宗方由利VS相沢僚介
テンポ重視でサクサク読める、1章1章は短編オムニバス形式のデスゲーム小説に仕上げました。
金属とコンクリートの谷間に、星は落ちてこない。
代わりにこの街には、欲望が降ってくる。名もなき高層ビル群に反射した光が、夜の底で煌めいていた。
路地の奥。
うっすらと煙った暗闇の中を、一人の男が重い足音を響かせて歩いていた。
相沢遼介──38歳。
身長173cm、中肉中背。肩幅は広いが猫背気味。
襟のほつれたジャケット、安物の革靴、無精髭。かつては企業の経理部門に勤めていたが、今はもう何者でもない。
かつての部下は見下し、上司は罪を擦り付け、妻は冷笑を残して出て行った。
唯一の娘は、彼が最後に言葉を交わした日から、もう何年も成長しているはずだ。
それでも──声が思い出せない。
目の前にあるこの歪んだ闘技場、それが地獄か天国かなんてどうでもよかった。
ただ、やり直せると聞いた。
それだけで、相沢遼介はここに立っていた。
「やれやれ、ようやく目を覚ました?」
耳元に甘い囁きが落ちてきた。
振り向かずとも分かる──あの悪魔の声だ。
夜の歩道にひときわ艶やかな足音を響かせて、アスモデウスが寄り添うように歩いていた。
血のようなドレスが彼女の脚を撫で、黄金の髪が街灯の下で波打つ。
「時間は動き出したわ、遼介。そろそろ“最初の相手”を探しに行きましょ」
「……誰でもいい。ぶっ潰せばいいんだろ」
「ふふっ、それも悪くないけど。あなたの“願い”を叶えるには、ちゃんと勝ち抜かなきゃね。そのためには、最初に倒すべき相手を“嗅ぎ当てる”こと。」
彼女はそう言って、すっと指を鳴らした。
次の瞬間、ビル群の彼方に、熱のような気配が広がった。
「感じる? あなたを殺すかもしれない女のにおい──欲望が、少しだけ似てるのよ」
相沢は無言で走り出した。
自分の靴音が夜の底に打ちつけられる。
いまこの街のどこかに、自分の人生を踏みつけにする存在がいる。ならば叩き潰してやる。それだけだ。
数ブロックを越えてたどり着いたのは、現代モダンの美学と悪趣味が融合したようなオフィスビルだった。
全面ガラス張り。無駄に高い天井。入館証のいらない高級テナントフロア。
その自動ドアを、すっと一人の女が通り抜けた。
ガラスの向こう、ヒールの音を響かせてロビーを歩く彼女の姿を見た瞬間──
心が、止まった。
艶やかなロングコート。抜けるように白い肌。髪は肩までのセミロング。
ヒールで立っていても自然な姿勢は、骨格レベルで美しさを作り出している。
ただし、その背筋の硬さは──氷のような拒絶を宿していた。
「あの女だ」
相沢は呟いた。
根拠はない。ただ、本能が叫んでいた。
あいつが、自分の人生を塞ぐ最初の障壁だと。
宗方由梨──176cm、モデルの様な、しなやかな体型。年齢27歳
冷徹な目元と、無感情な微笑みを同時に持つ、完璧な仮面。
他人から見れば「理想の女性」。だが、彼女の目に他者の命は映らない。
彼女はすでにこの“暗黒舞踏会”の意味を理解していた。
そして、参加する理由は──誰にも言っていない。
たとえ、それがどれほど哀れで歪んだ願いであっても。
彼女の背後、廊下の暗がりの中に、もう一つの気配があった。
「早かったですね、由梨」
銀灰色の長髪、黒い燕尾服、喪に服したかのような中性的な人物がゆっくりと彼女の隣に立つ。
アガレス──“逃げたものを連れ戻す”悪魔。
「ええ。最初の“獲物”が来たわ」
宗方は静かに返す。目だけを動かして、入り口の外を見つめていた。
ガラスの外、じっと睨む男の目と、自分の目が一瞬交錯した。
その瞬間、世界の音が──静かになった。
「では、始めましょうか。“願い”の回収作業を」
アガレスの声に、宗方は頷いた。
こうして、最初の戦いが始まる。
男は過去に囚われ、女は未来をねじ曲げようとしていた。
どちらの願いも語られないままに、血と欲望だけが、すべてを語る夜が来る──
「やっと見つけたぞ……!」
息を殺すように、相沢遼介はオフィスビルの隅、ガラス張りのロビーを見下ろす中階の廊下に身を隠していた。
指先が震えているのは寒さのせいではない。喉の奥に、熱がたまっていた。
視線の先には──女がいた。
さきほど見かけたその女は、もうエレベーターで上の階へと移動していた。
だがその姿は脳裏に焼き付いている。
「“美しい”とか……そういう話じゃない。あの女、空っぽだ……」
心にあるのは、説明のつかない違和感だった。
完璧な容姿。静かな足取り。身のこなし、目の動き、すべてに一分の隙もない。
なのに──何かが「決定的に欠けている」。
アスモデウスが横で口元をほころばせた。
「気づいた? あの女、綺麗だけど……人間じゃないわよ。少なくとも、心の作りは」
「何が違うんだ……?」
「あなたはね、まだ“何かを取り戻したい”と願ってる。彼女はね、“戻る場所ごと所有したい”の」
わけがわからなかった。
だが、そんな異質さが逆に“確信”へ変わっていく。
「だからどうした──あの女を殺す。何かが、俺の中でそう言ってる」
一方、宗方由梨は静かにフロアの奥の会議室に立っていた。
照明を落とした部屋に、窓から街の夜景が流れ込む。
「来るわ。彼の足音、さっきよりも重たい」
「自分を乗り越える準備が整ったんですね」
アガレスが、淡々と語る。
燕尾服のボタンを整え、まるで式典に臨むかのような優雅さで背筋を伸ばす。
「いい顔だ、由梨。まるで“手放したくない夢を握りしめる子ども”のようだ」
「ふふ。そう。全部奪ったのに、まだ足りないのよ。あの人がいないと、まだ……」
