6.自宅に潜入
ネージュさんのおかげで、ようやくヴィンセント様と言葉を交わすことができた。それから数日、ヴィンセント様はほんの少しだけ話してくれるようになった。
とはいえ、それはとてもぎこちないものだった。そもそもわたしたちには、共通する話題がほとんどない。自然と、ネージュさんの話ばかりになっていた。
ヴィンセント様によれば、ネージュさんと出会ったのは国境の戦場らしい。いきなり真っ白なふわふわが、しかも戦っている真っ最中に現れたので、兵士たちが大いに混乱したそうだ。
どうにかこうにか勝って屋敷に戻ってきたら、ヴィンセント様の寝室の窓の下にネージュさんがいたとかで、さすがにあれには驚いたのだと、ヴィンセント様はそう語っていた。
『ああ、あの時のことを聞いたのか』
ヴィンセント様から聞いたことをネージュさんに話してみたら、ネージュさんはうんうんとうなずいていた。白くて長い毛がもふんもふんと揺れてとっても可愛い。
『あの時おれは、のんびりと散歩をしていたのだ。そうしたらふとかぐわしい香りを感じたので、匂いのもとを探しにいってみた』
「匂い……ですか?」
『ああ。なんだかたくさん人間が騒いでいて、その中心から匂いがしていたな』
「匂いのもとは、何だったんですか?」
おそらく、その人たちはただ騒いでいたのではなく戦っていたのだと思う。そんなところに、いい匂いのするものなどあるのだろうか。怖いものでないといいのだけれど。
固唾をのむわたしに、ネージュさんはあっさりと答えてくれた。
『ヴィンセントだ。なぜだか知らんが、あいつはやけにいい匂いがする』
その言葉に、思いっきり首をかしげることになった。ヴィンセント様は特に香水もつけていないようだし、わたしには全く匂いなど感じられないのだ。
『おまえには分からんようだな。ともかく、あいつはうっとりするような匂いを発してるんだ。その匂いが忘れられなくて、この屋敷まで追いかけてしまうくらいにはな』
猫はまたたびが好きだと聞いたことがある。もしかしてヴィンセント様の匂いも、そういったものではないだろうか。鼻のいいネージュさんしかかぎとれないだけで。
『なんだか失礼なことを考えていないか、おまえ』
「えっと……たぶん気のせいです」
『そうか。で、それは置いておくとして』
そう言って、ネージュさんは難しい顔をした。
『おまえたち、話をするようになったのはいいが、話題が全部おれのことというのはどうかと思うぞ。他にもっと、話すことがあるだろう。趣味とか思い出話とか、そういったものだ』
「でも……そこまで立ち入ってしまっていいのかどうか、分からなくて」
『おまえはあいつの妻だろう。もう少し、堂々としていろ』
それができれば苦労がない。泣きそうになってうつむくわたしに、ネージュさんはあわてて声をかけた。
『あああ、もう、だから泣くなと言っているだろう……仕方ない、おれが一肌脱いでやるか』
そう言ってネージュさんは、にやりと笑った。なんだかいたずらをたくらんでいる子供のような、そんな笑顔だった。
そうしてわたしたちは、屋敷の中を歩いていた。ネージュさんが屋敷にくると聞いた時、廊下がふわふわの毛で埋まってしまうとあせったけれど、意外にもそうはならなかった。
「かわいい……ふわふわ……」
『可愛いと言われるのは心外だが、おれの毛並みがふわふわなのはまあ当然のことだからな。今のうちに、堪能しておけよ』
ネージュさんは、小さく縮んでしまっていたのだ。わたしの両腕で抱えられるくらいの大きさで、ますます猫っぽい。
ヴィンセント様ともっと色々話したいけれど、どう切り出していいのか分からない。そう言って落ち込んでいるわたしに、ネージュさんは提案したのだ。おれと一緒に、屋敷に行くぞ、と。
『おれが屋敷の中を調べて、話の糸口になりそうなものを探してやる』
わたしに抱っこされたまま、ネージュさんはそう断言した。
「調べる……って、このまま屋敷を歩き回るんですか?」
『それだと効率が悪い。それに、話題になりそうなことを探しているとばれたら、きっとあいつはおれのことも警戒しかねない。そうなったら、余計に状況がややこしくなるだろうな』
そう言うと、ネージュさんは廊下の壁に目を留めた。わたしの顔くらいの高さに、大きな鏡が掛けてある。
『だから、あいつに見つからないように調べてくる。ここで待っていろ』
言うが早いか、ネージュさんは床に飛び降りて、そのまま鏡に向かってぴょんと跳んだ。驚いたことに、その真っ白な姿は鏡に吸い込まれるようにして消えてしまう。
「……幻獣って、あんなこともできるんだ……」
一人取り残されて、ぽかんとしながらそんなことをつぶやく。
ネージュさんが何を探しにいったのかは分からない。わたしにできるのは、言われた通りにここで待つことだけだろう。
すぐ近くの窓枠に手をついて、ぼんやりと外を眺める。そこには中庭が広がっていて、よく手入れされた花たちがのんびりと咲いている。その中には今まで見たことのない、ちょっと珍しい花もあった。
綺麗だな、と思う。あの花の名前はなんだろう。ヴィンセント様に尋ねてみようか。話のきっかけになるかも。
そう考えて、ふるふると首を横に振った。ヴィンセント様のような方が、あんな花に興味を持っているとはどうしても思えなかった。
「話が弾みそうな題材を探すって、難しいなあ……」
『そうでもなさそうだぞ』
窓に向かってため息をついたその時、ネージュさんの声がした。気のせいか、やけに浮かれている。
「あ、ネージュさん、お帰りなさい」
鏡から顔と手だけをのぞかせたネージュさんが、ぽんとこちらに跳ねてくる。それを抱き留めると、ネージュさんはにやりと笑った。
『行くぞ、エリカ。急げば面白いものが見られるぞ。きっと話も弾むだろう』
「何があるんですか?」
『今は内緒だ。そのほうが面白いからな。さあ、こっちだ。足音を立てるな、声は限界までひそめろ』
「は、はい!」
訳が分からないながらもネージュさんをしっかりと抱きしめて、指示に従いながら忍び足で廊下を歩く。
わたしたちは、屋敷の一階の奥に向かっていた。普段なら使用人たちが仕事をしているはずのそこは、不思議なくらいに静かだった。
『そこの……奥から二番目の扉だな。いいか、気づかれないように、そっと、そおっと開けろ』
「ここって、厨房……?」
辺りには、おいしそうな料理の匂いが漂っている。まだ夕食の準備には早いと思うのだけれど。
そんなことを考えながら、言われた通りに扉を開ける。音を立てないように、少しずつ。
そうしてわたしは、目を見開いた。