃんと身に染みてきた?」
犬飼は、マンティコアの姿のまま、
風巻の背後を取った。
「……ルールはよ──
破ってナンボだろ?」
風巻が振り向く。
犬飼の爪が、頸動脈を狙って振り下ろされた──!
コンクリートの上に立つ、赤黒い幻獣の姿。
犬飼京介──いや、彼の中の“猛り”が形を得た異形は、
震える拳を空に掲げたまま、しばし立ち尽くしていた。
風巻大吾は、寸前で頸動脈をかすめる爪をかわしていた。
だが、肩口に深く裂傷を受けている。
両者、立ったまま血を滴らせている。
その沈黙の中で、犬飼の心に言葉が浮かんだ。
──何でだろうな。
怒りってのは、沸く。気づいたらもう、そこにある。
湧き水みてぇに、いつまでも湧いてんだ。
幼稚園のとき、玩具を取り上げられて泣いた。
小学校のとき、先生に殴られて怒鳴られた。
中学のとき、親父に「お前は失敗作」って言われた。
ムカついてムカついて、
全部ぶっ壊したくて、
それでも誰も、聞いちゃくれなかった。
だからぶん殴った。
鉄パイプを持って暴れた。
そしたら今度は警察が来て、裁判所が来て──
俺の怒りに、名前がついた。
「犯罪」ってラベルで、黙らされた。
だが、ここでは違う。
誰も止めない。
誰も咎めない。
誰にもジャマされない。
この世界で、怒りは自由だ。
──だから俺は、この舞踏会に来た。
「……願いってのはよ、たった一つだ」
犬飼の口から、ぼそりと声が漏れた。
「俺の“イライラ”をよ……
警察も、裁判所も、世間の目も、
誰にも止めさせねぇ場所で、全部ブチ撒けてやりてぇんだよ」
風巻が、眉一つ動かさず聞いている。
「それだけだ。
わかるか? それだけで、俺には──十分なんだよ」
観戦空間。
アモンが破顔する。
「いやァ、いいねぇ。素直でさ、
何も包み隠さずに、“吐き出す”ことしか知らない。
そういう奴が一番、面白い」
ナベリウスは静かに言った。
「彼の願いには“未来”がない。
だが、**“現在の純度”**は極めて高い。
それゆえに、救いようもなく強烈だ」
アモンが笑う。
「だよなァ。
“救いようがない”ってのは、悪魔が催す舞踏会じゃ最高の褒め言葉だぜ?」
犬飼はゆっくりと足を踏み出す。
口の端から血を垂らしながら、マンティコアの姿でにやりと笑った。
「よォ、“正義マン”……
そっちは願い事、まだ言ってねぇけどさ──
どうせ、クソ真面目なやつだろ?」
風巻大吾の無表情が、わずかに揺れた。
犬飼は続ける。
「なら潰す。ルールとか理屈とか、
一番ムカつくモン全部まとめて、
ここで終わらせてやるよ」
「──来いよ、“正義マン”」
マンティコアの異形が、重たい足音を響かせながら突進する。
牙を剥き、尾を振り、破壊そのものを体現したような姿。
だが──風巻大吾は、動かなかった。
いや、動けなかった。
肩を裂かれ、脚に毒を浴び、肋骨の何本かは折れている。
それでも、彼の目には迷いがない。
(全ての行動は法に則る──)
彼はゆっくりと、背筋を伸ばした。
血に濡れた唇を開き、口元からわずかに風が漏れる。
「最終制裁プロトコル──発令」
静かに手を挙げた。
両手が宙を切る。
「第四段階:完全気象干渉──」
その瞬間、立体駐車場の空気が変わった。
天井を突き抜けるような風圧。
湿度と温度が急上昇し、空気中の微粒子が異様な渦を巻く。
風巻の周囲に、低気圧の核が出現した。
「“竜巻生成”──発動」
ズゴォォォォォオオオッ!!
天井を突き破る轟音。
立体駐車場の中心に、人工的に発生した竜巻が巻き起こる。
犬飼の巨大な幻獣の身体が、風に煽られてわずかにバランスを崩す。
「チッ……こんな風──」
踏ん張ろうとしたその脚が、滑った。
駐車場の鉄製床板が風で浮き上がり、瓦礫が飛来する。
その一瞬の隙。
風巻は、重たい拳を振り上げた。
「正義の制裁、ここに執行」
犬飼の胸に向けて、風圧を拳そのものに圧縮して──
ズドォオオッ!!
