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16.幸せな夫婦として

 そうして、わたしは安心してヴィンセント様のそばにいられるようになった。一緒にいる時間も増えていったし、会話も増えていった。


 といっても、ヴィンセント様は元々かなりの口下手らしく、彼は何か話そうとするたびに大いに緊張しているようだった。


 だから自然と、わたしが話すことが多くなっていた。


 実家のこと、家族のこと、今までの生活のこと。そんなあれこれを思いつくまま話し、ヴィンセント様が小さく微笑みながらうなずく。それはとても幸せな、穏やかな時間だった。


 今日もわたしたちは、居間でのんびりしていた。いつもよりほんのちょっと話が弾んだのをきっかけに、ずっと温めていた考えを口にしてみる。


「ヴィンセント様、ひとつお願いがあるんですが……お料理を教えてもらえませんか?」


「君が、か? 特に必要ないと思うが」


「ずっと思ってたんです。ヴィンセント様のお料理はとてもおいしくて、わたしもこんな風にいろいろなものを作れたらなあって」


 そう言うと、ヴィンセント様は口を閉ざして考え込んだ。どうしようか、迷っているような顔だ。顔色をうかがいながら、そろそろともう一言付け加えてみる。


「それに、いつかヴィンセント様の好物を作ってあげられたらなあ、って……前にわたしの好きなものを作ってもらった時、とっても嬉しかったので」


 ヴィンセント様は青灰色の目を見張って、ぴたりと動きを止めた。驚きと戸惑いを顔に張りつけたまま、じっとわたしを見ている。


 居心地の悪い沈黙の後、ヴィンセント様は大きく息を吐いた。


「……分かった。まったく君はどうしようもなくけなげで、そのくせ強情だな。俺の守りを突破してくるだけのことはある」


「あ、ありがとうございます」


 褒めているような、ちょっぴりあきれているような声に、悩みつつも頭を下げる。そろそろと顔を上げると、ヴィンセント様は小さく笑っていた。


 ああ、なんて優しい笑顔なんだろう。言葉も忘れて、つい見入ってしまう。初めて彼に会った時は、こんな笑顔を向けてもらえるなんて思いもしなかった。


 嬉しさで胸がいっぱいになる。あれ、目の前がぼやけてきた。


「ど、どうしたエリカ、なぜ泣くんだ」


 ヴィンセント様があせっている。どうやらわたしは、感激のあまり涙ぐんでしまったらしい。ハンカチを取り出して目元をぬぐい、ヴィンセント様に笑いかける。


「嬉しくって、つい。……ヴィンセント様のこんな笑顔が見られたから」


 そう素直に答えると、ヴィンセント様は苦いものでも飲みこんだような顔をしてまた黙りこくってしまった。わたし、何か良くないことを言ってしまったのだろうか。


 居心地のいい居間に、また居心地の悪い沈黙が流れる。どうしようとおろおろしていたら、ヴィンセント様がまた口を開いた。


「……そうか。本当に俺は、駄目だな。笑顔一つでこんなに喜ばれるほど、君に冷たくしていた」


「えっ、駄目なんかじゃないです。事情があってのことなのですし」


 考えるより先に、そんな言葉が飛び出していた。びっくりして口を押さえたけれど、もう遅い。出過ぎたことを言ってしまったかもしれない、どうしよう。


 しかしヴィンセント様は、思いもかけない反応を見せた。彼は一瞬あっけに取られたような表情をすると、くしゃりと笑ったのだ。どことなく泣いているような、そんな笑顔だった。