そこまで言って、宗方は唇を噛んだ。
そして、その顔から表情が消える。冷たい水面のように、何も映さない女の顔に戻った。
「もういいわ。始めましょう。私は私のものを取り戻す。それだけ」
ドアが開いた。
相沢遼介は、無言で部屋に入ってきた。
重苦しい沈黙の中、床を軋ませて一歩ずつ踏み込んでいく。
宗方もまた、動かない。その視線だけが、相沢の全身を舐めるように観察していた。
「……貴様が相手か」
「ええ。どうやら、あなたは“こちら側”に来たようね」
「なに?」
「“こっち側”──欲望を選んだ側。だから、あなたも私と同じ。違うのは、何に執着してるかだけ」
「……知ったような口を利くな」
「貴方は、失敗した過去を抱いてる人間の顔をしてる。
私は──未来を完成させに来ただけ。私の“世界”に必要なものが、そこにないから」
「黙れ……黙れ……!」
相沢の拳が震える。
それは怒りか、それとも言葉の奥に刺さった何かへの拒絶か──本人にも分からなかった。
アスモデウスは、その背にそっと触れる。
「いいのよ。言い返さなくていい。言葉じゃなくて、拳で答えなさい。あの女にはそれが一番効くわ」
宗方由梨は、グロックをすっと抜いた。
それはもはや“威嚇”ではない。始まりの合図だった。
「さあ、始めましょうか。あなたにあるのは、後悔か、それとも願いかしら」
「黙れっ!!」
相沢の怒号が、会議室を震わせた。
彼の足が地を蹴り、宗方の視線が銃口を定める。
**
ふたりの間にあった空白が、殺意で満たされた瞬間だった。
この戦いに正義などない。
あるのは──お互いの人生に空いた、埋められない“穴”だけ。
乾いた銃声が、空気を割った。
「──チッ!」
相沢は即座に身体をひねって回避する。
銃弾は肩をかすめ、背後の壁に穴を開けた。
その音を皮切りに、戦いが始まった。
会議室のテーブルを跳び越え、相沢は一気に間合いを詰める。
殴る、叩き潰す、それしか知らない。だから迷わない。
だが──
「遅いわね」
宗方の声とともに、彼女の姿がふっと消えた。
いや、正確にはすり抜けた。
相沢の拳が突き抜けたのは、まるで濃い霧のような“空気”だった。
「なっ──!?」
一瞬の虚を突かれ、背後に回った宗方が再び引き金を引く。
閃光と衝撃、しかし──相沢は咄嗟に膝を折って回避した。
「この野郎……! 何をした……!」
「幻術よ。貴方、そういうの苦手でしょう?頭を使うのが無理そうだし」
冷ややかな笑みが、まるで理不尽を愉しむかのように浮かぶ。
「ふふ……始まったわね」
アスモデウスは高層ビルのガラスに爪を立て、外の夜景を眺めていた。
その背後、静かに佇む喪服のような人物が声を漏らす。
「互いに“見たいもの”しか見えていない戦い。……とても美しい構図です、アスモデウス」
「ええ、まるで悲劇のリフレイン。あなたの少女、余裕そうに見えるけど……見えてないのよ」
「ええ、由梨には“勝てる絵”しか見えていません。
でも貴女の遼介も、見えるのは“殴って壊す”という世界だけ。どちらも正しくて、どちらも愚かです」
二人の悪魔は、まるで舞台演出家と観客が交わすような会話で戦いを見つめていた。
「このバトル……あと、何手で流血するかしら?」
「3手ですね。人間とは、たった3手で“慌て”と“怒り”を呼び出せる実に興味深い生き物です」
現場では、すでに乱戦が始まっていた。
相沢はもう三度、拳を振るった。
机を吹き飛ばし、ソファを叩き潰し、床にヒビを刻んだ。
その度に壊れた物と相沢の拳の間で硬い金属が弾き合う音がしたが
だが、そのどれもが──宗方の身体を捉えることはなかった。
「チッ、どこだッ……どこにいやがるッ!」
「だから、幻術だと言ってるじゃない。
あなたの見てる私は偽物よ。ホンモノは──もっとずっと遠くにいるかもしれないし、もう死んでるかも」
言葉が煙のように空間を撫でる。
相沢は奥歯を噛み締めた。
目の前の“女の影”が本物なのか、それとも虚構なのか分からない。
だが拳は止めない。破壊だけが、自分の唯一の言語だ。
「テメェのクチに……拳ぶち込んで……その嘘、粉々にしてやるッ!」
叫びと共に、床を割って跳びかかる。
宗方はその動作すら予期していたように、銃を水平に構えた。
「バカね」
乾いた音と、相沢の肩から散る血飛沫。
「ッ、ぐぅ……!」
かすり傷だが、初めての流血だった。
「──3手目。予想通りですね、アスモデウス」
「いいえ、ひとつだけ違ったわ。あの男、まだ“痛みに慣れてる”顔をしてる」
「つまり?」
「この程度じゃ壊れない。むしろ“壊れることに慣れてる”。
それが……一番厄介なのよ」
アスモデウスの目が、金色に冷たく光った。
戦場には硝煙と呼気が混じる。
傷ついた獣のように息を荒げながら、相沢遼介は再び拳を握った。
宗方由梨は表情一つ変えず、静かに弾倉を交換する。
仮面と怒りがぶつかる、その序章はようやく幕を開けたばかりだった。
「テメェ……どこに隠れてやがるッ!!」
咆哮とともに、相沢遼介の拳が壁を打ち抜いた。
内装の金属が唸り、火花が散る。
オフィスビルの一角──それも高層階の会議室は、もはや原形を留めていない。
ソファ、テーブル、窓ガラス、照明器具──全てが破壊され尽くし、床には砕けたガジェットの山が積もっていた。
「本体はどこだッ!! あああああッ!!」
暴走。
怒り。
それは敗北の兆しではなく、彼にとっての集中でもあった。
何かが吹っ切れたように、彼は全方位を無差別に破壊し始める。
「逃げてんじゃねぇぞコラァ!! 幻術だろうが何だろうが関係ねぇ!!
