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ひとりきりの朝

 

 見覚えのない天井、はじめて聞く風の音、馴染みのないシーツの肌触り。


 ここ…どこかしら。


 ゆっくりと意識が浮き上がってきて、パチリと目が覚めた。


「っ……!」


 そうだ。わたし、昨日結婚したんだわ。


 ベッドから起き上がって周りを見渡すと、寝室にはわたし一人きりだった。

 ぽっかりと空いたベッドの片側に残る、歪んだシーツの皺。そっと指を滑らせると、ほんの少し温かい。ゆっくりと消えていくその温度に、なぜか少し胸が痛んだ。


「あら、奥さま。お目覚めになったのですね」


 聞きなれない声にビクリとしてドアの方を見ると、少し開いたドアの隙間から、エプロン姿の年配の女性が顔を覗かせていた。


 たしか、この人は。


「マリサ……?」


「はい、奥さま。おはようございます。すぐにお茶とお召し物をご用意しますね」

「……ありがとう」


 マリサは昨日、わたしがこの屋敷に到着してから食事や着替え、入浴の手伝いをしてくれた使用人だ。

 しばらくして、ノックの音とともに寝室へ入ってきたマリサは、白いティーカップと洗面器、タオルが名乗ったお盆を手に持っていた。


「今日の夕方には、ご実家の使用人が到着します。それまではこのマリサがご対応いたしますので」


 そう言いながら、わたしを鏡台の前に座らせたマリサは、温かいお茶が入ったティーカップをわたしに手渡した。


「今日は何を着られますか? どんな髪型がお好きですか? 奥さまが心地よく過ごせるようにしましょうね」


 マリサがブラシでわたしの長い髪を丁寧に解かしながら、鏡越しに微笑む。


「本当に綺麗なお髪ですこと。こんなに可愛らしい奥さまをお迎えできて、坊ちゃ……旦那さまは幸せだわ」

「あの、旦那さまは……?」


 わたしが姿の見えない夫について尋ねると、マリサの、優しく髪をすく手が一瞬止まった。


「旦那さまは職場からご連絡があって、朝早く陸軍の詰所に向かわれました。奥さまはよく眠っていらっしゃるようだから、起こさないようにと」


 結婚した次の日に、仕事……?


「ですけど、昼過ぎには帰るとおっしゃってましたから!」


 鏡越しにわたしの顔を見たマリサは慌てたように言った。


「午後は旦那さまとお茶をご一緒しましよう。ぜひ、そうしましょう! 美味しいお茶菓子をご用意しますので。あ、その前に朝食ですね。ご用意は出来ておりますよ、ええ!」


 表情を変えたつもりはなかったけれど、マリサには気を使わせてしまったらしい。

 そして政略結婚なのに、少しは仲良くなれたらいいなと、心のどこかで思っていた自分にも、内心呆れてしまった。


「教えてくれてありがとう、マリサ。あと、このお茶、美味しいわ」


 わたしが微笑むと、マリサはほっとしたように笑った。


「昨日、こちらに来られた時よりも、顔色もよろしくなりましたね。ゆっくり眠れたようでよかったです」


 にこにこと笑顔で笑うマリサに言われ、はじめて鏡に映る自分の顔色の良さに気づいた。

 普段は寝つきが良くないせいもあって、目の下に隈ができやすかった。けれど、昨日は夢も見ずに眠ったせいか、隈は消えて頬が薄いピンク色に染まっている。


 ふと、わたしは昨日サイドテーブルにあった硝子製のポットを思い出す。


『何か入っているかもしれません。飲まない方が良い』


 確か夫がそんなことを言っていた気がする。

 わたしは恐る恐るマリサへ尋ねてみた。


「昨日、持ってきてくれたポットだけど……」

「あれてすか。旦那さまにも聞かれましたけど、あれはお水にレモンとひとつまみのお塩を入れたものですよ」


 マリサはわたしの髪をすく手を止めずに言った。


「全く、旦那さまにも困ったものですわ。職業病かは知りませんけど、変なところで疑い深いんですから」

「職業病?」

「軍人だから仕方ないのかもしれませんけどね。そのせいで、そこそこ顔はいいのに、浮いた話一つなかったのですよ」


 髪をとかし終わったのだろう、ブラシを持つ手を下げ、マリサは鏡越しにわたしと目を合わせた。


「髪型はどうされますか?」

「そうね……マリサのおすすめはあるかしら」

「そうですねぇ。でしたら、髪を片側へ寄せて編み込んで、そのまま流すのはどうでしょう。結いあげるわけではないので、時間もかかりませんし」

「じゃあ、それでお願いするわ」


 わたしが頷くと、マリサはいそいそとブラシを細い櫛へ持ち替え、わたしの右耳から後ろの髪を丁寧に編み込み始めた。最後にラベンダー色のリボンがついたクリップを髪に留めてもらい、髪型は完成した。


「ありがとう。マリサは髪を結うのが得意なの?」


 わたしがマリサを振り返ってお礼を言うと、少し照れた様子でマリサは微笑んだ。


「元々は、旦那さまのお母さまのレディースメイドをしておりましたから、一通りのことはできますよ」


 レディースメイドは、屋敷の女主人の一切の身の回りの世話をする専任の侍女のことだ。


「そうなの……マリサは、旦那さまとは長い付き合いなの?」


 わたしの問いかけに、マリサは手早く櫛やブラシを片付けながら答えた。


「はい。旦那さまがお生まれになる少し前、私も子供を出産いたしまして、その頃から旦那さまのナニーを。その後は、メイド長を十年ほど務めておりました」


 そう言って穏やかに話す目は、懐かしい昔を思い出すものだった。


「年も取りましたし、そろそろお暇を頂く頃かと思っていたのですが、この度旦那さまがご結婚されるということで、引き続きお仕えすることとなりました」


 優しい手がそっとわたしの肩を撫でる。


「旦那さまがこんなに可愛らしい奥さまを迎えられたこと、使用人(わたくし)たち一同、とても嬉しく思っています」


 その、人生で様々な経験を積んだ人だけが見せる眼差しに見惚れていたわたしは、マリサから「お洋服はどうされますか?」と聞かれ、慌てて頭の中に実家から持ってきたワンピースを思い巡らせた。


