終幕前夜 後編
燃え尽きそうな視界の先に、風巻大吾の背が揺らめいている。
焦点の合わないまま、その影を追いながら、宗方は心の底からひとつの思いを吐き出した。
――あたしが欲しかったのは、あいつだけだったのに。
(勝手に死ぬなんて許せない……あたしのモノだったのに)
かつての彼。
あの柔らかな声、器用に淹れてくれる珈琲、誰にでも優しい仕草。
気に食わなかった。
優しい顔して、あたしだけを見てるなんて思わせて――
でも、あたしは知っていた。
あいつが、あたしだけのモノじゃないってことを。
だから囲い込んだ。逃げられないように。
他の女の連絡先を消させて、スマホも財布も預かった。
毎晩同じ時間に電話させて、居場所も、心も、全部縛って――
でも、事故は起きた。
歩道橋から落ちた車。壊れたブレーキ。砕けた骨と、潰れた肉と、赤黒い血の匂い。
(何で勝手に死ぬのよ。何で――あたしの許可もなく、モノじゃなくなるのよ)
愛なんてなかった。
ただ、**“所有”**したかっただけだ。
欲しいと思ったものは、全部手に入れてきた。
金でも地位でも、躊躇わず掴み取ってきた。
なのに、どうしてあいつだけ――
あたしの許可なく、いなくなるの?
この舞踏会に来た理由は、それだけだった。
「返してよ……あたしの、恋人を……」
涙は出なかった。
出るはずがなかった。愛していたわけじゃない。
ただ、モノとしての恋人という存在が、この世界に必要だったのだ。
あたしが、まだ“所有している”という実感が欲しかった。
静かに、宗方は息を吐いた。
そして、次の瞬間――彼女の影が大きく、巨大に膨れ上がっていく。
「帰ってくる――いいえ、帰ってこさせる……っ!」
宗方由梨の叫びが、摩天楼の屋上を揺らした。
それは哀願でも祈りでもなかった。
明確な要求だった。
この世界のどこかに存在する“失われた恋人”を、自分の掌の中に取り戻すための。
その瞬間、彼女の影が――暴発した。
黒くうねる影が床を走り、夜の闇を這うように広がっていく。
建物の縁からこぼれる月明かりに照らされ、そのシルエットは生き物のように蠢く。
「まだくるか……」
風巻大吾が構えを取る。
鉄と風、そして獣の力を融合させたその体は、既に戦いで何度も変質していたが――まだ崩れはしない。
彼の前で、宗方の影が蠢く無数の手となって立ち上がった。
それはこれまで見せた“影の手”とは異質だった。
一つ一つの手が太く、長く、節くれだっている。
まるで廃墟の柱のように、握られた拳が鉄骨の塊のように重い。
それが束ねられていく。
無数の手が、絡まり、織り合い、まるで**“ひとつの巨腕”**を成すかのように。
「……ふざけた執着だな」
風巻が低く呟いた瞬間、
**巨大な“影の拳”**が振り上げられた。
その質量と風圧だけで、周囲の空気が歪む。
「壊れろ……壊れろ、あたし以外の全てッ!!」
宗方由梨の絶叫と共に、
その一撃が、風巻大吾のいる場所めがけて、振り下ろされた――
――ドンッ!!
屋上のコンクリートが砕け、床材がめくれ上がる。
風巻の立っていた地点が、粉塵と衝撃波に包まれ、夜の摩天楼に響く轟音が鳴り響いた。
しかし――
その拳の中心、崩れた地面の奥から、ゆっくりと鉄に変わった腕が姿を現す。
まだ終わってはいなかった。
吹き荒れる破壊の余波の中、
砕けた屋上の中央から、重く鈍い音を立てて、鉄化した右腕がせり上がってくる。
「……お前の拳、なかなかどうして重かったぞ」
鉄の鎧を纏った風巻大吾が、崩れた瓦礫を押しのけ、ゆっくりと立ち上がった。
その全身は――再び重厚な金属の輝きに包まれていた。
だが、かつてのそれよりもさらに“密度”がある。
鹿倉翔伍から奪った能力、「鉄化」を限界まで高め、超高密度の装甲へと進化させていた。
「……は、化け物め……」
膝をついていた宗方由梨の顔が引きつる。
“影の巨腕”――あれは彼女の命を燃やして放った、最大の攻撃だった。
だがそれすら、今の風巻には届かなかった。
「終わりか?では、今度はこっちの番だな」
そう言った瞬間、風巻が一歩踏み込む。
その場に留まり、拳を構えると同時に、風を纏わせた衝撃波を圧縮。
さらに鉄の拳を風の渦で包み込んで――
「吹き飛べっ!!!」
風巻大吾の**“鉄の風拳”**が放たれた。
風の力で圧縮された衝撃波が弾丸のごとく宗方の腹部を撃ち抜く。
金属の音が鳴り、コンクリートに亀裂が走ったかと思えば、
宗方由梨の左半身が――吹き飛んだ。
「――――がっ……」
血が散り、臓器が抉られ、残った半身が地面に転がる。
それでも宗方は、すぐには絶命しない。
両手で身体を支えながら、床を這い、尚も風巻を見上げていた。
彼女は、まだ――喋れる。
コンクリートの床に血の水たまりが広がっていた。
宗方由梨はその中心で、両肘を突き立て、なおも身体を支えていた。
呼吸は浅く、か細い。
それでも目だけは、冷たく燃えていた。
「……どうして……あなたは……まだ立てるの……?」
風巻大吾は黙っていた。
返事の代わりに一歩近づくと、宗方の真上に影を落とす。
その影の中で、宗方は、かすれた声で笑った。
「私……人生で……欲しいと思ったものは……全部手に入れてきたのよ……」
彼女の指が、腰のホルスターに伸びる。
「ブランドバッグも……別荘も……男も……ね」
そこには、彼女の愛用するグロッグがあった。
血で滑る指先でそれを引き抜き、よろめく身体を支えながら――銃口を上げた。
「……彼も……そう。
私のモノだった。
でも勝手に、事故で死んだの。
私に断りもなく。……ねぇ、それって、許せる?」
風巻の眉が、ほんのわずかに動いた。
「私は彼を……私の手に取り戻したい。
ただそれだけよ。愛なんて要らない。ただ、所有したいだけ。
壊れたオモチャだって、元に戻せば……また、私のものになるでしょ?」
そして引き金が引かれた。
パン――!