どこにいようが全部壊してやる!! テメェごとッ!!」
拳が天井を叩き、床をめくり、壁を裂いた。
「ふふ、暴れてるわねぇ……」
アスモデウスが唇に指を当てて微笑んだ。
高層階の外壁ガラスに映る相沢の狂乱を見ながら、その目はむしろ愉悦で細められている。
「“見えない敵”に怒りをぶつけるのは、よくある滑稽劇です。
でも彼の場合、それが滑稽で済まないのが……人間の“狂気”の面白さです」
アガレスの声は、まるで墓碑に刻むような静けさだった。
「今のうちに仕留めないと、あなたの少女、手間取るわよ?」
「忠告? それとも皮肉ですか?」
「ただの観察よ。悪魔は誰にも肩入れしない──そのルールはご存じのはずよ」
その頃、宗方由梨は実体化していた。
能力の制約上、長時間の“幽体化”は精神力を消耗する。
だから彼女は、相沢の破壊活動が自分の位置から遠ざかっている隙を突き、
短時間だけ、物質に戻って呼吸を整えていた。
──それが、誤算だった。
その瞬間、相沢が真上の天井を拳で砕いた。
「うぉらぁぁぁぁッ!!」
拳が天井裏の構造材を破壊し、そこに収まっていた配管に亀裂が走る。
ビルの老朽化した配管──都市ガスの圧縮配管だった。
「え……?」
宗方の冷ややかな視線が一瞬だけ揺れる。
その視線の先、火花が、砕けた電線から跳ねた。
──次の瞬間。
爆音と共に、会議室の一角が白い閃光に包まれた。
「……っぐ……!!」
宗方の身体が吹き飛び、床に激突する。
スーツの袖が裂け、足首に火傷のような赤みが広がる。
どう見ても、これは**偶然では済まされない“実害”**だった。
「……今のは……偶然、か?」
相沢は拳を下ろしたまま、焦げた天井を見上げていた。
何が起きたのか理解していない。
ただ──「女の悲鳴」と「吹き飛ぶ気配」を感じた。
「……見えたぞ」
瓦礫を越えた先に、初めて“影”ではない宗方の姿が見えた。
焦げたコート。裂けたストッキング。
冷たい視線はまだ保たれていたが、明らかに動きは鈍っていた。
「当たった……のか……?」
相沢は言葉を失ったまま、拳を握り直した。
怒りで振るった暴力が、偶然にも敵の虚を突いたことに、まだ納得がいっていなかった。
だが──
だからこそ、確信に変わった。
「逃がさねぇ……このまま潰すッ!!」
「……ほらね、彼は“壊れること”には慣れてるけど、“当てること”にも貪欲なのよ」
アスモデウスはくすりと笑った。
アガレスは目を伏せ、静かに応えた。
「偶然が彼を導くなら──彼は、偶然ごと破壊して進むでしょうね」
この瞬間──流れはわずかに、相沢遼介へと傾いた。
それは意図された勝利ではない。
暴力の衝動が、偶然の導火線をなぞり、偶然が敵の肉を焼いただけだ。
だが、勝負の流れとは、そういう偶然が作るものだ。
「見つけたぞ……! 今度こそ……!」
焦げた天井の割れ目から落ちる埃と火花の中、
相沢遼介は瓦礫を蹴飛ばして突進した。
狙いはただひとつ。
“見える位置に現れた”宗方由梨の身体──いや、正確には肉体の感触が返ってくる場所。
「てめぇっ、もう逃げられねぇぞッ!!」
振りかぶった拳が、空気を割った。
振動が壁に伝わり、またひとつ蛍光灯が落下する。
だが──
「やっと見せてくれたわね、“あなたの攻撃範囲”」
宗方は動かなかった。
微笑んでいた。
あの火傷の痛みにも、吹き飛ばされた屈辱にも、微塵の感情を動かさずに。
「“ここまでしか届かない”ってことが、今、よくわかったの」
その瞬間──宗方の身体がふわりと溶けるように空気に滲んだ。
再び幽体化。
「クソッ!! また逃げんのかよッ!!」
拳が空を切る。
だが、その空気の背後で──銃声が鳴った。
パンッ。
音は軽かった。
重みがない。けれど──的確だった。
「──ッ!!」
相沢の左脇腹を、銃弾が貫いた。
「が……ァッ……!!」
一瞬、身体が沈む。
視界が霞む。
血の塊が喉奥に迫り、膝が床に叩きつけられた。
「く、そ……くそ……っがああああああああッ!!」
雄叫びと共に、床を殴りつける。
しかし宗方は冷静だった。
どこにも姿は見えない。
気配も、匂いも、足音すらもない。
彼女は“攻撃時だけ”実体化し、すぐに霧のように消える。
だがその実体化のタイミングを、完全に見せていない。
「あなたみたいに、“吠えて突っ込む”だけの人間には……この戦場、広すぎたわね」
その声がどこからともなく響く。
幽体化したまま、壁をすり抜けて移動しているのだ。
攻撃。回避。観察。
宗方由梨のスタイルは、狩人のそれだった。
「……見えないわね」
アスモデウスが腕を組む。金の瞳がほんのわずかに細められる。
「どうやら、あの女……もう“相沢の動き”を完全に読んでるわね」
「ええ、“破壊衝動”だけでは届かない世界に入りました」
アガレスは口調を変えずに答える。
