十二年前の失態
「結婚式の翌日……急な仕事だったとはいえ帰って来れなかったこと、本当に申し訳ない」
頭こそ下げていないけれど、そう言った夫の目は、気まずそうに揺れていた。
「お仕事ですもの、旦那さまのせいではありませんわ」
わたしがそう答えると、夫は少しだけ目を伏せた。
「いえ。確かに結婚式の翌日は仕事でした。ですが……」
なかなか言葉を続けない夫を、少し首を傾げて見つめると、夫は言いづらそうに答えた。
「そのあとは……帰ろうと思えば、帰れました」
「え?」
夫の口から出てきてた言葉に、わたしは思わず目を瞬かせる。
帰れたの?
じゃあ、二週間も帰ってこなかったのはどうして?
少し俯いた夫の端正な顔に、黒い前髪が小さく揺れる影を作る。
「本当は数日、結婚休暇を申請していました。けれど、年上の男といきなり一緒に暮らすだなんて、嫌なのではないかと……それならば出来る限り関わらない方が良いのではないかと」
思考が追いつかない。
夫が帰ってこなかったのは、一緒に過ごすのをわたしが嫌がると思ったから?
「今思えば、後ろめたかったのだと思います。あなたは嫌ではないと言ってくれましたが、初対面の男との結婚を強いたのは事実なのですから」
自嘲を含んだため息交じりに夫は続けた。
「何より、僕は自分の要望ばかりを伝えて、あなたの希望を尋ねようとしなかった。初日にも伝えましたが、仕事については守秘義務があるので話せません。あの日のように、突然呼び出されることも多い。任務が終わらない限り帰れないし、結婚指輪もつけられない。僕は良い夫にはなれない……それでも、あなたの気持ちを確認しなかったのは違うと思いました」
視線をわたしに戻した夫は、揺るぎのない真っ直ぐな目をしていた。
「二週間もあなたを一人にしてすみません。どうかもう一度、時間をいただけませんか? そして、僕との生活で望むものがあれば教えてください。必ず叶えるとの約束はできませんが、できる限りあなたの意思を大切にしたいと思っています」
——本当に、真面目な人。
夫が帰ってこなかった理由に動揺していた心が、その言葉でゆっくりと鎮まっていく。
わたしがこの結婚生活に、望むもの……。
『この結婚は、僕があなたのお父上の後ろ盾を得るためにお願いしたものです』
わかっています。政から離れた今も、侯爵である父の影響力は魅力的ですものね。
『そのために、あなたに初対面の男との結婚を強いてしまったことを謝罪させてください』
ええ。貴族で、政治家の家に生まれた娘ですもの。
政略結婚の駒として使われる心積もりは、ちゃんとできていたわ。
夫は軍人なの。国を守る立派な仕事をしているの。
最初にきちんと話してくれたじゃない。
長期間、家に帰れないこともあるって。
だけど、
『僕との生活で望むものがあれば教えてください』
言ってもいいの?
まだ結婚してたった二週間だけど、あなたに会えないのは寂しいって。
まだ何も知らない「あなた」だけど、帰ってこないのは……一人きりの朝は寂しいって。
「あの……」
「はい」
夫がその黒い目でわたしを覗き込むから。
思わず、そわそわと視線を漂わせてしまう。
こんなことを望んでいいのかしら。
我儘な女だと思われたりしないかしら。
「……お仕事がお忙しいことはわかっています。けれ、もしよければ……朝ごはんを一緒に食べたい、です」
夫の動きがぴたりと止まった。
おずおずとその整った顔を見上げると、夫は近くでないとわからないぐらい、少し目を細めていた。
どうしよう……やっぱり、我儘なのかな。
忙しい夫へ、朝ごはんを一緒に食べたいとねだるなんて。
「……そんなことでいいんですか?」
「え?」
わたしの顔を見つめて黙っていた夫は、少し逡巡した後、気が抜けたような声を出した。
「もっと良い家具が欲しいとか、服が欲しいとか、宝石が欲しいとかではなく?」
「は、はい……実家では毎朝、家族で朝ごはんを食べていたので、旦那さまとも一緒に食べたいなって」
「家族」
わたしが頷くと、夫はぽつりと呟いた。
そして、乾きはじめている黒い艶のある前髪を、片手で掴んだ。聞き取れないほどの声で何かを呟く。
「あの……?」
「いえ……わかりました。できるだけ朝食は一緒に食べましょう」
本当に?
