気球旅行
気球を飛ばしてからもう三日になる。
太平洋の海はいつまでも続く。空気はだいぶ薄くなってしまったし、雨や氷の固まりは、容赦なく僕らに襲いかかってくる。
今は、嵐の中にいる。鋭い水の粒は、下や斜めから矢のように飛んでくるし、呼吸をするのもしんどい。
「まだ着かないのかい」
僕は彼女に訊ねる。
「ええ。まだよ。まだまだ着かないわ」
「こうしている間にも、世界は刻一刻と、破滅へと近づいているんだよ」
「そうね」
彼女は、双眼鏡を覗くのに熱中していた。雨が酷いので、何一つ見えていないくせに、双眼鏡を離そうとしなかった。
四日目の朝は晴天だった。
僕は、目を覚ました頃には、もう彼女はすっかり起きてしまっていて、双眼鏡で下を覗いていた。太平洋の海しかない。陸はなく、どこまでも水平線が広がっている。肉眼でも十分に見るべきものは見える。
「もうすぐ食料がなくなるよ」
僕は空になった缶詰を投げる。
「そう。鳥でも撃って食べましょう」
鳥の編隊が、僕らの気球と対峙するように飛んでいる。彼女は狩猟用のライフルを荷物箱から取り出し、身構える。
「雁かな?でもちょっと、なんだかあの鳥たち、大きいじゃないかな」
鳥の編隊が近づくと、案の定大きく、一匹の大きさは平均二メートル程はあった。小さい雛でも一メートル二十位はあった。(雛もきちんと他の鳥と間隔を空けて飛行していた)
しばらく呑気に観察していると、俄にその怪鳥の一匹が、気球を嘴で一差しした。すると、みるみる空気は抜け、僕らは、落下しはじめた。
「いまよ」
彼女はストップウォッチを取り出し、スタートボタンを押す。
「何をしているんだ」
「落下する速さを計っているの」
「そんな場合じゃないだろ。なんとかしなきゃ、地面に叩きつけられてしまうよ」
随分と長い間、落下していた気がする。
鳥の編隊は、なくなり、何故か、雛だけが残った。雛は、気球を周回し、僕らを不思議そうな目で見た。彼女は柵に頬杖をついて雛を観察している。
「あれ、みてよ。あの鳥、目が二重ね」
雛は、成長し、やがて大人の鳥になった。もう三メートル近くはある。落下速度は加速する。鳥は、やはり気球を周回する。鳥の羽や、引き締まった筋肉は落ち、しわしわの老鳥になった。羽根は抜け落ち、気球の周りを漂う。彼女は、羽根を一枚、空中で掴み、僕のジャッケットに刺した。
「帰ってから、この羽根で鳥のクローンを作りましょう」
「クローン作りなんて、『動物に関するクローン技術等の規制に関する法律』でとっくに禁止されているよ。僕は刑務所に三十年も入りたくない」
「三十年じゃないわよ。二十年よ」
「それでも駄目だよ」
鳥は、骨と皮だけになり、やがて皮も腐り、ただれ落ちる。鳥は、白い骨だけで飛んでいる。骨は、きしきしと金属のような音を立て、旋回する。骨は、顔だけこちらに向けながら、ゆっくりと気球から離れていった。
「どこかで、ちゃんと灰になれたらいいけど」
彼女は寂しそうにそう言い、女性向けファッション雑誌をぱらぱらと捲った。
気球は、一瞬、上へと跳ねあがる。
「着陸するわ」
彼女が、ストップウォッチを止める同時に、気球は地面へと着いた。
「0・五八秒」
「そんなに速く?」
「ええ。一秒よりも速く着いたわ」
五日目。着いた先は南米アマゾンのジャングルだった。
樹木と樹木の間の、柔らかな芝生地帯だった。ジャングルでは、匂いも、音も、光の感じ方も何もかもが異世界だった。ラフレシアのような大きな花がいくつも並んで生えていた。僕らは空腹だったので、辺りの低い樹木に成っていた、熟した果実を採って食べた。どれもブルーベリーの大粒みたいな形状で、色も光沢のある紫だったが、味はチョコレートのように甘かった。食べている途中、ゴルフボール位の大きさの蜂が寄ってきたので、僕らは満足に食事をすることもできず、慌ててその場所から逃げ出すことになった。
「とにかく、目的地を目指しましょう」
「目的地は何処なんだい」
「此処ではないってことは確かよ」
風が止んだ頃、川が行くてを阻んだ。
川は水ではなく、ドロドロとしたピンク色のゲル状の液体が流れていた。あらゆる香料を混ぜ合わせたような強烈な匂いがして、鼻が痛かった。沈めば間違いなく浮かんでこられないだろう。ヘドロやスライム、あるいは、汚染物質の塊なのかもしれない。
「渡るわよ」
「匂いがひどくて近づけないよ」
「良い匂いじゃない」
岸には木製のカヌーがあった。彼女は、それを黙って川まで押し、僕に手伝うように手で合図する。彼女はカヌーに乗り込み、僕が岸のぎりぎりまで寄せてから乗り込み、オールで勢いをつけ、川へと入る。
対岸には都市がみえた。おそらく蜃気楼のような幻覚だ。きっと疲れが見せている。誰も行くことのできない幻の都市。幻の共同体。それは常に僕らの側にあり続ける。
ちょうど、六日目の朝日が頭上に来た頃、チリのアタカス砂漠に着いた。
広大で閑散とした砂漠。空気は乾き、太陽は爛々と照りつけてくる。生物の姿はない。植物の姿もなく、雑草一つ生えていない。綺麗な黄色の砂は細かく、液体のように揺れて僕らの足にまとわりつく。
彼女は双眼鏡を覗き、何かを見つけた。
「あったわ。看板よ」
百メートルくらい先の地面には、赤い看板が埋められていた。横にはスコップを立てられている。僕らは、オアシスを発見したみたいに、慌てて走り寄る。
【危険・有害物質漏洩・放射能汚染・地雷埋設】
彼女は、勢いよくスコップを手にとり、その看板の下を掘りはじめた。
「こんな場所、掘って大丈夫?」
「ええ、大丈夫。ちょっとだけ待っていてね」
それ以上、彼女は何も言わずに、砂を黙々と掘り続けた。息を切らし、汗だくになっている。
「僕がやろうか?」
「いいの。そこで待っていて」
三十分くらい経つと、僕らは気球から持ち出していた飲み物を飲んだりして休憩した。彼女はろくに休まず、作業を再開した。僕は、時折、タオルで彼女の額の汗を拭いたり、水を頭からかけてやったりした。そして、遠くの蜃気楼を見ていた。蜃気楼は、幻の都市を映す。誰も行くことのない都市。決して存在することのない都市。
暫く掘るとすると、地中から黒い箱が現れた。底なしの闇のように黒く、何も反射しない。世界に存在するありとあらゆる光を吸収する箱。彼女は、その箱を僕の手の上に乗せて、嬉しそうに笑う。
「開けてみてよ」
「なに、これ」
「いいから、早く」
僕が箱を開けると、中には腕時計が入っていた。シルバーの腕時計。僕が以前、無くした腕時計。僕の腕時計だ。
「ハッピー・バースディ」
彼女は、囁く。
「もう無くさないでね」
「うん。有り難う」
僕はそう言い、左腕に腕時計をはめた。
チク・タク。チク・タク。
時間は動き出す。
2012年
2025年 少し修正