21.軍人の妻として
ひたすらに、毎日は穏やかに過ぎていった。ずっとこんな幸せな日々が続いていくのだと、そう思っていた。
でもそれは甘い考えだったことを、じきにわたしは思い知らされることになった。
ある日、王宮から書状が届いた。あて先が赤い文字で書かれたそれは、なんだかとても不吉なもののように思えた。
それを見たヴィンセント様は、今までで一番険しい顔をした。不安になってしまって、思わず体が震えそうになる。
こわばる舌を動かして、おそるおそる尋ねた。
「……あの、ヴィンセント様……それは?」
「……出陣命令だ」
わたしの問いに、ヴィンセント様は低い声で答える。目の前が暗くなるのを感じながら胸をぎゅっと押さえていると、静かにヴィンセント様は書状に目を通し、言葉を続けた。
「西の隣国が、国境沿いの川を越えてきた。それを迎え撃てとの命令だ」
「隣の国が……どうして、そんなことに」
「我が国は小国ながら多くの資源を有する。そのためか周囲の国は、いつも我が国を狙っているんだ。陛下も和平交渉を持ちかけておられるのだが、難航している」
「……戦いに、なるんですよね」
「俺は貴族としての地位をもらったが、同時に陛下にお仕えする騎士でもある。そしてそもそも、俺には戦うことしかできない。俺の力は、この国を守るためにある」
首を目いっぱい横に振って、彼の言葉を否定する。戦うことしかできないなんて、そんなことありません。そう言いたかったけれど、言葉が喉でつっかえてしまっていた。
泣きたいのをこらえながらふるふると首を振り続けていると、肩に手が置かれた。大きくて温かい、ヴィンセント様の手だ。
「頼む、泣くな。……だから俺は、君を離縁しようとしていたんだ。もし君と親しくなってしまったら、きっといつか泣かせてしまうだろうから。……ちょうど、今のように」
そう言って、ヴィンセント様は悲しげに微笑んだ。いつの間にかわたしは本当に泣いてしまっていたらしい。涙がぼろぼろとこぼれていた。唇をかんで、うつむく。
「……今さら、だが……君を受け入れることにした、その判断が正しかったのか、また分からなくなってきた」
ヴィンセント様はわたしの肩に手を置いたまま、小声でつぶやく。ばっと顔を上げて、彼の顔をにらんだ。流れる涙を、そのままに。
「正しいです。ですから、また離縁だなんて言わないでくださいね。もしわたしを離縁したとしても、わたしが悲しいことに変わりはありません。もしそうなったら、わたしは実家で泣きますから。それも、たった一人で」
「……そう、か」
「それくらいなら、ヴィンセント様の家であるここで、みんなと一緒にヴィンセント様の帰りを待ちたいです」
力いっぱい主張すると、ヴィンセント様は目を見張ってわたしをじっと見つめ、それからゆっくりと息を吐いた。その顔に、困ったような、けれどとても優しい笑みが浮かんでくる。
「ああ。必ず戻ってくる。……悲しませて済まない。だが君が待っていてくれると思うと、いつも以上に頑張れそうだ」
「はい、待っていますから」
どうやら、ヴィンセント様の迷いも晴れたらしい。そのことにほっとしながら、肩の上に置かれたヴィンセント様の手に自分の手を重ねる。わたしたちはそのままじっと、見つめ合っていた。
そうしてあっという間に、ヴィンセント様の出陣の日になってしまった。軍服に着替えて落ち着き払っているヴィンセント様とは裏腹に、わたしはあわてふためいていた。
「荷造りは済んだ、お守りも渡した、ええっとそれから……」
「大丈夫だ、エリカ。準備は全て、問題なく済んでいる。君が手伝ってくれたおかげだ」
「でもわたし、大したことはできていませんし……いっそ戦えたら、一緒に出陣できるのに」
それは本心からの言葉だったけれど、ヴィンセント様は苦しげに目を細めてしまった。
「さすがにそれは許可できない。どうか君は、安全なところにいてくれ」
「……はい……」
そう言われてしまっては、あきらめるしかない。しょんぼりとうつむいたその時、執事に伴われてブラッドさんが姿を現した。前に来た時とは違い、こちらも軍服をきっちりと着込んでいる。
「さあ行こうか、ヴィンセント。私たちがいれば国境の小競り合いなどすぐに終わる。泣きそうな奥方殿を安心させるためにも、一刻も早く戻ってこなくてはな」
「ああ。……それではエリカ、行ってくる。留守を頼むぞ」
そうして二人は馬車に乗り込み、西へ向けて旅立った。どんどん馬車は遠くなっていき、やがて見えなくなる。
それでもわたしは、馬車が去っていったほうを見つめ続けていた。わたしの両脇にはネージュさんとスリジエさんが立ち、わたしの足元にはトレが座っていた。みんな、わたしを気遣ってくれているようだった。