 この国は海に面していることで、湿度が高い。そのため、ドレスよりも涼しくて機能的なワンピースが女性の服装の主流だった。


 今日は動きやすいように裾が短めのワンピースにしよう。そう思って、マリサに薄いピンク色で、腰にリボンがついたワンピースを持ってきてもらうよう頼んだ。

 夜着を脱いで、ワンピースに着替えたあとは、マリサに薄くお化粧をしてもらう。

 長年、子爵夫人のレディースメイドを務めていただけあって、マリサはお化粧も上手かった。


 その後はマリサに案内されて、食堂へ向かった。

 新築なのもあって、ピカピカで綺麗な廊下。夫の趣向なのか、絵画などの装飾品は一切ない。

 それが屋敷をひどく殺風景なものに見せていた。


「おはようございます、奥さま」


 食堂の入り口で、執事服を着た一人の男性が頭を下げていた。


「えっと……アーロン?」

「はい、奥さま。朝食の準備が出来ております。どうぞ、こちらへ」


 皺のない執事服をピシリと着たアーロンは、濃い茶色の髪に紺色の目をしていて、夫よりも少し年上に見える男性だった。


 アーロンが食堂の椅子を引いてくれたので、ワンピースのスカート部分に皺が寄らないようにそっと座る。テーブルの上には、すでに温かそうな朝食が並んでいた。

 野菜のスープに、胡桃入りのパン。丸い皿には、茹でたインゲンと目玉焼き。


 目の前に並ぶ食事へ感謝の祈りを捧げフォークを手に取る。


 そういえば、一人で、朝ごはんを食べるのは久しぶりだわ……。


 実家では、朝ごはんだけは、必ず家族揃って食べるのが習慣だった。


 別に、ルールとして決まっていたわけじゃない。

 それでも父とは毎日、朝食を一緒にしていたし、政務次官として多忙な兄も、朝食の席には必ずいた。

 特に会話が多かった家族じゃないけれど、朝ごはんだけはみんなで食べた。


 急に実家から出たという事実が強く心に迫ってきて、誤魔化すように用意された食事に手をつけた。


 胡桃入りのパンは香ばしい。

 柔らかく煮た野菜が入っているスープは、あっさりした塩味だ。


 近くにはアーロンが給仕のために控えていて、壁際にはマリサも控えている。

 それなのに、まるで世界で一人きりになったような、この感覚は何なのだろう。

 食べている間、ぽつぽつと色んな事が頭に浮かんで消えていく。


 そういえば、夫は朝ごはんを食べたのかな。

 一声ぐらいかけてくれても良かったんじゃないかな。

 もしかして、わたしと一緒にいたくなかったのかな……。


 次々と込み上げくるものに気を取られて、だんだん食べ物の味が分からなくなっていく。

 何とかそれを無視して食事を終え、食後のお茶を飲んでいると、アーロンが言った。


「午後に奥さまのご実家の使用人が到着いたします。それまではご不便を掛けますが、もう少々お待ちください」

「ええ。ありがとう」


 今回の結婚は、本当に急だった。

 婚約期間はたった一ヶ月。使用人を新たに募集して選定する暇はなかった。

 そのため、お互いに実家から数名の使用人を伴うことになった。

 昨日、この家に着いた後、すぐに夫の実家から来た使用人のアーロン、マリサ、そして庭師のローリーとは挨拶を交わした。

今日はわたしの実家から、メイドのシェリルとチェルシー、料理人のコンラッドがやって来る。


「それから、旦那さまについてですが……」


 アーロンが申し訳なさそうに切り出す。

 ドキリとわたしの心臓が大きく動いた。


「早朝より、軍の仕事で出掛けておりまして……」

「ええ、マリサから聞いたわ」

「左様でございますか。昼過ぎには帰るとのことですので、それまで奥さまには屋敷内をご案内させていただければと思います」

「わかったわ、ありがとう……あ」

「どうされましたか?」


 わたしはまた、思い出したことを口にした。


「昨日、旦那さまが寝室のドアが開かないって言ってたのだけど……」

「なんのことでしょう」


 アーロンがするりと視線を逸らした。

「寝室は、内側からのみ鍵をかけられます。今朝、旦那さまは寝室から普通に出て来られましたし……旦那さまの勘違いでしょう」

「そ、そう?」

「ええ、旦那さまの勘違いですとも」


 爽やかに笑ったアーロンは、きっちりとしたお辞儀をわたしへ向けた。


「それでは、奥さま。のちほど、お屋敷をご案内させていただきます。午後は旦那さまが戻られるまで、ゆっくりとお過ごしください。使用人(わたくし)ども一同、奥さまに忠義を誓い、心よりお仕えいたします」


 夫がわたしをどう思っているかは、わからないけれど。

 少なくとも使用人たちは、わたしを歓迎してくれているらしい。


「ありがとう、これからよろしくお願いします」


 その気遣いがうれしくて、わたしはそっと微笑んだ。


 ——けれど「昼過ぎには帰る」と言っていた夫は結局、その日帰ってこなかった。

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