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8.狼たちのぼやき

 ヴィンセントの煮込みをたらふく食べたネージュは、ひとり屋敷の裏の森を歩いていた。


『あいつが料理をするということは前から知っていたが、あんなにもうまいものを作るとは思いもしなかったな』


 元の大きさに戻った彼の足取りは軽く、ふさふさの尻尾も機嫌良く揺れていた。


『貴族の男は料理も裁縫もしない。自分がこんな趣味を持っていることが明るみに出れば、きっと噂されてしまうに違いない、確かあいつは前にそう言っていたような』


 ネージュは何かを思い出しているかのような顔で立ち止まり、ぺろりと舌なめずりをした。


『自分が悪く言われるのは構わないが、自分を取り立ててくれた上官の顔に泥を塗りたくはない。見込んでくれた陛下にも申し訳ない、とも言っていたか』


 一つ大きく伸びをして、ネージュはまた歩き出す。ふわふわの長い毛が、動きに合わせて揺れている。


『まったく、人間の考えることはよく分からん。趣味を隠すあいつも、隠している理由も。噂がどうした、上下関係がどうした。まったくもって意味不明だ』


 ネージュはとてとてと進んでいく。いつもエリカと会っている辺りよりも、さらに奥へ。


『しかもあいつは、ことあるごとにおれにそういったことを愚痴ってくるし……見かけによらず繊細なところがあるからな、あいつは』


 そこの道はとても細く、人一人通るのがやっとといったところだった。しかしその細道を、ネージュは器用にすり抜けていく。長く見事な白い毛を、少しも枝にからませることなく。


『自分は軍人、いわばただの人殺しだ、それなのにみなが自分を褒めたたえるのが辛いだとか、平民上がりの自分が爵位をもらうなどおそれ多いだとか。愚痴の種が多すぎてあきれたものだ』


 深々とため息をついて、ネージュは天を仰ぐ。


『嫁がくることになってしまった、どうしよう、などと言って駆け込んで来た時は、さすがに正気を疑ったが。どう考えても喜ばしいことだろうと、何度さとしてやったことか。もちろん、通じなかったが』


 やがて、彼は森の奥の泉にたどり着いた。澄んだ水面は、鏡のように穏やかだった。


 そのほとりに腰を下ろし、ネージュはさらに記憶をたどる。


『エリカはいい子じゃあないか。人間の美醜はよく分からんが、野の花のような娘だと思うぞ』


 ネージュは前足を伸ばして、そこに咲いていたスミレの花にそっと触れた。


『少々おどおどとしているが、意外と肝もすわっているようだし、悪くないと思うんだがなあ。もしかしたら、あいつのほうが尻に敷かれるような気もするが』


 彼の脳裏に、様々なエリカの表情がよみがえる。驚いた顔、戸惑っている顔、そして、可憐な笑顔。


 やはりあの娘は笑っているのが一番似合う。ネージュはそう思いながら、不意に低くうなった。


『あんないたいけな娘を冷たくあしらうなど、まったくヴィンセントのやつは……あいつにも事情や考えがあるのは分かる。だが、あのやり口はいただけない』


 苦々しい口調の中には、ひとかけらの同情が混ざり込んでいた。


 彼はヴィンセントとエリカ、その双方の事情を知っている、おそらく唯一の存在だった。ヴィンセントがあんな態度を取っている理由も、彼は全て知っていた。


『ああ、それにしても……』


 白い毛に覆われた狼の口元が、大きくゆがんで笑みの形を作る。思い出し笑いをしているようだった。


『……ふふ、おれがエリカと話せるということを理解した時のあいつの顔は、見ものだったな。それと、あいつの趣味についてばらしてやった時のあわてっぷりも』


 そこでふと、ネージュは口をつぐんだ。首をかしげて、何事か考えているようだった。


『その結果、あいつらはほんの少し打ち解けたようだし……うむ、今日のおれはいい働きをした』


 素晴らしく青い目をさまよわせながら、しばしネージュは考える。


『最初は興味本位で、エリカに力を貸すことにしたのだが……こういうのも、悪くないな』


 そうつぶやいて、ネージュはすっくと立ち上がる。たいそう愉快そうな笑みを浮かべて。


『あいつら二人が仲むつまじい夫婦となったら、色々と面白そうなことになるような気がするな。退屈せずに済みそうだ』 


 ネージュは顔を上げる。彼の視線の先には、真ん丸の月が輝いていた。


『よし、ならば決まりだな。これからは本腰を入れて、あの二人をくっつけるとするか。ああ、久しぶりにいい暇つぶしになりそうだ』


 言いながら、ネージュは泉に飛び込んだ。鏡のような水面には、さざ波ひとつ立たなかった。





 その頃ヴィンセントは、自室でまたしても頭を抱えていた。


「まさか、あんなところを見られてしまうとは……」


 彼は平民の出だった。幼い彼は体の弱い母に代わり、家事のほとんどをこなしていた。そんなこともあって、彼は家事全般がたいそう得意だった。ただ得意だっただけではなく、好きだった。


 しかし彼はひとりきりになり、軍に入り戦功をあげた。そうして、いつの間にやら貴族にされてしまったのだ。


 平民上がりの彼に親近感を抱いている使用人たちは彼に温かく接してくれたが、多くの貴族たちは彼のことを白い目で見ていた。平民風情が、そう言って。


 だから彼は、できるだけ悪目立ちすることのないよう気をつけながら過ごしていたのだ。自分にこの地位を与えてくれた王の顔に、泥を塗ることのないように。


 でもそのせいで、彼は大っぴらに家事をすることができなくなっていた。貴族は男も女も、家事などしない。水仕事で荒れた手をしている者はいない。


 そうしておとなしくしていたヴィンセントだったが、結局一年足らずで我慢の限界がやってきた。


 戦においては忍耐強く敵を迎え撃つことのできる彼だったが、家事から遠ざかっていることには耐えられなかったのだ。


 だから彼は、時折使用人たちに半日休みを取らせて、その間に思う存分料理をすることにしていた。


 エリカは遠慮しているのか、あまり屋敷の中をうろつかない。それに貴族の令嬢は、よほどのことがなければ厨房になど近づかないと、ヴィンセントもそれくらいのことは知っていた。


 だからこそ、彼は油断してしまった。そうしてその結果、ひそかな楽しみをエリカに知られてしまったのだ。


「一瞬の油断が命取りになる。まだ駆け出しの兵士の頃から、幾度となくそう言い聞かされてきたし、身をもって学んできた。それなのに、こんなところで油断してしまうとは……」


 深々とため息をつきながら、彼は明るい鋼色の頭をがっくりと垂れる。


「しかも、雪狼が余計なことをばらしてしまったようだし……」


 剣狼と二つ名を持つヴィンセントは、雪のように白い狼であるネージュに、特に親しみを覚えていた。誰にも言えないささいな愚痴を、こぼしてしまうくらいには。


「まさか、彼女が雪狼と話せるとは……いまだに信じられない」


 そうつぶやきつつも、ヴィンセントは思い出していた。彼の料理をそれはおいしそうに食べていた時のエリカの顔を。


「彼女となら、この秘密を共有できるだろうか……」


 思わずそう口走ったヴィンセントだったが、すぐに頭をぶんぶんと振る。


「いや、駄目だ。彼女はいずれ離縁するのだから。情がわくような真似は、慎まなくてはな」


 そうしてもう一度、彼はため息をついた。耳に残るエリカの軽やかな笑い声を、どうにかして追いやろうとしているかのように。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ある意味、近所のおせっかいな、おばさんの立ち位置のような雪狼さん。 楽しそうだしね(笑)
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