それから毎日、わたしは屋敷の裏の森に通っていた。屋敷にいるとどうしてもそわそわしてしまって、辛かったのだ。
「ヴィンセント様、今どうしているのかな……」
『お主、このところ口を開けばずっとそればかりじゃのう。お主が気をもんだところで、なんにも変わらぬぞ?』
『エリカがぼんやりしていて、トレ落ち着かない。ヴィンセント、早く戻ってきてほしい』
『あいつは強い。おまえが心配することはない』
幻獣たちは口々にそんなことを言って励ましてくれるけれど、やっぱり重い気持ちはちっとも晴れることがない。
トレをぎゅっと抱きしめてネージュさんにもたれながら、深々とため息をつく。
『ああもう、辛気臭いな。おいスリジエ、おまえちょっと様子を見に行ってきたらどうだ』
『あいにくと、わらわはあやつらがいる正確な場所を知らぬ。ある程度近づけば、匂いで探せなくもないがの』
つんと鼻面をそらして、スリジエさんがつぶやく。
『そもそも、お主に命令されるいわれはないわ。そういうお主こそ、ちょっと行ってくればどうじゃ?』
『ヴィンセントに聞いたんだが、あの辺りは岩場だらけの荒れ地なんだと。だからおれが跳べるような鏡面も、トレが跳べる草地もろくにないらしい』
『ないない。木なら生えてるって聞いたけど、トレ草地でないと跳べない』
『だいたい今回のは、戦と呼ぶのもはばかられるようなただの小競り合いだ。ヴィンセントが負ける訳がない。だからエリカ、おまえものんびり待っていろ』
「でも……ヴィンセント様は、二週間もあれば戻ってこられると、そう言ってました。今日でもう、十五日目です」
今日こそは帰ってくる、きっと今日こそは。そう思い続けて、毎晩しょんぼりして眠る。そんなことの繰り返しに、そろそろくじけそうになっていた。
『二週間と十五日、一日しか違わないよ』
『しっ、トレ、それほどにエリカはあやつのことを待ちくたびれておるということなのじゃ。これが乙女心というものじゃからの、よっく覚えておけ』
『乙女心、不思議』
『とはいえ、ヴィンセントにしてはてこずっているなとも思うぞ。行きに五日、一日かけて周囲を偵察して、三日以内に片づける。そうしてまた五日かけて戻ってくる。どんなに長くてもそんなものだろうと、あいつはそう言ってたからなあ』
ネージュさんたちのひそひそ話が耳に入ってしまい、不安がぶわっとふくれあがる。本当に、何かあったのかもしれない。
『ああ、そのような顔をするでない。お主はにこにこと笑っておるのが似合いじゃ。これネージュ、お主が余計なことを言うからエリカが不安がっておるじゃろう』
『ネージュ、口がすべった。ダメ』
『ちっ、面倒だな。あいつは大丈夫だって言っているだろう』
ちょっぴりいらだたしげにネージュさんは言い、それから横倒しになった。そのままくるんと体を丸め、片手でわたしを胸元に引き寄せる。
『ほら、特別におれの胸を貸してやる。今だけ、布団代わりにしていいぞ』
「あ、ありがとう、ございます……」
ネージュさんのとってもふわふわな胸毛の上に寄りかかりながら、礼を言う。そんなわたしに、ネージュさんは穏やかに語りかけた。
『空を見てみろ。あいつも今ごろ、帰りの馬車の中からあの空を見ているさ。心配せずに、昼寝でもして待てばいい』
『お花の匂い、落ち着くよ』
トレの声にそろそろと視線を動かすと、わたしの腕から抜け出したトレがすぐ近くの草地で跳ねていた。あっという間に、草地が色とりどりの花畑に姿を変える。
『これは見事な花畑じゃ。トレよ、お主はいつも珍かな植物を生やしておるな。見ていて飽きぬ』
『トレが作ってるの。どんな花にするか、どう育てるか、全部トレが決めてるの』
『なるほどのう。お主は趣味が良い。誇ってよいぞ』
二人がなごやかに話している声を聞いていたら、ゆっくりと眠気が襲ってきた。そういえばここ数日、ヴィンセント様のことが心配であまり眠れていなかった。
お日様の匂いがするネージュさんの毛の匂いを感じながら、目を閉じる。
きっとこれから何度も、こんな風にヴィンセント様の帰りを待たなければならないのだろう。わたしはこの状況に慣れなくてはいけない。彼の妻として、彼の帰る場所を守るために。
でも今だけは、ネージュさんたちの優しさに甘えよう。そうやって少しずつ、慣れていこう。
そんなことを考えながら、ゆっくりと息を吐いた。
そうして、ヴィンセント様が出陣してから十六日目の夜。
「おかえりなさい、ヴィンセント様!」
ようやく、彼は戻ってきてくれた。見たところ怪我もしていないようだ。安堵のあまり崩れ落ちそうになるのを必死にこらえて、にっこりと笑いかける。
しかしヴィンセント様は、心配になるくらいに思いつめた顔をしていた。




