帰ってこない夫
「ほんっとうにありえない!!!」
実家から届いたお菓子と一緒にお茶を飲んでいると、そばにいたメイドのチェルシーが怒りを堪えられないように言った。
「チェルシー。奥さまの前ですよ、落ち着きなさい」
給仕をしてくれていた先輩メイドのシェリルが、静かな口調で後輩のチェルシーを嗜める。
「だって、非常識じゃないですか!? 昼過ぎに帰ると言ったくせに、もう二週間ですよ! 嘘つきも大概にしてほしいです!」
ぷんぷんと絵に描いた子供のように怒っているチェルシーを見て、わたしは思わず口を挟んだ。
「いいのよ、チェルシー」
「よくありません、お嬢さま!」
「チェルシー。『お嬢さま』じゃなくて『奥さま』ですよ」
シェリルが空になった皿を下げながら、チラリとチェルシーを見た。視線を向けられたチェルシーはピクリと肩を震わせたあと、不満げな顔をして「むうぅ」と唸りながらも黙った。
天気の良い春の午後。
わたしは実家の侯爵家から来てくれた使用人のシェリル、チェルシーに給仕をしてもらいながら、ゆっくりとした時間を過ごしていた。
暖かな光が、談話室の窓から穏やかに差し込んでいる。
夫と結婚してから、今日でちょうど二週間目だ。
初夜の翌朝早く家を出る時、「昼には帰る」と言付けを残した夫は……まだ家に帰って来ない。
連絡がなかったわけじゃない。
夫が帰ると言った昼過ぎ、青い顔をしたアーロンから「旦那さまですが……本日、帰宅が難しくなったようです」と告げられた。
アーロンの手元には、一通の電報があった。
『今日は帰れない』
書かれていたのは、たった一言。
夫は本当に多忙な人らしい。
夫が初夜言っていた、『長期間、屋敷に帰れない場合もある』というのは、こういうことなのだと思った。
「本当に申し訳ございません……!」
「まさか、ご結婚された次の日にこうなるとは、私どもも想定しておらず……」
夫の実家から来た使用人たちが真っ青な顔をして、あまりに何度も深く頭を下げるから、何だかわたしの方が申し訳ない気持ちになってしまった。
「いいの、わかっているから。大丈夫よ」
さすがに気にしないで、とまでは言えなかったけど。
ただ、そのタイミングでわたしの実家から到着した使用人たちには、夫の姿が見えないことで随分と心配をかけてしまったようだった。
「……ですけど、シェリル先輩だってあの電報を見た後、めちゃくちゃ怒ってたじゃないですか。執事のアーロンさんに掴みかかってたし」
「え。シェリル、それ本当なの?」
いつも冷静なシェリルが誰かに掴み掛かる姿が想像できずに、わたしが目を丸くすると、シェリルは澄ました顔をしたまま、新しいお茶をティーカップに注いでくれた。
「少し相違があっただけです。ですが、最終的にはアーロンさんと見解が一致しましたから」
シェリルはわたしが実家にいた頃から、身の回りの世話をしてくれているメイドだ。チェルシーは実家で見習いメイドとして働いていた子で、つい最近ハウスメイドに昇進したばかり。二人とも、実家からわたしの結婚のために、一緒に着いて来てくれたメイドだ。
熟読した令嬢雑誌の特集記事、『実録! 政略結婚で令嬢たちが言われた言葉4選〜その傾向と対策〜』には、たった一人で知らない土地へ嫁いだ女性たちが多かったから、心強い人たちが一緒であるわたしは、きっも幸運なのだろう。
たとえ、夫が家に少しも帰って来ないとしても。
——ねえ、先生。
あなたは「夫を支える良き妻になりなさい」と言ったけれど、その支えるべき夫が帰ってこない時は、どうしたら良いのでしょう。
シェリルとチェルシーの話を聞きながら、談話室の窓から見上げた空は、清々しい快晴で、何だか少し泣きたくなった。
◇◇◇
二週間前に結婚したばかりの、年下の妻がいる。
妻とは人に語れることは何もない、完全な利害関係での結婚だった。
——いや、この結婚で利を得たのは、きっと自分だけなのだろう。
さして裕福でもない、名前ばかりの子爵家の三男に生まれた自分には、将来は二つの道しかなかった。
どこかの家に婿養子に行くか、それもと平民として生きるかだ。
この国で爵位を継ぐには、生まれた順が優先される。
子供の頃から、二人の兄を持つ自分が実家の子爵家を継ぐことは、天と地がひっくり返らない限りないとわかっていた。
どこかの家の婿養子になるにしても、まずは生まれた順から、二番目の兄が優先されるだろう。
それならばと、貴族として生きることに拘っていなかった自分は、士官学校に進み、そのまま軍へ入隊することにした。