その目は、自分の契約者に興味がないのかと思えるほど、静かだった。
「でも……見えるものを狙わず、見えないものを撃ち抜く。
これは、まさに彼女の“信仰”ですね」
「ふふ、“死んだもの”しか信じていない女の戦い方」
「その言い回し……気に入りましたよ、アスモデウス」
視界が滲む。
傷口から流れる血が、スーツの裾を濡らしている。
呼吸をするたび、肋骨に響く激痛。
立ち上がるたびに、膝が揺れる。
だが──相沢遼介はまだ立っていた。
「……てめぇ……ぶっ殺す……っ」
意識が散りかけるその中でも、
彼の目だけは、決して“諦め”を映さなかった。
「壊れても……立つ。それしか知らねぇ……」
その姿を、幽体化したまま宗方は遠巻きに眺めていた。
「ふうん……まだ立つんだ。まるで──壊されることに“安心”してるみたい」
再び、幽体の彼女が移動する。
今度は、相沢の背後へ。
音もなく、銃口が彼の後頭部に向けられた。
「でも、もう終わりよ──“願い”がなんであれ、そんなに醜く執着するほどの価値、ないわよ」
パン──
銃声が夜を裂く。
パン──
銃声が夜を裂いた。
宗方由梨のグロックが吐き出した弾丸は、一直線に相沢の後頭部を貫こうとしていた。
しかし──その瞬間。
「……カンッ!!」
軽い金属音。
衝突ではない。跳弾の音だった。
次の瞬間、宗方の眉がピクリと動く。
──撃った感触が、“抜けなかった”。
その直後、相沢の身体が、重金属の質感を帯びて転がった。
「……何?」
宗方の目が細くなる。
倒れた相沢の頭部から、鉄板のような光沢が剥がれ落ちる。
(銃弾を──受けてない?)
彼女の指が再び引き金にかかる。
だが──それよりも早く、倒れていた相沢が立ち上がった。
「──今だッ!!」
左腕が変形する。
車両のような機構音とともに、肘から先が衝角付きの打撃武器へと変化した。
まるで鉄杭とハンマーが融合したような重武装の拳。
宗方は咄嗟に幽体化を試みる──
が、相沢はそれを読んでいた。
「お前、撃つときだけ“実体化してる”んだろ……!」
宗方の目に、一瞬だけ鋭い光が宿る。
「──読まれた、だと?」
その瞬間、相沢の鉄拳が正確に宗方の腹部へ突き刺さった。
ドガァッ!!!
幽体化が完了する前の一瞬──宗方の肉体は確かにそこに存在していた。
破壊された床と共に、彼女の身体が吹き飛ばされる。
「ぐっ……ああっ……!!」
腰を打ち、肩を壁に激突させ、血が口から滲む。
姿勢を崩して膝をついた彼女は、それでも目を伏せず、相沢を見た。
「さっきの銃弾……」
相沢は静かに口を開いた。
右腕が、まだ鉄の形を保っている。
「鉄板で弾いた。……“戦車の装甲”ってやつだ」
「……なるほど、あなたの能力……体を変形させる……でも、もっとあるわね。
ただの防御じゃない。今の打撃……一撃で臓器が……」
相沢は笑わない。ただ、口元を歪める。
「俺は……俺を壊すために、全部作られた。
けどな。俺が“壊し返す”ために、この体があるって思えば……楽になるんだよ」
そして──
「防御には鉄板、攻撃には……こういうもんだろ!!」
今度は右脚が変形する。
構造はまるで、杭打機のような高圧式パイルバンカー。
着地と同時に、床が凹む。
宗方は小さく息を呑んだ。
(この男──“思考は雑”なのに、“感覚だけで戦術を組み立ててる”)
再び消える。
だが相沢は、姿を消した彼女の動きをもう一度読む。
「撃つ時だけ“触れる”。なら、その時だけ潰せばいい。
お前の“その綺麗な面”も、全部ッ……叩き潰すだけだッ!!」
「やるわね……。予想以上に、自力で読みきった」
アスモデウスが小さくつぶやく。
観察者としての面白さを超え、ほのかに誇らしげな声だった。
「彼の強さは、“鈍感力”と“勘”の組み合わせ……
それが一度当たったとき、人間は“本能で最短手”を選ぶ。
あとはもう止まらないわ」
「ええ、“壊すこと”を正義に変えてしまった人間の……哀しき突進力です」
アガレスの声は変わらず静かだったが、わずかに含んだニュアンスがある。
「でも──まだ“答え”に届いていない。
どちらも、ただ殴り合ってるだけですから」
血を吐きながらも、宗方は立ち上がる。
目は死んでいない。
唇が切れ、爪が折れ、視界が滲んでも、彼女は“失くしたもの”のためにまだ戦っている。
相沢も、肩から血を流しながら、再び両腕を変形させていた。
まるで“何かを作り直すように”──
二人の距離が、再び近づいていく。
「近づいてきた……? 何のつもりだ?」
相沢の眉がわずかに歪む。
宗方由梨は、銃を構えたまま距離を詰めてくる。
さきほどまで幻のように空間を漂い、遠距離からチクチクと攻撃していた相手だ。
なのに今は、明らかに“懐”に入ろうとしている。
(……なめやがって。殴られに来たか?)