夫の返事に嬉しくて思わず頬が緩む。それを両手で押さえていると、再び尋ねられた。
「他には何かありますか? もしくは、困ったことはありませんか?」
「今のところは大丈夫です。アーサーもマリサも、とても良くしてくれていますし……あ」
「何かありますか?」
言葉を切ったわたしに、夫が続きを促した。
「ピアノを弾けるようにして頂くことはできますか……?」
「ピアノ?」
「はい。母の形見で、実家から持ってきたのですけど、ここは音楽室がないので」
そう言ったわたしに、夫が何かを思い出したように顔を顰めた。
「あなたのお母さまは……確か、十二年前に亡くなられたのですよね」
「ええ」
亡くなった母のことを思い出すと、いつもほろ苦い思いが込み上げてくる。
わたしがまだ7歳だった頃。
両親は夜会に参加するために出かけて行った。その帰り道、乗っていた馬車が横転して父は足に後遺症が残る大怪我を、そして一緒にいた母はそのまま帰らぬ人になった。
記憶に残る母が弾くピアノの音は、強く優しかった。母が愛用していた、胡桃の木で作られた小さなピアノはわたしと母を繋いでくれるものの一つで。
「王立陸軍、最大の……」
夫が何かをポツリと呟いた。
「え?」
わたしが聞き返すと、夫は「いえ」と言って首を振った。
「防音設備をつけましょう。そうすれば、いつでもお母さまのピアノが弾けます」
「いいんですか? ありがとうございます!」
嬉しくて笑顔でお礼を言うと、夫はピタリと黙り、また前髪を数秒間掴んだ。
◇◇◇
年下の妻が可愛すぎる。
二人で眠るには十分な広さがあるベッド。
その片側で、すやすやと眠る妻を起こしてしまわないように心の中で呟く。
何なんだ、この可愛い人は。
『この生活で望むものがあれば教えてください』
そう尋ねた妻の答えが、朝ごはんを一緒に食べたい……。
何だそれ。可愛すぎるだろ。
思わず、妻の前で漏れそうになった声は、必死に抑えた。
ああ、もっと早くに帰ればよかった。
自分は、こんなに可愛い妻と過ごせる時間をこんなにも無駄にしてしまった。
帰れと言ってくれたレージュとフィリアには感謝しないとな……。
深夜の静かな寝室に、眠っている妻の、ゆっくりした呼吸音が聞こえる。伏せられた長いまつ毛が目元に影をつくり、頬は淡いピンク色に染っている。
横になって妻の寝顔を見つめていると、思い浮かんだ古い記憶がぽつりと口から漏れた。
「王立陸軍最大の失態、か……」
それは、当時まだ士官学校に入学したばかりの自分でも、明確に覚えている大事件。
未だ、陸軍内で大きな爪痕を残す出来事。
今から十二年前、王家主催の夜会の帰り道、当時の宰相だった侯爵夫妻が敵対派閥が差し向けた賊に襲われた。
夫妻が乗っていた馬車は横転し、元宰相は片足に後遺症が残る大怪我、元宰相の妻は——頭を強くうち、そのまま死亡した。
国務についている要人には、その家で雇われた護衛以外にも、軍部での護衛がつく。
その出来事が起きた日も、腕の立つ軍人数名が護衛として派遣されていた。
それにも関わらず、賊は馬車に接近し……事件は起きた。
元宰相夫婦には二人の子供がいた。
優秀な後継としてすでに有名だった兄と、年の離れた幼い妹。
その妹こそ、今、自分の隣で穏やかに眠る妻だった。
元宰相は——結婚したことで義父となった侯爵は、襲撃事件に関わっていた敵隊派閥を一つ残らず駆逐した後、宰相職を辞任し、政治の第一線から身を引いた。そして早々に侯爵の座を息子に譲り、残された家族と、静かに暮らすことを選んだ。
義父が表立って王家や軍部を非難したことはなかった。ただこの十二年間、一切、政治の中枢には関わらず、口を出すこともなく、ただ沈黙を守り続けていた。
当時の状況を知る誰もが、義父は軍部に良い感情を持てないだろうと知っていた。もしあの時、護衛の数を増やしていれば。より腕の立つものを、護衛として派遣していれば。
死んだ人間は二度と帰って来ない。常に危険と隣り合わせの軍に従事しているからこそ、身に染みてわかる虚無感。
あの事件が起きた頃、自分は王立軍が設立した士官学校に入学したばかりだった。士官学校では授業どころではなく、教官たちが皆、真っ青な顔をして走り回っていたことを今も覚えている。
当時、まだ子供だった妻は、あの事件のことをどう思っているのだろう。
たとえ直接関わっていなくとも、自分の母を死なせた一端である軍部に勤める男との結婚を、彼女はどう思ったのだろう。
眠る妻の頬にかかる柔らかい栗色の髪を、起こさないようにそっと払う。
眠っている顔は穏やかで、どこかあどけなくも見えた。
妻が言った「家族」という言葉を思い出す。
そうだ。はじまりがどんな形であろうと、自分は彼女と家族になったんだ。
これから、どうなるのかはわからないけれど、こんな自分に嫁いでくれた人なのだから……誰よりも大切にしよう。
守り抜こう。
自分の妻一人守れないで、どうして国を護れると言えるだろう。
眠っている彼女の額にそっと口付ける。
「……必ず、」
必ず、貴女を守ります。
この命に替えても。
だから貴女は、こうして自分の腕の中で、毎晩穏やかに眠ってほしい。
更新しました。仲良しを書くのは楽しい。




