第一話 天野一華
季節は夏前。梅雨が明け、ようやく夏の狼煙が上がった6月中旬。突然彼女は転校してきた。
漫画やアニメでしか見たことのない、圧倒的な美貌と無駄のない美麗な所作。そんな女性を僕は現実で初めて目にした。高校2年の夏前、突然転校してきた彼女は、1日で学校中の人間を生徒教師問わず虜にした。
黒板の前に立つ女性の清廉な美しさ。スッと伸び、はっきりとした鼻だち。切れ長で物憂げな目元。上品にカーブした長い睫毛。そして、怪しげな唇。彼女はまさに無敵の花であった。彼女の肩下まで伸びた髪は、どこまで黒く艶やかで、見るものをどこまでも黒い深淵に飲み込むようであった。
僕のホームルームである2年B組の生徒は皆、然として立つ花に魅せられていた。
「天野さん、自己紹介してください。」
担任が促す。
「天野一華と申します。よろしくお願いします。」
彼女はその名前を清らかな声で告げた後、力強く次のように言った。
「私は、星を見ることが嫌いです。」
恐ろしく透き通ったその声は、教室の空間を捻じ曲げた。全く脈絡のない宣言に教室は突然、閑散とした。誰もが彼女にとって「星を見ること」は深い意味があるのだろうと考えていたと思う。僕みたいな普通の人が言えば、高校という名の思春期の楽園で狂ってしまった、黒歴史製造機だと思われるだろうが、謎多き正真正銘の美少女が言えば意味を持った発言になってしまう。そんなことよりも僕は彼女が放った言葉が気に掛かった。
「星を見ることが嫌いです。」
星を綺麗だと言う人間は安直で短絡的だとでも言いたいのだろうか。僕は少し嫌な気分になった。
絶対的な美しさとは、得手して切れ味の良いナイフのようなものだ。美しくも棘のある薔薇とでも言える。その美麗さ故に触れるのすら躊躇ってしまうのだ。だからだろうか、クラスの誰もが遠巻きに彼女を見るだけで声をかけない。彼女はそんな僕らを気にもせず、ただ整然と、彼女の席の真横にある窓から流れる湿気を帯びた6月の風に黒い髪を靡かせながら座っている。そのとき、凍てつくB組の空気を割るべく、彼女の前の席に座っている女生徒が声を発する。
「お、おはよーーーーーう!!」
その声は緊張していたのか裏返り、教室中に響き渡るほどボリューム過多であった。この声の主はクラス一番のお調子者で人当たりの良さから男女問わず信頼されている「塔ノ沢真夏」だ。クラスの誰しも(廊下に見物に来ていた者も)が「良くやった!」と言わんばかりに彼女に熱い視線を送った。しかし、天野一華は長い睫毛を上下させるだけで極めて冷静に、会釈をした。
「(え、それだけ!?)」
内心そう思ったのは僕だけではないだろう。塔ノ沢は諦めなかった。
「く、クールだなあ、好きな食べ物は何だい?」
「(ありきたりな質問だなあ)」と僕は苦笑した。
「クラムチャウダーです。」
「子供っぽいね!」
軽く嘲るように塔ノ沢が言うと、天野一華は目を細めてそっぽを向いた。
「(おいおい真冬の冷たい夜に星を見ながら食べるクラムチャウダーの美味しさを侮るなよ)」
と心の中で思っていたところ、1時間目開始のチャイムが鳴り響いた。あたりを覆い尽くしていた見物客もそそくさと自分のクラスに戻り、何事もなかったかのように授業が始まった。1時間目は国語の授業だ。古典の活用を永遠と繰り返すのがつまらなかったので、今日の天野さんの発言を思い返してみた。
「星を見ることが嫌いです。」「クラムチャウダーです。」
なんだかこの二つに矛盾を感じる。でも特別関連性はなさそうだよな、第一、夏前のこの時期にクラムチャウダーのことを考えるだけで暑苦しくなる。これ以上考えるのはよそう。そう思い僕は、放課後に何をするかあれやこれやと考えることに集中することにした。・・・
〜続く〜