拳を構えた相沢は、迎撃の姿勢をとった。
右腕は再び変形させたハンマー型、左腕は衝角付きの重斧型。
反撃は万全。
宗方は、なおも無言で歩く。
その口元は──うっすらと笑っていた。
「テメェ……!!」
怒鳴ると同時に、相沢が飛び込んだ。
だが。
その瞬間、彼の拳は──すり抜けた。
「な──!?」
宗方の身体が、まるで濃霧のように相沢の目の前で“抜けて”消える。
(……ま、また“幻術”かよ……!?)
が、その直後。
パンッ。
脇腹に、焼けるような痛み。
「が……ッ!!」
宗方の姿は、相沢の左後方に現れていた。
そこから、ピンポイントで“非変形部位”を狙っていたのだ。
銃弾は鉄化していない腰の筋をかすめ、肉を裂いた。
だが、それでも致命傷ではない。
「くっそ……てめぇ……ッ!」
怒りで回頭しようとした瞬間──再び、宗方が空気に溶ける。
彼女の内心は、決して高ぶってはいない。
あくまで冷静。理性的。
むしろ、相沢の“鈍感な勘”に対して、計画で押し返すことに美を見ていた。
(彼は“防御”には優れている。体を武器に変える能力……きっと急所には常に“装甲”が仕込まれてる。
ならば、“致命”は狙わない。必ず通る箇所、そこだけを撃ち抜く)
宗方はそう判断していた。
そして彼女の能力──幽体化は、その正確な精度を可能にする。
幽体化して回避。
敵の動きが“抜けた”瞬間、わずかな時間だけ実体に戻り、狙撃。
打撃が届く瞬間は“存在しない”。
撃つときだけ、現実に戻ってくる。
それはまるで、愛した男を撫でるような、残酷な接近戦だった。
再び現れる。
相沢の後方。
変形していない、右太ももの裏側──そこが狙いだ。
(さっきまでは“腹”“肩”と来た……今度は足だ)
「ッ!!」
相沢が気づいたのは、銃声の直前だった。
パン!
弾は、変形前の部位をかすめるように通過。
膝が一瞬揺れる。
「くっ……そがああああッ!!」
拳を振るうも、空。
彼の力は正確だが、宗方の“当たり判定”は存在しない時間に隠れている。
それが──相沢にはまだ分からない。
(なんでだ……なんで拳が当たらねぇ……!
攻撃してんのに“居ねぇ”みてぇに抜ける……!)
「幻術だろ……! なんで消えんだよ……ッ!! 本体はどこに居んだよ……!!」
叫びは混乱と怒りの混合だった。
攻撃するたび、相手は現れず、反撃だけが正確に肉を裂く。
まるで、幻に殴られ続けているようだった。
「由梨は“殺す気”はないのよ。だから急所を避けてる。
それがむしろ残酷だと思わない?」
アスモデウスが肩をすくめる。
「はい。“再生可能な傷”だけを与えることで、逆に“心を砕く”──
殺しより冷たい、“愛撫”ですね」
アガレスは表情を変えず、静かに言った。
「もう一発……!!」
宗方が撃つ──
だが、今度は外れた。
相沢の右肩の下、皮膚の中に──わずかに鉄の輝きがあった。
「……! ここは……変形してるの……?」
宗方の目が細められる。
(少しずつ……“自衛の範囲”が広がってる)
彼女は気づいていた。
相沢が自分の攻撃の傾向を、“感覚的に”学習し始めていることを。
「てめぇ……見えてなくてもな、
どこから来るかは、もう分かってきたぜ……」
血まみれの相沢が、笑った。
その笑みは、薄氷のように不安定で──
それでも、“戦う者”の顔だった。
相沢遼介の息が荒い。
血に濡れたシャツが重く張りつき、呼吸のたびに傷口が開く。
左の脇腹、右の太もも、背中、腕……
狙われたのは“変形していない部位”ばかりだった。
しかし、奇妙なことが起きていた。
(当たらなくなってきてる……?)
