表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/37

3.彼の本音のひとかけら

「あの、これが本当に『わたしとヴィンセント様の関係を改善できるかもしれないとびきりの策』なんですか?」


 ネージュさんと出会ってから数日後、わたしは裏庭の奥の森でネージュさんと話していた。彼がわたしに、毎日ここに来るように言ったのだ。それも、昼食のすぐ後に。


『ああ。おまえは今まで、ろくにヴィンセントと顔を合わせることすらできなかったのだろう? ならばこれが、最善の策だ。……たぶん』


「たぶん、って、そこで弱気にならないでください……」


『ああもう、大丈夫だ。いちいち泣きそうな顔をするな。こうやって待っていれば、じきに好機がやってくる』


 そうやって、あれこれとたわいのないことを話していた時のことだった。ふと、ネージュさんが口を閉ざして屋敷のほうを見た。


『……どうやら、好機が来たようだな。ほら、ここに隠れてじっとしていろ。おれがいいと言うまで、絶対に出るんじゃないぞ。それに、喋るのもなしだ』


 そう言って、ネージュさんがぺたりと地面に伏せる。彼は鼻面をくいと横にしゃくって、脇腹を指し示した。


 ここに隠れろと言われても、と反論しそうになるのをこらえて、大急ぎでふかふかの毛の中にもぐりこむ。


 驚いたことに、彼のふわふわの白い毛はわたしをすっぽり包み込んで隠してしまうだけの長さがあった。しかもその中は、お日様の匂いがしてとても居心地がいい。


『よし、きっちり隠れたな。ぎりぎり間に合った』


 何に間に合ったのか聞きたかったけれど、今は口を開いてはいけない。外で何が起こっているのか知りたくて、一生懸命に耳を澄ませる。


「……ああ、ここにいたか、雪狼」


 聞こえてきた声に、思わず声を上げそうになった。この声は間違いなく、ヴィンセント様だ。どうやら彼は、ネージュさんのことを『雪狼』と呼んでいるらしい。


『やっと来たか、この女泣かせめ』


 ネージュさんはいきなりそんなことを言っている。しかしヴィンセント様は嬉しそうな声で笑っていた。


「歓迎してくれているのか? ああ、いい子だ」


『どちらかというとあきれているな。だいたい、誰がいい子だ。おれはおまえの倍以上生きているのだからな。少しは年上を敬え。こら、雑に首をかくな、毛並みが乱れる。ぐぬぬぬぬ、くそ、気持ちいい』


「はは、お前は可愛いな。こんなに大きいのに、まるで犬のようだ」


 まったく想像もしていなかった状況に、わたしは小さく丸まったままぽかんとすることしかできなかった。


 ヴィンセント様はネージュさんの言葉は分かっていないらしい。そのせいか、会話がめちゃくちゃだ。ヴィンセント様は親しげに話しているのに、ネージュさんは好き勝手言い放題だ。