配属されたのは、暴力主義的な破壊活動や、他国からの侵略行為の防止を行う部隊だった。その主な仕事は、民衆に紛れての諜報活動——つまりは、潜入捜査とスパイ行為だ。
巷に流れる情報を収集、分析し、国益を損なう事態を未然に防ぐ——それが自分の仕事だった。
表舞台に立つことは殆どない仕事だが、意外にも性に合っていたのか、二十三歳の頃、一つの部隊の隊長に任命された。
仕事自体は、隊長に任命される前とさほど変わらなかった。問題は、任命に伴って階級が上がったことにより、国内外の暗い情報に触れる機会が増えてしまったことだ。
軍部は実力主義だが、国家運営のベースが貴族社会である以上、最終的には爵位持ちが有利となる。
国のために命を散らすことに異論はないが、都合のいい捨て駒にされる気はない。
そのためにも、どうしても強い後ろ盾が欲しかった。
それを、ポロリと自身の士官学校でお世話になった恩師に漏らした時だった。恩師は少し考え込んで言った。
「貴族の友人が娘の結婚相手を探している。末娘だから爵位は得られないが、これ以上ない後ろ盾となるはずだ。君のことを、一度友人に話してみよう」
政治家としても有名な貴族の末娘。
彼女の結婚相手には何人もの候補がいたはずだが、最終的には彼らではなく、しがない軍人である自分が選ばれた。
結婚前の挨拶はできなかった。
ちょうど二つの任務を終えたばかりで、その後処理に追われていたからだ。それでも、新居と彼女の結婚指輪だけは、合間を縫って何とか用意をした。
結婚式ではじめて会った妻の第一印象は、小さくて華奢な人だった。
高く結い上げられた淡い金髪に、どこか諦めたような光を灯すコバルトブルーの目。
自分の腕に添えられた細い指先は、よく見れば小さく震えていた。
結婚式での妻の様子を思い出しながら、陸軍本部にある待機室と名のついた仕事部屋で、溜まっていた書類を捌いていると、斜め前に座っていた部下が普段の性格に似合わない、どこか気遣った調子で話しかけて来た。
「あの、隊長」
「なんだ?」
「隊長って確か先月、結婚しましたよね? 家帰ってます? 奥さん待ってるんじゃないですか」
手にしていた書類を思わず強く握り締めそうになった。
「あ、ああ……そうだな」
「聞きましたよ、奥さん、美人らしいじゃないですか」
「……誰がそんなことを」
「ガルジア大将が」
部下から自分の上官の名前が発せられて、思わず頭を抱えたくなった。
妻との結婚は、あまり公にはしていない。
仕事柄、大勢に顔を知られるのは好ましくないからだ。
そのため、妻には申し訳なかったが、結婚披露宴も行わなかった。
いや、そもそも自分の保身のために、年下の妻を利用したのだ。
おまけに、外では話しかけるな、家には帰れない、結婚指輪は付けられない……あまりにも身勝手な「お願い」ばかりをしている。
しかし、そんなことを知らない部下のレージュは、飄々とした雰囲気で話しかけてくる。
「家帰ったら美人の奥さんが『おかえり』って言ってくれるんでしょ? 良いじゃないすか。あ、それとも期待してたほど、奥さん美人じゃなかったとか?」
「そんなことはない」
そこだけは強く否定をした。
「……綺麗な人だ」
結婚式で見た横顔も、初夜に寝室で見た少女から大人になったばかりの初々しさも。自分には勿体無いほど、綺麗な人だった。
「でも隊長、今だに独身寮で寝起きしてますよね? 何で帰らないをですか? よっぽど性格が悪かったとか?」
レージュは平民出身の部下で優秀だが、一癖も二癖もある性格をしており、割とズカズカと質問をしてくる。
「……人となりが分かるほど話していない」
「はあ?」
レージュの顔が珍しく、不可解げに歪む。
「結婚式の日以降、話していない」
「どういうことっすか!?」
本当は、こんなはずじゃなかった。
溜まっていた有給も合わせ、結婚式の日を含めた十日間の休暇を何とか捥ぎ取っていた。
新居も最低限の家具しか用意できておらず、妻が生活しやすいように整えるつもりだったし、その間、嫁いでくれた妻とも交流できればと考えていた。
しかし、結婚式の翌日に呼び出されるとは、さすがに思ってもみなかった。
昼過ぎには終わると聞いていた会議への参加要請だったが、意味もなくジリジリと引き伸ばされた結果、終了したのは太陽が夕闇に沈んだ後だった。
さらにそこから、一部の上役と会談をし、全てが片付いたのは日付が変わる頃。