宗方由梨は冷静に観察していた。
銃弾はまだかすめている。だが、“致命的な部位”には届いていない。
(あの男……勘だけで“私の弾道”を読んでる)
理解が追いつかない。
戦術的でも、冷静でもない。ただ、壊れても壊れても立ち上がるだけの男が、
なぜか、“こちらを捉え始めている”。
(まるで──この戦いの中で、“答え”に近づいているみたい)
「アスモデウス、彼は……限界でしょう。
出血量、呼吸量、視界の反応速度……どれを取ってももう“持たない”」
「ええ。でも……人間って、そういう時に“笑う”のよ。
あんたたちには分からないでしょうけど」
「……では、見届けましょう。
彼の命が“最後の一手”に変わる瞬間を」
宗方は一つ、大きく踏み出した。
それは明確な“とどめ”の間合いだった。
幽体化──して、また現れる。
これまでのパターンに、一切の揺らぎはない。
だが──
「分かってんだよ、てめぇの“距離”はよ……!」
相沢の両脚が、地面を踏み砕いた。
骨がきしむ音。
肉が破れる感覚。
それでも、右脚は杭打機に、左脚は跳躍用のスプリング構造に変形した。
「さあ、来いよ……てめぇが現れる“あの一瞬”で──終わらせてやる!!」
宗方は消えた。
霧のように空間を抜け、再び相沢の死角へ。
(次で終わらせる──)
今回は左肩の後ろ。
過去に傷を受けた位置。再度狙えば変形を忘れている可能性がある。
(そこが“抜ける”。そこだけが、“私にとって安全”)
再び、幽体化が解除される。
──だが、その“出現ポイント”は、すでに相沢の“足元”だった。
「いたぞ──!!」
叫ぶと同時に、相沢は足元から、杭打機を真上に突き上げた!!
ズドォッ!!!
突如現れた杭が、宗方の右脇腹を貫く寸前に──彼女は、再び幽体化に戻った。
だが。
「てめぇ、逃がさねぇッ!!」
相沢のもう片脚が、すでに跳躍構造に変化していた。
反動で跳び上がりながら、両腕が回転ドリルと鋼鉄の爪へと変形する。
「ここだァァァァッ!!」
爆発的な跳躍。
身体を回転させながら、幽体から戻る瞬間を狙って空間を裂く。
宗方はそれを──読み切れなかった。
「──が、ぁッ!!」
ドリルの先端が、彼女の右肩を裂いた。
地面へ落ちると同時に、鉄の爪が足を絡め取り、床に叩きつける。
「……っは……はあ……ッ!!」
息も絶え絶えの相沢が、震える指で武器の変形を解いていた。
「……どうだ……もう一回、幻術って言ってみろよ……! この……クソッ……が……ッ!!」
宗方は、血を流しながらもまだ意識を保っていた。
だが、明らかに動きが鈍っている。
彼の“勘”が、実際に“実体の出現”と一致し始めた。
それは戦術ではなく、命の執念によって培われた、獣のような本能だった。
「ここで彼が放ったのは“最後の矢”ですね。
狙って放ったというより、己の体を射出しているような」
「それができる人間だけが、あの椅子に座る資格がある」
アスモデウスの声には、初めて微かな“嫉妬”が混じっていた。
会議室の床には、
歪な鉄の爪と、銃を落とした女と、立ち尽くす男がいた。
崩れそうなバランスの中で、次の一手が命運を決する。
「……くそが……また外したかよ……」
崩れたコンクリートの上、鉄の爪をほどきながら、相沢遼介は荒い息を吐いていた。
宗方由梨は動かない。
倒れたまま、意識があるのかさえ分からない。だが、完全に沈黙はしていない。
呼吸のかすかな振動が、床に伝わっていた。
血。
煙。
焼けた天井。
砕けた窓ガラス。
散らばる家具。
そして自分の体──壊れてない部分の方が、少なかった。
……でも、まだ立ってる。
まだ、終わっちゃいねぇ。
その時だった。
ふっと、胸の奥が冷たくなった。
戦いの熱が、ほんの一瞬、途切れた。
何かを思い出す。
ずっと、忘れたフリしてたもの。
視界の奥、誰もいない壁の前に、幻のように浮かんだ“家庭”の情景──
狭いアパート。弁当の白いフタ。誰かの怒鳴り声。
上司の書類を処理した深夜。手が震えてた。
部下にバカにされた朝。口元の笑い声が今も耳に残ってる。
妻が去った日。言い訳もなかった。
娘がこちらを見ようともしなかった、あの日。
世界は、ただ“終わった”。
なのに──
どうして今、自分はここに立ってる?
