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7.可愛らしい隠し事

 厨房の扉の向こうには、大きな人影が立っていた。


 彼はこちらに背を向けるようにして、何やら作業をしている。彼の目の前にある鍋では、何かがぐつぐつと煮えていた。


 少し遅れて、状況を理解する。ヴィンセント様が、一人で料理をしている。信じられない状況だけれど、そうとしか思えなかった。


 ぎゅっとネージュさんを抱きしめたまま、食い入るようにヴィンセント様の背中を見つめる。気のせいか、その背中はとても楽しそうに見えた。


 作業を続けていたヴィンセント様が、不意にくるりと振り返る。腰のところに巻いたエプロンのすそに小さな狼の刺繍が入っているのが、やけに目を引いた。


 そうしてヴィンセント様は、見たこともないほど驚いた顔で、ぴたりと動きを止めてしまった。彼の視線は、細く開けた扉の陰にいるわたしたちを、しっかりととらえていた。




「……その……見てはいけないもの、だったんですよね……ごめんなさい」


 厨房の片隅で椅子に座り、深々と頭を下げる。わたしのひざの上のネージュさんは、その間ずっと笑っていた。


 わたしたちにのぞかれていたことに気づいたヴィンセント様は、真っ赤になった後真っ青になったのだった。


 それから大あわてでわたしたちのところに駆け寄ると、厨房に引きずり込んで扉を閉めた。


 明らかに彼は、自分が料理をしていることを隠しておきたいようだった。さっきからずっと、困り果てたように目を伏せてしまっている。


「いや……ここは立ち入り禁止だと、言わなかった俺が悪い」


『中々に潔いな』


 この場で一人だけご機嫌のネージュさんを見て、ヴィンセント様がいぶかしげに目を細める。


「ところでそれは……雪狼、か? ずいぶんと小さいが、よく似ている」


『正解だ。もっとも、これほど素晴らしい毛並みの生き物が、そうそういるはずもないがな』


 得意げにそう言って、ネージュさんは床に飛び降りる。ヴィンセント様の前まで歩いていって、ひと声ほえた。


「は、はい。わたしの目の前で、いきなり小さくなってしまったんです。……その、この子って、幻獣みたいです……」


「そうだな。雪狼は明らかに普通の獣とは違うと思っていたが、こんなこともできるのなら、幻獣で間違いないだろう」


 小さなネージュさんの頭をなでて、ヴィンセント様が微笑む。あの目をこっちにも向けて欲しいな、と思わずにはいられない、穏やかな顔だった。


『ところで、そっちの鍋が気になるんだが』


「どうした雪狼、そわそわして」


『だから、鍋! 吹きこぼれるぞ!』


 ネージュさんの視線の先には、今にも吹きこぼれそうな鍋があった。ついさっきまでヴィンセント様がかき回していた、あの鍋だ。


「あ、あの、ヴィンセント様、お鍋が……」


 その言葉で、ようやくヴィンセント様は鍋に気づいたらしい。あわてて鍋に駆け寄り、また作業を再開している。


 鍋をかき混ぜて、味を見て、さらにもう少し何かを足して。ヴィンセント様は、さっきと同じようにてきぱきと動いている。


「……ふう、危なかった。知らせてくれて助かった」


「……あの、それはいったい何のお料理でしょうか?」


 好奇心に負けて、立ち上がり鍋に近づく。ヴィンセント様は身をこわばらせてはいたが、逃げようとはしなかったし、追い払われもしなかった。


 さっきネージュさんにかけていたものとはまるで違う、ぼそぼそとした小さな声で、ヴィンセント様が答える。


「…………故郷の、煮込みだ」


 その鍋からは、おいしそうな匂いがふわんと漂っている。普段食べているものより濃厚な、少し刺激的ないい香りに、お腹がくうと鳴る。


「あ、えと、その」


『確かにうまそうだ。腹が鳴るのも当然だな』


 ネージュさんが尻尾を振りながら、部屋の真ん中にある大机に近づいた。そこの椅子にちょこんと腰かける。


『おいヴィンセント、おれにもそれを食べさせろ』


 ネージュさんの言葉はヴィンセント様には通じていない。どうしたものかと思っていたら、ヴィンセント様が苦笑した。


「どうした雪狼、これが気になるのか」


 その言葉に、ネージュさんがまたほえた。


「まあ……犬によくない食材は入っていないから……少しくらいなら、いいだろうか」


『おれは犬ではない』


 抗議しつつも、ネージュさんの尻尾はぱたぱたと揺れている。犬みたいだ。


「…………君も、食べるか」


