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慧 side 1



 二〇二二年?月?日 愛知県N市 鈴木宅。


 玄関の呼び鈴が部屋中に鳴り響いたことで、私の意識は夢の中から現実へと引きずり出された。


 瞬間、じわりと酸味の混じった苦いものを口の中で感じる。舌を動かし口蓋をなぞろうとすると、ビニールラップが貼りつくような感触があった。どうやら口を開いて寝ていたらしい。すっかり唾液がなくなり、乾いて濃縮された口臭が不味さの原因だった。


 布団の中から芋虫のように顔を出すと、「はい」と語尾を伸ばして答えた。腹に力を込めたつもりが、実際は喉が掠れて声量が思ったよりも出なかった。これでは外にいる相手に届いていないだろうな。


「はあ……」


 両手をついて頭を下にしつつ、ゆっくりと起き上がる。ああ、まだ眠い。昨夜寝ついた時間は明け方だった。これはもう昨夜ですらない。


 すでに陽が昇りきっていることは紺色のドレープカーテンを閉めたままでも、その隙間から差し込む光でわかった。きっと玄関前にいるのは、日の出から間もなく起床し、日付を跨ぐ前に就寝する側の人間なんだろう。昼間ならアポイントメントを取らずに他人の家へ押しかけても、迷惑にはならないと思ったのだろうか。世の中には私のように昼夜を逆転して生活している人間もいるというのに、勝手が過ぎる。ああ、イライラするな。煙草を吸いたい。


 私は視線を泳がした。まずは眼鏡だ。二十歳を過ぎてからうんと視力が下がった。あれがないと、行動がままならない。起きたらすぐに装着できるよう、普段からケースには入れずに頭近くの畳の上に置いていた。


 しかしそれらしきものが見当たらない。おかしいなと、右手を敷布団の上で泳がしながら、左手で枕を引っ掴んだ。その時ころん、と折り畳まれた形の眼鏡が転がった。


 なぜこんなところに? 明け方、眠りに入る際、私は敷布団の上に寝そべってから、眼鏡を外して畳の上に置いたはずだ。なのに枕の下にあっては、頭の重みで眼鏡が潰れてしまうじゃないか。寝相の悪さと、ものぐさな性格を棚に上げ、私は余計に苛立った。


 むしゃくしゃしつつも眼鏡をかけてから、私は寝室向こうのリビングを兼ねたダイニングに視線をやった。煙草はいつもダイニングテーブル横のキャビネットに、使い捨てのライターとともに片づけている。それが今、遠目からでもそこにないことがわかった。


 灰皿はあるのに、対であるはずのものがない。苛立ちがたちまち怒りに変わり、汚い舌打ちが口から出た。


 視線を再び布団の方へと戻した。定位置にないのであれば、自分の近くにある可能性が高い。布団周りを見渡すと、枕元よりもうんと上の方に目当ての黒い箱があった。それも使い捨てのライターとともに。寝煙草をして火事にでもなったら大事だからと、煙草の収納位置は決めていたはずなのに、つい片づけを怠っていた。


 今や私にとって煙草は嗜好品というより、使い捨ての乾電池のようなものだ。電化製品のごとく、私はこれがないと動けない。私を動かす、いや生かす餌だ。実際、普段から食事よりもまずこれを優先させるという体たらくに、夭逝した姉はきっと草葉の陰で泣いているだろうな。


 実にいい加減な人間だ。自覚はある。電池だ餌だという煙草も、くしゃくしゃになった透明フィルムから容器が半分飛び出てしまっている。今の私にとってなくてはならない物だというのに、扱いの悪さが窺える。


 一刻も早く吸いたいはずなのに、容器を持ち上げることが急に億劫になった。私はしばしば、自分の意思とは関係なく、やりたいことが途端にやれなくなってしまう。今は腕を上げる、ただそれだけの動作が面倒だった。だが煙草は吸いたい。


 仕方なく、フィルムの端を指先で摘まみ、煙草の入った容器をずるずると引き寄せた。その後も容器は寝かせたまま、中から煙草を一本取り出した。


 ああ、やっと吸える。筒状の軽いそれを目にして、怠かった腕が持ち上がる。そうして口に咥えたところで、再び呼び鈴が鳴り響いた。


「くそっ」


 そうだった。外で私を呼んでいる無礼なやつがいたんだった。その場で悪態をつきながら、私は咥えた煙草を容器に押し戻した。そして容器を握り潰さんばかりに掴み立ち上がると、急いでキャビネットに向かった。


 煙草とライター、どちらも今度こそ定位置に置いたのを確認してから、足音を荒くさせて玄関へ向かう。狭い部屋だ。すぐに着いた。


 上がり框を下りて素足のまま扉の前に立つと、右手をレバーハンドルにかける。感情のままに動く私は覗き穴を使って相手を確認することなく、ドアチェーンをかけたまま反対の指でサムターンのツマミを回し、扉を開けた。