「……俺は……」
血の混じった唾を吐き、ゆっくりと床に膝をつけた。
重たい体。呼吸が喉に詰まる。
それでも、視線だけは落とさない。何もない天井を、睨みつけていた。
「……俺は……ただ、“やり直したい”だけなんだ……」
声は掠れていた。
だけど、それは確かに言葉になった。
「会社に裏切られて……家族にも捨てられて……娘にも忘れられて……
それでも、“まだ”って……“もう一回”って……思っちまったんだよ……」
握った拳が震える。
「なにが間違ってたのかも分からねぇ。
でも、こんな終わり方じゃ……納得できねぇだろうがよ……!!」
叫びは誰にも届かない。
それでも構わなかった。
「俺はただ、“あの朝”からやり直したい。
会社に行く前の、目覚ましの音が鳴る、あの朝からだ……」
その声に、誰かが応えることはない。
だが、アスモデウスは、遠くからその叫びを聞いていた。
「……目覚ましの音、か。
壊れた男にしては、ずいぶん素朴な祈りね……」
金髪の女が窓辺に佇みながら、髪をかき上げた。
「ねぇアガレス。
あなたの少女の願いと、うちの子の願い……どっちが“醜い”と思う?」
「どちらも美しいですよ。
人間の願いに“正しさ”など存在しません。あるのは“執着”だけです」
もう一度、立ち上がる音。
鉄の爪が再び腕に這い上がり、相沢の姿が、壊れたビルの中心に影を落とす。
傷だらけの体。
それでも前を向く背中。
願いを言葉にした男の眼差しには、もう怯えも怒りもなかった。
あったのはただ──“戻りたい”という、静かな悲願だけ。
鉄の足音が、静かに響いた。
ボロボロのビルの床を、ひとつずつ踏みしめながら、相沢遼介は立ち上がっていた。
変形した右腕はもう動かない。
左脚のパイルバンカーも、歪んだまま戻らない。
何より、呼吸が浅く、目が焦点を結ばない。
それでも、彼は前を向いていた。
「……もう一撃……もう一回……叩き込む……」
誰にでもなく呟くように。
もはや戦いではなく、“本能”が彼を動かしていた。
宗方由梨は、距離を取った場所に静かに立っていた。
左肩には大きな裂傷。右太腿にも打撲痕。
それでも、背筋はまっすぐで、銃は揺れもせず構えられている。
「……もう充分よ。あなたは、もう……限界」
目の前の男は、いまだに拳を握っている。
なのに、その拳は、今にも崩れそうな、砂の塊のようだった。
「……本当に、“もう一回だけ”で、変えられると思ってたの?」
その声に、相沢は反応しない。
ただ、宗方由利は幽体化を始めながら低く、ゆっくりと踏み出す。
一歩。
また一歩。
血の足跡を残して。
宗方の指が、静かに引き金に触れた。
(狙うのは、変形されていない場所。
もう“守れる範囲”はほとんどない。
この一発で終わらせる)
彼女は一歩踏み込んだ。
そして──銃口が動いたのと同時に、幽体化が解除された。
(──“そこ”!)
宗方の目に映ったのは、相沢の右胸──心臓を外した、鎖骨の下。
防御を張るには中途半端で、攻撃にも使えない、最も油断されやすい“死角”。
パン──
乾いた音が、最後の音となった。
相沢の身体が、のけぞりながら崩れた。
変形していた部分が順に金属音を立てて、元の人間の形に戻っていく。
手足。
胸。
顔。
すべての機構が、まるで壊れた玩具のように“終わって”いった。
宗方は銃口を下ろし、そっと瞳を伏せた。
「やっぱり、あなただって“壊れる”のね」
アスモデウスは、黙っていた。
敗北の瞬間、彼女は笑わなかった。
代わりに、その場を去るかのようにくるりと踵を返し、視線だけでアガレスを見た。
「拾っていきなさいよ」
アガレスは頷いた。
宗方が近づく。
相沢の亡骸に、ゆっくりと手を伸ばす。
──そこにあった。
黒鉄の指輪。
重厚で、冷たく、血に濡れていた。
それが、この戦いの勝者に与えられる“証”。
「……返してもらうわね、“彼”のために」
宗方はその指輪を、無言で左手の薬指にはめた。
それはかつての恋人の指に光っていたものと、よく似ていた。
「これで、一歩近づいたわ。
あなたに……私のもとへ戻ってきてもらうために」
その声に応える者はいない。
けれど彼女の目には、確かに“誰か”が映っていた。
もうこの世にはいない、彼女だけの“愛の亡霊”。
その幻を手に入れるために、彼女はまた、次の戦いへと歩き出す。
高層ビルの吹き抜けのガラスの向こうに、夜が沈んでいた。
燃え尽きた会議室。
焦げた空調パネル。
吹き飛んだ家具と、倒れた男の亡骸。
静寂の中、かすかに靴音が二つ響いていた。
ひとつは、金色の髪を揺らす女悪魔。
もうひとつは、黒の燕尾服に身を包んだ中性的な影。
アスモデウスと、アガレス。
どちらも、勝者でも敗者でもない。
ただ──この戦いを最初から最後まで、最前列で観劇していた者たち。
「……終わったわねぇ、最初の演目。
まったく、見応えはあったけど……ずいぶん泥臭い男だったわ」
アスモデウスは、崩れた壁にもたれかかる。
ヒールの先で、焦げた書類をつつきながら、退屈そうに肩をすくめた。
「愛想も気品もないし、礼も言わないし……。
でも、嫌いじゃなかったわ。ああいう“壊れた人形”」
「彼の“願い”は、正直で愚かで……それゆえに純粋でした」
アガレスは、窓の外に視線を向けた。
街の灯りは、変わらずきらびやかに瞬いている。
「人生をやり直したい、と。
随分と、手の届かない祈りですね」
「ふふ、それを言ったら、由梨の方がよっぽど厄介よ。