家に帰ってもよかったのだが、深夜に使用人を起こすのも忍びなかったし、何より結婚式で小さく震えていた妻の指先を思い出すと、見知らぬ男と一緒にいるよりは、一人の方が良いのではないだろうか。
そう考えたこと、軍の独身寮をまだ引き払っていなかったことで、ズルズルと帰るタイミングを逃してしまい、今日で二週間になってしまった。
「二週間!? それ絶対帰った方がいいやつですよ! 奥さん家で一人きりじゃないですか!!」
珍しくレージュが焦った顔をしていた。
「しかし、使用人もいるし……」
突然、ガチャリと待機室の隣に用意されている仮眠室の扉が開いた。
片手にウサギ柄の毛布を握り締め、眠そうな緑の目でこちらを睨んできたのは、うちの部隊唯一の女性隊員だった。
「レージュ……うるさい。ねむれない」
「え、俺?」
心外だという顔をするレージュを置いて、俺は部下に声をかけた。
「いたのか、フィリア」
「二時間前から、いた」
レージュが呆れたようにフィリアの方へ体を向ける。
「えー、じゃあ声かけろよ」
「今日の朝、やっと任務が終わって、眠かったから、寝てた」
「そりゃ、仕方ねぇな。おつかれー」
小さな欠伸をして、フィリアは眠たげに目を瞬いた。
「そうだ、フィリア」
レージュが何かを思いついたようにフィリアに尋ねる。
「なあ、フィリア。もしお前が政略結婚したとして、相手が結婚した次の日から二週間、帰ってこなかったらどう思う?」
「……? 他に、本命の女が、いると思う」
「他の女なんていない!!」
しまった。
仕事柄、何が起きても反応を示さないように訓練を積んでいたはずなのに、自分のことだからか、思わず反応してしまった。
「え。いきなり、叫び出すとか何なの。怖っ」
フィリアが「何こいつ」と言わんばかりの顔でこちらを見る。
「まぁまぁ。フィリア、座れよ」
レージュがフィリアを自身の隣の席に誘う。
怪訝そうな顔をしたまま、大人しく隣に座ったフィリアにレージュが言った。
「フィリア、隊長は結婚式の次の日から独身寮に泊まり込んで二週間家に帰ってないらしい。奥さんを家に一人にして」
「え?」
フィリアの目が丸くなる。
「どういう、こと?」
結婚式の次の日に中将から呼び出された。
さっさと帰るつもりが、結局その日は帰れなかった。
約束を破ってしまったことが気まずくて、仕事だと言って二週間、独身寮にこもっている。
レージュの簡潔な説明を聞いているフィリアの眉間に皺がより、眠たげだった眼光が鋭くなっていく。
「フィリアはこの状況、どう考える?」
「今すぐ帰れ、この仕事中毒」
上司に対する言葉遣いではないが、フィリアもまた、貴族の生まれだったことを思い出す。
妻と似た立場だからこそ、思うところがあるのかもしれない。
「ありえない。帰れなかったものは、仕方ない。私たちの、仕事はそんなもの。でも帰れるなら、帰るべき。結婚した、ばかりでしょ?」
「だか、ほとんど話したこともない男と一緒にいるのは彼女も気まずいだろう」
「責任転嫁」
言い訳じみて聞こえたのか、フィリアがはっきりと言った。
「奥さんに、そう言われたの?」
「いや……」
そんな人ではなかった。
初夜、二人きりで話をした妻は、子供のように真っ直ぐこちらを見て、「この結婚を嫌だと思っていない」と……「貴族の結婚とは、そんなものだ」とあっさりと答えた。
そして、こちらからの理不尽な「お願い」にも、文句の一つも言わず頷いてくれた。
そのコバルトブルーの目に、結婚式と同じ、どこか諦めたような光を灯して。
「あ、そうだ」
フィリアはふらりと立ち上がると、ドアが開いたままの仮眠室に入り、一冊の本を手にして戻ってきた。
「これ知ってる? 最近、王都の女子の間で流行ってる雑誌」
「俺は知らないな。どんな雑誌だ?」
レージュが興味深そうにフィリアの手元を覗き込む。
「月刊令嬢。これは先月号だけど、特に、この特集記事が人気」
「『実録! 政略結婚で令嬢たちが言われた言葉4選〜その傾向と対策〜』…? これまた面白いもんが流行ってんな」
「流行を知るのも、仕事の一つ」
「確かにな。で、内容は……「初夜の晩に言われた最低言葉ランキング」エグい記事だな……んで、第一位『お前を愛することはない』」
グラリ、と体が椅子から落ちそうになった。
「隊長、まさかそれ、言ったの?」
「……いや。似たことを言おうとして、執事に止められた」
「うわあ……隊長ん家の執事さん、優秀っすね」