 彼の笑顔に、自然と目が吸い寄せられる。何も言えずに、ただ彼を見つめる。なんだかちょっと、耳のあたりが熱い。


 そのままわたしたちは、無言で見つめ合っていた。近くの鏡のほうから、小さな笑い声が聞こえた気がした。




 そうして三日後のお昼前。わたしたちは、二人一緒に厨房にいた。ヴィンセント様はいつもの腰に巻くエプロンを、わたしは真新しいエプロンを身に着けて。


 このエプロンは、なんとヴィンセント様のお手製だ。厨房に入るなら必要だろうと、彼があっという間に縫い上げてくれたのだ。


 実用性を重視したこのエプロンには飾りはほとんどないけれど、胸元に小さな花の刺繍がされていた。桃色の小花が房のようになった、愛らしい花だ。


 わたしも裁縫はできる。でも、間違いなくヴィンセント様のほうが腕前は上だ。今度、お裁縫も習ってみたいな。


 そういえばこの間、約束通りに編み物を教えてもらったけれど、難しくてまだちゃんと覚えられていない。ああ、ヴィンセント様に教わりたいことがどんどん増えていく。


 真新しいエプロンをまとって浮かれているわたしに、ヴィンセント様はびしりと言い渡した。


「料理では刃物や火を使う。不慣れなうちは、必ず俺の指示に従ってくれ」


「はい」


「危ないと思ったら、自分の身を守ることを優先してくれ」


「はい」


「いざとなったら、俺を盾にするといい。俺は慣れているし、多少の負傷ではびくともしない」


「……あのう、料理って、そんなに危ないんですか? なんだか、戦場に出るような気分です……」


「ある意味戦場かもしれないな。だが、誰も死ぬことのない、そしてうまいものまで手に入る、素敵な戦場だ」


 その言い回しが面白くて、ついくすりと笑ってしまう。それにつられるようにして、ヴィンセント様も微笑んだ。


「それでは、料理を始める」


 ひとつ咳払いをしてから、おごそかな低い声でヴィンセント様がそう宣言した。




 神経を集中して、息を止めて。卵を作業台にこんこんと打ち付けて、そっと開く。ボウルの中に、まあるい黄色がつるりと転げ出た。


「はあ……ようやくちゃんと割れました。でも失敗してしまったのはどうしましょう……」


 隣のボウルには、割るのに失敗してつぶれてしまった卵が三つ。申し訳なさにしゅんとしていると、ヴィンセント様が小さく笑った。


「気にするな。割り損ねたものにも、使い道はある」


 そう言いながら、ヴィンセント様は慣れた手つきで野菜を切っている。ニンジンが紙のように薄く切られていく驚きに、つい彼の手元を見つめてしまう。


「すごい……わたしにも、いつかできるようになるのでしょうか」


「君が野菜を上手に切れるようになる必要はないと思うが……俺は、必要に迫られて料理をしているうちに、自然と身についただけで」


「必要はないかもしれませんけど、それでもあこがれてしまいます。わたしも、そんな風に包丁を扱えるようになりたいです」


 思ったままそう答えると、ヴィンセント様は苦笑しながら答えた。その間も、彼の手は野菜を美しく切り続けている。


「……そうか。君がそう思うのなら、いずれはできるようになるかもしれないな。さあ、まずはもう一つ卵を割ってみろ」


「はい!」


 意気込んで卵を手に取り、別のボウルに割り入れる。


「やりました! 二つ続けてちゃんと割れました!」


 思わず飛び跳ねてから、さすがに子供っぽかったかとあわてて動きを止めた。そのままそろそろと、ヴィンセント様のほうを見る。


 彼は笑っていた。とても楽しげに、声を上げて。こちらまで笑みが浮かんでしまうような、あっけらかんとした笑顔だった。


 また一つ、彼の知らない顔を見られた。その満足感が、じんわりと胸を満たしていた。




 それから一生懸命に頑張って、今日のお昼ご飯ができあがった。


 わたしが悪戦苦闘しながら生まれて初めて焼いたベーコンエッグ、ヴィンセント様が作ってくれたサラダとマッシュポテト、それにパンと果物。いつもの昼食より質素だけれど、とってもおいしそうだ。


 それらの皿がずらりと並んだ食卓をうっとりと眺めていると、隣の厨房からヴィンセント様が現れた。両手に皿を持って。


「……それと、これも」


 彼が手にしていたのは、小ぶりのオムレツだった。二つの皿に一個ずつ、ちょこんと乗っている。


「君が割り損ねた卵で作った。口に合うといいが」


 きれいにまとまったそのオムレツには、刻んだ玉ねぎとチーズらしきものが混ぜられている。とってもいい匂いだ。


「おいしそうです……匂いをかいだら、急にお腹が空いてきました」


「ああ、それでは食事にしようか」


 とてもなごやかな空気の中、二人っきりの食事が始まる。


「わあ、このサラダ、知らないハーブが入っていてとってもおいしいです。トウモロコシの入ったマッシュポテトも初めてです。ぷちぷちして面白い……」


「どちらも俺の故郷では普通に食べられていたものだが、気に入ってもらえてよかった」


 そう言ってヴィンセント様が、ベーコンエッグを一口食べる。どきどきしながら見守るわたしに向かって、彼はゆっくりとうなずいてくれた。


「ああ、こちらもよくできている。初めてだとは思えない」


「あ、ありがとうございます……」


 その一言がとても嬉しくて、泣きそうになってしまった。目元を押さえてうつむくと、ヴィンセント様のおろおろした声が聞こえてきた。


「頼む、泣かないでくれ。そ、それに食事が冷める」


 そのあわてっぷりが微笑ましいなと思ったおかげか、どうにか涙も引っ込んだ。それから一緒に、オムレツを食べてみる。


「本当においしい……あのぐちゃぐちゃの卵から、こんなにおいしいものができるなんて……ヴィンセント様って、本当にすごいです」


 わたしの言葉に、ヴィンセント様は小さく咳払いして視線をそらした。どことなく照れくさそうな表情だ。


「その、余りものや細切れの食材で料理をするのは得意だ。だから君がまた失敗しても、俺はそこからちゃんとした料理を作ってみせる。無駄にはしない」


 きょとんとするわたしのほうを見ないまま、ヴィンセント様は続けた。


「だから、その……これからも、安心して料理に挑戦するといい。……君と厨房に立つのは、楽しかった」


 少し遅れて、言葉の意味が理解できた。わたしが無理を言って頼み込んだけれど、ヴィンセント様もわたしと一緒に料理することを、楽しいと思ってくれていたのだ。


「はい!」


 だから明るくそう答えて、もう一口オムレツを食べた。なんだかさっきよりもさらに、おいしく思えた。

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