“もう壊れてるのに、まだ壊したがってる”のだから」
「……願いを語らず、心を曝け出さず、それでいて“すべてを欲しがる”……
人間は欲望を秘めたままでも、こうして他人を殺せる」
アガレスの声には、一抹の憐憫すら混じっていた。
だがそれも、感情というよりは“論理的結論”としての評価だった。
「でもまぁ……お互い良いカードを引いたわよね」
「ええ、こちらも満足です。
“殺す理由も、生きる理由も曖昧な者”ほど、美しい惨劇はありませんから」
「ふふ、ほんと、素敵な舞踏会の始まりね」
アスモデウスは、唇に指を当てて笑う。
その目は、次の戦いをすでに楽しみにしていた。
「でも──一番の皮肉はね、アガレス」
「なんでしょう?」
「彼の“やり直したい”って願い、ね。
あれ、もし叶ったとしても──どうせまた同じこと、繰り返すわよ。
だって、彼って結局、誰かのせいにして生きてきたんだもの」
「それでも……“それに気づく権利”くらいは、あったかもしれませんね。
それを得る前に終わってしまった。まるで──“目覚ましが鳴る前に”夢から落ちるように」
アガレスの声は、わずかに静かだった。
その言葉の裏にあったものを、アスモデウスは見逃さなかった。
「……ふふ、あんた、本当に由梨のこと気に入ってるのね」
「愛情ではありません。
ただ、彼女が“本当に願っていること”を……彼女自身が理解していないことだけが、気がかりです」
そう、願いは語られていない。
ただ、その目が、血を浴びた指輪を見つめたときの熱だけが──
彼女の心の輪郭をかすかに照らしていた。
「じゃ、次の幕の準備に行くわよ。
今度はどんな連中が踊ってくれるのかしら──“この暗黒舞踏会”でね」
「幕はまだ、始まったばかりです」
ふたりの悪魔が、闇の中へと消えていく。
仮面の下で笑う者と、仮面を持たぬ者が、また次の“役者”を迎えるために──
死の匂いが消えていく。
血と硝煙の残滓だけが、前戦の痕跡を物語る舞台の片隅。
そこへ、二つの影が新たに踏み込んだ。
「……ずいぶん生臭ぇ場所だな、ここ」
吐き捨てるように呟いたのは、犬飼京介。
身長170センチ、肉付きは、痩せても太ってもいない。
柄の悪いストリートファッションに身を包み、タトゥーのようなペイントの入ったアウターが揺れている。
21歳、無職。
口癖は「うぜぇ」と「ぶっ殺すぞ」。
目の奥には、意味のないイライラだけが渦巻いていた。
「チッ……どーせどっかのバカ共の命が飛んだんだろ。知らねーけどよ」
建物の一角を乱暴に蹴りながら、彼は独り言を吐く。
そこへ、煙のように姿を現したのは、四肢が獣のような筋肉を持つ悪魔──アモン。
「血の匂いが嫌いか? それとも、舞台に立つのが怖いか?」
「ハァ? てめー、誰にモノ言ってんだコラ」
「ふふ……君の怒りは美しい。
それは理由を持たないからだ。理不尽なら理不尽ほど、悪魔は好きなんだよ」
アモンの声は低く野太く、しかしまるで歌うように響いていた。
「行け。お前の相手は“理屈”で動く奴だ。お前とは正反対だ。
さあ、“理由のない怒り”と、“理屈しかない秩序”──どちらが強いか、試してみようか」
犬飼は舌打ちをひとつ。
不機嫌なまま、ポケットに手を突っ込み、戦場へ向かった。
一方、整然とした足音でそこへ現れたのは、背筋を軍人のように伸ばした男だった。
風巻大吾──元自衛官。
身長185センチ、筋肉質。角刈り。年齢31歳
表情に感情はない。だが、その奥には、制度そのものに対する執着が潜んでいた。
「この区画は、既に戦闘痕跡あり。危険区域として即時封鎖対象」
彼は周囲を見渡すと、軍用の小型端末を取り出し──すぐに粉々に踏み砕いた。
もう、現実の法も命令も、この世界には届かない。
それでも──彼の中には、“法律”が生きていた。
「私は命令する。“無秩序な存在”を、ここで抹消する」
その隣、柔らかな影のように佇んでいたのは、三つ首を持つ獣の姿をした悪魔──ナベリウス。
「おやおや、随分と機械のようなお人だ。
だが、そういう人間ほど──“壊れる音”が一番いいんですよ」
「私は壊れない。“正しさ”に従う限り、私は間違えない」
「だから楽しいんです、風巻様。
間違えているのは、“世界”の方ですからね」
そして、時が満ちた。
廃墟のような立体駐車場跡──
崩れかけたビルの影と吹き抜けのコンクリートフロアの間に、
二人の男が現れる。
「おいおい……あの悪魔の説明だと軍人くんだっかけ?。お前ら、俺みてーの人間、大嫌いなんだろ?」
犬飼が笑う。
その笑みには敵意と無関心が混ざっていた。
風巻は返さない。
ただ、拳を握る。
その周囲で──空気が震えた。
微細な“風圧”が、まるで刀のように犬飼の髪をなびかせる。
「……暴力を理由なく振るう者は、全体秩序を崩壊させる。即刻、制裁対象」
「へぇ? じゃあ……ぶっ殺しても、文句ねぇってことでいいんだな?」
犬飼の腕が変化する。
筋肉が異様に膨れ上がり、皮膚の下から獣の骨格が浮かび上がる。
手首から先が、鋭い牙を持つ猛獣の顎と化した。
「“理由のない暴力”ってやつ、見せてやるよ。
オレはただイラついたからてめぇを噛み殺す。それだけだ!!」
対する風巻の足元には、突風のような圧力が渦巻き始める。
「“無秩序”はすべて、風に消える──」
**
こうして、第2戦の幕が上がる。
怒りを剥き出しにする野獣と、法を語る風の番人が、
この世界で最も無意味で、最も本質的な問いに対して、拳で答えを出そうとしていた。
また次回!