 ドアチェーン越しに外を見ると、呼び鈴の前では深い茶色のスーツを纏う男が立っていた。濃い色のそれは、顔立ちからして精悍さが窺えるその男によく合っていた。


「ああ、あなたでしたか。どうも、お久しぶりです」


 突然現れた男の顔を見るなり、私は息を呑んだものの、すぐに緩やかな笑みを作ってありきたりな挨拶を口にした。決して苛立ちが霧散したわけではない。穏やかな対応も社交辞令というよりは反射的なものだった。そこに感情が微塵も乗っていないことは当然、相手にも伝わっているだろう。その証拠に、男は口元につけたマスクを外しながら困ったような笑みを浮かべると、控えめに頭を下げた。


 男の短く切り揃えられた黒い髪が、ところどころうねっている。そのうねりからひょこひょこと垣間見える白い線たちが、一見して髪色を引き立てている光沢のようにも感じられたが、彼の若い顔立ちには似合わないように思った。実際、男はまだ若い。四十をぎりぎり越えていない壮年だ。


「こちらから引っ越しハガキをお出ししたものの、こうしてあなたの方からお越しになる日がくるとは思ってもみなかったから、びっくりしちゃいました。てっきりセールスや宗教勧誘なんかの業者かと……ちょっと失礼」


 言いながら、私は一旦扉を閉めつつドアチェーンを外し、再度扉を押し開けた。


「いやぁ、すみません。でも、お越しになるなら事前に連絡してくださればよかったのに……って、別に責めているわけじゃないですよ。連絡を入れようが入れまいが、私はだいたいここにいますからね。暇人ニートですから」


 自虐したわけではない。実際、私はニートだ。この狭いアパートで、昼夜が逆転した自堕落な生活を送っている。働かなければと頭ではわかっているのに、身体が思うように動かない。それもこれも、あの事件のせいだろうか。


 忌まわしい記憶を思い出し、ぬめる頭をガリガリと掻いた。


「最後に会ったのは母の三回忌でしたから、ええと……」


 そこまで言って、動かしていた唇が固まった。そういえば、今日は何日だ。それ以前に何月だ。ああ、駄目だな。普段は学校に行くわけでも、働くわけでも、人に会うわけでもないただの引きこもりだから、日付がわからない。新聞すら読まないんだ。とはいえ、年数が二〇二二年なのは確実だから、


「十年ぶり……ですかね」


 と、間を置いてから答え、日付すらわかっていない自身の自堕落ぶりを誤魔化すように、間髪入れずに語り出す。


「いや、長かったはずなのに、こうして会ってみるとあっという間ですね。昔はお世話になりました。葬儀の手配すらままならなかったものだから、あなたがいてくれて本当に助かった。闘病していた父も今年、亡くなりましたけれど、今回はあなたに頼らずとも、こちらでなんとか送り出すことができましたよ……ああ、すみません。しんみりとさせるつもりじゃなかったんです。他人と話すのが久々なものだから、この口は緩んでいるんですね。立ち話もなんですから、どうぞ上がってください」


 誤魔化しついでに余計なことを口にしてしまったな、と頭の片隅で思いながら、男に部屋の中へ入るよう手招いた。この男がただ世間話をしに来たわけではないことくらいわかっている。彼もそれを望んでいるはずだ。


 しかしそうするなり、相手の顔が強張った。そういえば私が頭を掻いた際、男の眉間に皺が寄せられた気がした。


 ああ、そういうことかと、その理由に気づいた私は外で少しだけ待ってもらうように伝えてから扉を閉めると、すぐにキッチンに行って給湯器のスイッチを押した。さすがに三日も風呂に入っていないやつと狭い部屋で二人きりになるのは嫌だということか。これが逆の立場だとしたら、私もご免被りたい。


 さて、どれほど酷い有り様なのか、自身のことだというのに妙な好奇心に駆られながら洗面台の前に立つと、想像以上に醜悪な姿が目に飛び込んだ。特に頭だ。何だこれは。今しがた爆発にでも巻き込まれたかのように、毛先が四方へと広がっている。ライオンの鬣の方がまだマシだ。その上、まだ眠たそうな目元の上には毛虫のような眉が乗っている。瞼にびっしりと生えるまつ毛に至っては、その一本一本に黄色い目ヤニがシラミのように絡まっていた。口周りも酷い。


 いったいどれほどの間、鏡を見ていなかったのか。衝撃を受けつつ上に着ていたスウェットを脱ぐと、白いカスが花弁のように舞い落ちた。洗髪に至っては五日ぶりだ。よくもまあ、こんな醜い姿で誰とも知れない人間を出迎えようと思ったもんだ。我ながらある意味、感心する。他人と接する機会が日々あれば、少しは身なりも整えるのだろうが、如何せんそれは自身で断ち切ってしまっているのだから仕方がない。


 ため息を一つ落とした後、体を屈めて洗面台下の収納扉を開いた。浴室は石鹸以外にない。それゆえ風呂に入る際は、毎回ここから必要なものだけを取り出すようにしていた。多少面倒でもそうしないと、狭い浴室がさらに狭くなるからだ。


 私は整理されているそこから、ボディタオルに歯ブラシ、それから使いかけのシャンプー類にシェーバーを手にすると、少しだけ冷えた浴室に入った。



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