向けられている部下二人からの視線が痛い。
初夜、妻が待つ寝室へ向かおうとする直前、アーロンに「僕はあなたを愛さないから、あなたも無理に僕を愛そうとする必要はない」と伝えようと思うと告げた時のことだ。
普段は穏やかなアーロンから、鬼の形相で掴み掛かられた。
「いいですか? 奥さまは王家にも嫁げる身分の方ですよ。それをわざわざ、旦那さまに嫁いでいただいたのです。それなのに、『愛さない』……? 一体何の権利があって、そのように上からものを言えるのです!? それよりよ『こんなむさ苦しい男と結婚していただいてありがとうございます』と感謝すべきなのでは!? いや、むしろ『初対面の不甲斐ない木偶の坊と結婚することになってしまって、申し訳ありません』と謝罪すべきだろうが!!」
どうやら、今日の部下二人の反応を合わせると、自分はかなり危ういことを言いかけていたらしい。
「隊長って、私生活は、ポンコツ……?」
「プライベートでは人心掌握術とか使わないタイプなんすね」
「レージュは使うの?」
「そりゃ、使えるものは使うだろ」
レージュが顔をしかめて雑誌のページをめくった。
「それで、第二位は……『お前とは白い結婚だ』。貴族っつーのはバカばっかりなのか?」
フィリアがこちらをチラリと見る。
「隊長、まさかこれも、奥さんに言ったの?」
「それは言ってない!」
「え、じゃあ『愛することはない』くせに、一発ヤろうとしたって、こと…?」
嘘だろ、とレージュが小さく呟いた。
「隊長。さすがに、それは男としてどうかと……」
二人から揃って「お前、屑だな」と言わんばかりの視線を向けられ、背中にじんわりと嫌な汗が滲む。
「違う! 初対面の男と、突然夫婦として暮らすんだから、無理に相手を好きになる必要なんてないのだと……」
「言葉足りなすぎ。あと、貴族令嬢の、決意舐めすぎ」
フィリアが氷のように冷たい目つきで言葉を続けた。
「隊長が奥さんを、選んだ理由は知らないけど。隊長は、離婚したいの? 嫌われたいの? 政略だろうが何だろうが、このままだと離婚案件だよ」
「それは……困る」
後ろ盾が欲しくて結婚した。
妻には何の利もない結婚で、自分が良い夫になれないだろうこともわかっていた。
自身の保身目当てで結婚を申し込んだ男が言えることではないが、だからこそ、できる限り彼女に関わらない方良いのではないかと。
けれど、それはただ、自分の中の罪悪感から逃げようとしただけじゃないだろうか。
あのコバルトブルーの諦めたような灯りから、逃げ出したかっただけじゃないだろうか。
それに、自分の要望ばかりを伝え、彼女がこの結婚で望むものを尋ねようとさえしなかった。
『旦那さまが床で寝ているのに、妻のわたしがベッドで寝るなんて、そんなことできません!!』
初夜、床で寝ると言った自分にそう言い切った彼女のまっすぐな目を思い出す。
力無く椅子に座り込んだ自分に、フィリアの呆れた声が降って来た。
「早く帰って、奥さんに『遅くなってごめんなさい』って、謝ってきたら? あと、他に女がいないことも言った方が、いいかもね」
——そうだな。そして妻に、すまなかったと謝ろう。
彼女はまだ、自分を受け入れてくれるだろうか。
「帰ることにする……」
「それがいいっすね」
机に散らばる書類を片付けて立ち上がる。
ついでに、独身寮によって、着替えと一緒に荷物もいくつか持ち帰ろう。
「美人の奥さんによろしくー」
能天気なレージュの声を背中で聞きながら、待機室の扉を閉めた。
今から帰ると、おそらく夕食時になるだろう。
陸軍本部で自宅宛に電報を打ち、独身寮に寄って荷物や洗濯物をまとめた。
軍人としては情けないことだが、いつもよりノロノロと歩きながら家の門をくぐった時、玄関に誰かが立っているのが見えた。
夕陽に煌めく淡い金髪。薄い青緑色のワンピースが、春の風で揺れている。
視線が合い、少し恥ずかしそうな、その笑顔に頭がクラリとした。
「おかえりなさい、旦那さま」
二週間前に結婚した、可憐な妻がそこにいた。
◇◇◇
待機室で上司の背中を見送った後、フィリアは自分より目線の高い同僚を見上げた。
「隊長の奥さん、美人なの?」
「そうらしい。隊長が『綺麗な人だ』って言ってた」
「寄ってくる女は、全部ハニトラだと、思ってる隊長が、奥さんを『綺麗な人』……?」
しばらく考えて、一つの考えに思い当たったフィリアは、遠い目をして呟いた。
「隊長、奥さんに捨てられなきゃ、いいね……」