 それがおかしくて、笑ってしまいそうになる。そしてそれ以上に、胸が苦しかった。


 顔は見えなかったけれど、ヴィンセント様の声はとても優しかったから。わたしは一度だって、あんな風に声をかけられたことはない。


 うっかり泣き出さないように、ぎゅっと口を押さえる。まだネージュさんは、出てきていいと言っていない。だからわたしは、ここに隠れていなくては。


『で、おまえはなんだって、嫁をないがしろにしてるんだ?』


「どうした、雪狼。いつになく悲しそうに見えるな」


『おまえがエリカを泣かせているからだろうが』


 その言葉がヴィンセント様に届いたはずもないのに、ヴィンセント様は切なげなため息をついた。


「いや、そう感じるのは、俺自身が暗い気分だからか」


 そうつぶやくヴィンセント様の声は、ひどく悲しげだった。つられるように、目元に涙がにじんでくる。


「……俺は、妻などめとるつもりはなかった。そもそも俺には貴族の家の長なんて……とても務まらない」


 ネージュさんは何も言わない。わたしも唇を引き結んで、次の言葉を待つ。


「それなのに、貴族たちは無理やり俺に妻をよこしてくるし……俺は何度も断ったというのに」


 深々としたため息が、ネージュさんの毛にもぐったままのわたしのところまで聞こえてきた。


「俺では彼女を幸せにできない。俺と彼女では、生きる世界が違う。彼女は一刻も早く、実家に戻るべきなんだ。そうして彼女にふさわしい幸せを得るべきだ」


 思いもかけない言葉に、はっと息をのむ。彼は、わたしのことを案じてくれていた。たったそれだけのことが、とてつもなく嬉しい。


「……どうにかして、彼女の不利益にならないように送り返せないか考えているのだが、うまくいかない」


『当の本人は、帰るつもりなどないようだぞ? 的外れなことで悩むより、彼女にきちんと向き合え、この堅物』


「励ましてくれるのか、雪狼」


『あきれているんだ、馬鹿』


「ありがとう、雪狼。……それにしてもこの見事な毛並み、その堂々たるたたずまい。いつ見てもほれぼれするな。見ているだけで、悩みが軽くなるようだ」


『おれの毛並みが素晴らしいのは当然だ。もっと褒めていいぞ。……その褒め言葉のひとかけらでいいから、エリカにかけてやればいいのに』


 相変わらずかみ合わない会話に続いて、ヴィンセント様の笑い声が聞こえてくる。温かくて朗らかで、胸がぎゅっと苦しくなる。


 今、彼はどんな顔で笑っているのだろう。彼の笑顔が見たい。その笑顔をわたしにも向けて欲しい。


 こっそりとため息をついているわたしをよそに、二人はさらに話し込んでいる。


「貴族は苦手だ。何を考えているか分からないからな。その点お前とは、言葉がなくとも通じ合える。俺は、良い友を得た。どうかずっと、俺のもとにいてくれ」


『そういう口説き文句はエリカに言ってやれ、こそばゆい。あと、勝手に友にするな』


 やっぱりずれている会話がおかしくて、うっかり小さく笑ってしまう。いけない、きちんと毛の中に隠れていなくては。あわてて、頭をぎゅっとネージュさんの脇腹に押しつけた。


 その拍子に、髪飾りがネージュさんのふわふわの毛に引っかかってしまった。一番お気に入りの、宝石飾りのついたリボンだ。


 ヴィンセント様にばれないように毛を外してしまおうと、髪飾りにそろそろと手を伸ばす。


 だが、それがよくなかったらしい。引っかかっているところが外れたのはいいけれど、その拍子にリボンがほどけて、髪飾りはそのままわたしの髪からも外れてしまったのだ。


 リボンをたなびかせながら、ころんころんと髪飾りが転がっていく。ネージュさんの毛の外側、ヴィンセント様の立っているほうへ向かって。


 あれが見つかったら、わたしがここにいることがばれてしまうかもしれない。こんなところで盗み聞きしているのを知られたら、今度こそ嫌われてしまう。


 もちろんこれは、ネージュさんに指示されてやったことではあるけれど、それを証明するのは多分無理だ。なぜかわたしはネージュさんと話せるんです、などと主張したら、頭がおかしくなったと思われるかも。


 どうか、髪飾りがヴィンセント様に気づかれませんように。そんなわたしの祈りも空しく、ヴィンセント様の笑い声が止まった。


「雪狼、どうしてお前がこれを持っている?」


 どうやら、ヴィンセント様は髪飾りを見つけてしまったらしい。明るさの代わりに緊迫感を漂わせた低い声で、彼はネージュさんに問いかける。


「これは彼女のものだろう? お前、彼女に出会ったのか……? まさかとは思うが、お前は彼女に危害を加えたのではないだろうな」


『人聞きの悪いことを言うな、堅物。おれは人畜無害な幻獣だぞ。人間を食ったりするものか』


 そう答えるネージュさんの声は、明らかに面倒くさそうだった。


『ま、これもきっかけと言えなくもないか。おいエリカ、ここからはおまえが頑張れ』


 いったい何を頑張れというのか。でもわたしはネージュさんがいいと言うまで、黙っていなくてはならない。だから、尋ねることもできない。


 どうしよう、と困っていたら、いきなり視界が開けた。目の前には、ぽかんとした顔で立っているヴィンセント様。


 どうやらネージュさんはいきなり立ち上がって、そのまま一歩横にどいてしまったらしい。地面に座ったわたしの姿は、ヴィンセント様から丸見えになっていた。


「……なぜ、君がここに」


 わたしは何も言えずに、ただヴィンセント様を見上げていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