音すら飲み込む爆撃のような衝撃。
拳が、犬飼の胸部に直撃。
赤黒い幻獣の胸殻が、内側から崩壊する。
牙を剥いていた顎が、崩れ落ちる。
翼がバラバラに砕け、毒尾が床に垂れ落ちた。
幻獣の形は、崩壊した。
「……っ……ァ……」
人間の姿に戻った犬飼京介が、膝をつく。
血を吐き、肩で呼吸しながら、それでも目だけは睨んでいた。
風巻が静かに歩み寄り、彼の額に手をかざす。
「──“法の無き怒り”は、暴力でしかない」
手のひらから、微弱な風が吹き出した。
「それを咎めるのが、我が使命だ」
最後の風圧が、犬飼の意識を吹き飛ばす。
ズゥン……。
犬飼京介、沈黙。
観戦空間。
ナベリウスが呟く。
「理想国家の執行者──
彼にとって、この一戦もまた“法律行使の訓練”に過ぎなかったのだろう」
アモンが肩をすくめる。
「ま、夢がない男ってのは、意外としぶといもんだよな」
観戦空間は、どこか貴族のサロンを思わせる。
紅い絨毯、歪んだシャンデリア、宙に浮かぶ酒瓶。
アモンは脚を組み、笑いを含ませて語り出した。
「いやァ、犬飼のやつ、実に良い咆哮だったじゃねぇか。
“幻獣化”なんてロマン溢れる力、そう簡単に出せるもんじゃないぜ?」
ナベリウスは、無表情のままワイングラスを傾ける。
「幻獣──存在しないはずの生物を想像で再現する技術。
理屈を超えた攻撃性。
だが、その全てが“無秩序”であるがゆえに、崩れるのも早い」
アモンが指を鳴らすと、空中に犬飼の姿が浮かぶ。
荒ぶり、吠え、破壊を撒き散らす幻獣のイメージ。
「“怒り”ってのは、使い方さえ間違わなきゃ、
この世界で最強の燃料なんだけどなァ。
ま、犬飼は“燃やされる側”だったか」
ナベリウスが薄く微笑んだ。
「一方の風巻──“法”という概念を、
信仰にまで昇華していた。
……異常なまでの忠誠心。狂気に近い」
「狂気と法の区別なんて、どこにあるんだろうなァ?」
アモンがいたずらっぽく呟いた。
「だって、あいつ、“自分がルール”になろうとしてるだろ?
全人類が法に従う世界を夢見る男なんて、
普通、牢屋に入るか教祖になるかの二択だぜ」
「だが舞踏会では、彼こそが“秩序の化身”となり得る」
ナベリウスが、グラスを置く。
「……さて、次は誰の番だ?」
アモンが立ち上がり、手を一振りする。
虚空に、次なる対戦者の姿がぼんやりと浮かぶ。
まだシルエットしか見えない──が、仕草からして女性だった。
「おおっと? ここで来るか。
“今度の主役”は、なかなかイイ表情してるじゃねぇか」
ナベリウスが目を細めた。
「仮面を被る者こそ、剥がれたときが面白い。
さあ、次の舞踏会を始めよう──」
倒れ伏す犬飼京介の身体から、黒く歪んだ煙が立ち昇る。
風巻大吾の前には、奪われた指輪が静かに転がっていた。
「……破壊衝動の果てに、秩序の風が吹き抜けたか」
ナベリウスが独りごちるように呟く。
その指先が虚空をなぞると、空間がまるで舞台のように切り替わった。
場面は切り替わる。
石造りの回廊を思わせる、異様に冷たい空間。
空中に浮かぶ階段の先に、新たなふたりのシルエットが立っていた。
ひとりは、優雅に笑みを浮かべながらマントを翻す青年。
もうひとりは、巨大なチェーンソーを無言で引きずる、フルフェイスの異形。
アンドラスが歩み出る。
人のような脚、梟の頭部、漆黒の翼を持つその姿は、
地獄の貴族というよりは、戦場に舞い降りた悲劇の舞台監督のようだった。
「さあ──幕は整った。
次の演目の主役は、己の人生すら“演じる”俳優と、
世界そのものを拒絶する、仮面の亡霊だ」
バアルは、猫のような静けさで虚空に座す。
その声は、波打つように地鳴りのように響いた。
「孤独の王に仕える仮面の少女──
その願いは、誰にも知られず、誰にも語られず。
……ただひっそりと、“誰もいない”場所を求める」
「対して、“世界の中心”たらんとする王子さまは、
観客に囲まれ、喝采に酔い、
今日もまた──物語を演じる」
アンドラスは口角を持ち上げる。
「いい舞台だ。
孤独と虚飾の邂逅、
現実と虚構がぶつかり合う──
第3の舞踏会、開幕だ」
時間が空いてるときにお読みください。