 それからヴィンセント様は、ためらいがちに問いかけてきた。鍋の中身が気になっていたのはわたしも同じだったので、全力でうなずく。


 そうして、三人で食卓を囲む。普段は料理人たちが作業に使っている質素な木の机で、ささやかな食事が始まった。


 まだおやつの時間だし、たくさん食べたら夕食が入らなくなってしまう。だから味見程度でいいかなと思っていたのだけれど、そんな考えはすぐに吹き飛んでしまった。


 ヴィンセント様の煮込みは、ものすごくおいしかったのだ。あっという間に空っぽになってしまった器を恨めしく思いながら、頭を下げる。


「ごちそうさまでした。とってもおいしかったです」


 本当は、もっと聞きたいことがあった。どうして料理を、それも内緒でしているのですか。どうしてこんなにおいしいものを作れるのですか。そんな疑問で、頭がいっぱいだった。


 そんな疑問を飲み込んで、にっこりと笑った。と、隣の席のネージュさんがこちらを向く。


『おい、もっと食わせろとあいつに言え。さっきから必死に目くばせしているのに、ちっとも伝わらん。こうなったら、おまえがおれの言葉をそのまま伝えろ』


「え、でも、それは……」


 わたしがネージュさんと話せることを、明らかにしてしまっていいのだろうか。まず信じてはもらえないだろうし、もしかしたら頭がおかしくなったと思われるかもしれない。


『大丈夫だ、さっさと言え、それで、おかわりの内容だが……』


 ネージュさんはやけにせかしてくる。仕方なく、どきどきしながら口を開いた。


「あ、あの! ネージュさん……雪狼さんが、おかわりが欲しいそうです!」


 ヴィンセント様が、ちょっとだけ目を見張った。そちらを見ないようにしながら、一気に言い切る。


「肉多め、芋はそこそこ、匂いのする葉っぱは少なめ、だそうです。その……おまえが料理をするとは聞いていたが、ここまでうまいものを作るとは思わなかったと、そう伝えろって……」


「……まるで、雪狼と話せているような口ぶりだな」


 大いに困惑した声が聞こえる。どうしよう、とうつむいていると、ネージュさんがそっと耳打ちしてきた。


「えっ、それをそのまま言っちゃうんですか!?」


『構わん。それであいつも信じるだろう』


 自信たっぷりに笑うネージュさんからも目をそらして、半ばやけになりながら、ネージュさんの言葉を復唱する。


「えっと、『確かに、エリカはおれの言葉を理解しているぞ。疑うようなら、おまえがおれの前でこぼした愚痴を、全部こいつにばらしてやろうか?』……って言ってます」


 ヴィンセント様は硬直したまま、何も答えない。ネージュさんは人の悪い笑みを浮かべて、さらに言った。


「あの、その……『おまえが一度だけ舞踏会に引きずり出された時の泣き言も全部覚えているが、教えてやってもいいか』だそうです」


「そ、それは困る。分かった、信じよう雪狼」


 半信半疑といった顔で、大いにあせりながらヴィンセント様が大きくうなずいた。ネージュさんは満足げな顔で、つんと上を向いた。


『あと、おれの名前はネージュだ。まあ雪狼という呼び名も気に入っているがな』


 その言葉をそっくり伝えると、ヴィンセント様は戸惑いながらわたしとネージュさんを交互に見た。


「……本当に、言葉が通じているのか……いや、しかし、だが……」


『ああ。だからおまえの趣味が料理と裁縫だということだって、こいつに教えてやれるんだぞ、ヴィンセント』


 思いもかけない言葉に、目をまん丸にしてしまう。その様子に何かをかぎとったのだろう、ヴィンセント様が前のめりになった。


「……今、雪狼は何と……?」


「ええっと、その……」


 たぶん今のは、聞いてはいけない言葉だ。ここはなんとかしてごまかすべきだと、そう思った。でもうまく言葉が出てこない。


「……お料理がこれだけおいしいのだから、お裁縫もきっと上手なのだろうな、って……あの、私はそう思って」


 あせりのあまり、そんなことを口走ってしまう。あ、しまったと思ったけれどもう遅い。


「…………ばれた、か。おかしいとは思わないのか。大の男の俺が、料理だ手芸だと……」


「いいえ、素敵だと思います!」


 さっきの煮込みの味を思い出して、つい力が入ってしまう。ヴィンセント様は青灰色の目を丸くした。


「そ、そうか」


 それきり二人して、黙り込む。ところでおかわりはまだか、と騒ぐネージュさんの声を聞き流して。


 今までは気まずかったヴィンセント様との沈黙が、初めて心地良いものだと思えていた。

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