鋭い銃声が屋上に響く。
だが、鉄の額に当たったその銃弾は、無惨にもカン、と音を立てて弾かれた。
「……無理だ」
風巻の目が冷たく細まった。
「モノにしか興味ないお前には、法のありがたみなど、わかるまい」
宗方のグロッグが指から滑り落ちる。
力尽きた指先が、コンクリートに触れ――ようやく、彼女の身体が沈黙した。
宗方由梨の身体は、コンクリートの上で静止していた。
彼女の目はまだ見開かれていたが、その輝きはもう、過去のものだった。
風巻大吾は無言のまま彼女を見下ろす。
風が、夜の摩天楼の屋上を吹き抜ける。遠くでは崩れた照明塔がきしみ音を立てていた。
「……これが、お前の“所有欲”の結末か」
彼はゆっくりと歩み寄る。
鉄に変えた右腕は、まだ血と傷痕にまみれている――宗方の影の手との戦いの痕だ。
その足が、宗方のグロッグを蹴る。カラン、と音がして銃が転がる。
風巻はしゃがみ込み、宗方の左手に嵌められていた黒い指輪を見つめた。
「こいつを、俺がもらう」
その指輪には、まだかすかに黒い影が脈打っていた。
彼女の能力――影の手。冷たい所有欲と執着が焼き付いた力だ。
風巻は迷いなく、その指輪を引き抜いた。
だが――
「そこの手を、止めてもらえるかしら?」
その声は、背後からだった。
風巻が眉をひそめて振り返ると、そこに立っていたのは――東堂可奈だった。
ぶかぶかの防護服、顔を覆うガスマスク。
風の中で彼女は、まるで異形の兵士のように立っていた。
「……お前が、最後か」
風巻が立ち上がる。
指輪を掴んだ手は、まだ離していない。
可奈はゆっくりと首を傾ける。
「その指輪……渡してくれないかしら。あなたに、それを持たせるのは――なんとなく、嫌なのよ」
風巻の口元が歪んだ。
だが次の瞬間、彼は指輪を懐にしまい、再び可奈を見据えた。
「やるというなら、望むところだ」
「ふふ……少しは休ませてあげようと思ったけど……始める?」
その瞬間――
冷たい風の中に、12人分の気配が走った。
夜の摩天楼。その頂きにある戦場で、風が唸るように吹き抜ける。
宗方由梨の骸は影の手と共に静かに横たわり、風巻大吾はその亡骸に背を向け、立ち尽くしていた。
そして、東堂可奈が少し離れた場所でじっと彼を見据える――その沈黙の空気を、嘲笑が破った。
「フフ……まったく、これだから人間は面白い。恋人が死んだくらいで、あれほど執着するなんて」
闇の裂け目が走る。そこから最初に姿を現したのは、アガレス――宗方由梨の悪魔だった。
軍人のような姿で、だが口元には冷笑を浮かべている。
「執着こそが所有欲を生み、所有欲こそが戦いを引き寄せる。だから彼女は、舞踏会に選ばれたのだろうな」
続けて、グラシャ=ラボラスが姿を現す。
美丈夫の仮面の下で瞳を細め、風巻に目を向ける。
「風巻大吾……あなたはこれまでで最も野蛮で、最も純粋な殺戮者だ。あなたの“鉄の魂”には、少しばかり興味が湧くわね」
「獣のような感性に、いかれた信念を混ぜ込んだ化け物、ってやつだな」
その声に続き、次々と12の影が現れる。
それはこの“永遠の夜”の地獄を創造した支配者――12柱の悪魔たちだった。
ベリアル、マルバス、アスタロト、ベレト、フルフル、アモン、ナベリウス、アンドラス……
それぞれが異なる衣装と表情で空間を満たしていく。
舞台の天辺、かつて人間が作った最も高い塔の上で、悪魔たちは楽しげに語り合う。
マルバスが楽しさげに語る。
「さて……私の“獣”は宗方由利を越えた。最後に残るは、東堂可奈か。彼女が“ポエム”と“演技”、一体どう使うつもりか……ふふ、興味深い」
ベリアルが続く。
「大塚の死霊たちも、ようやく地に還ったな。だがあの男の“願い”――この場で叶えられた気がして、少し面白くなかったぞ?」
アスタロトが
「最終戦……面白くしてもらわなきゃ困るな。地獄の観客たちが、期待してるのだから」
アモンが
「そうとも。人間たちは、この戦いの中でしか、自分を証明できない。せいぜい足掻け――“死にたくない”という本能だけを支えに」
風巻は悪魔たちの会話を黙って聞いていた。
だが、ついに一歩を踏み出す。彼の視線の先――東堂可奈。
その全身を包む防護服の奥、ガスマスクの裏から、声が漏れる。
「……愛護の戦いか。ふふ、楽しみね。あたし、“物語の結末”ってものに興味があるのよ」
風の中で、夜が囁く。
悪魔たちが笑いながら立ち去るなか、風巻と可奈子の間に静かな殺意が流れる。
そして舞台は――




