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日常の檻

作者: 海坂内海

 光が咲いたのだ、と思った。

たとえば雨上がりの虹が放つ淡い光彩、プリズムを通して現れる極彩色の紋様、雲の切れ間から差し込む薄明の光線。そういったものをひとつに束ねて大地に撒いたら芽が出て花が咲いた。そんな感じだった。


「美しいでしょう」

 私に掛けられたであろう言葉は意識の表面をすべり、何も残さず通り過ぎていく。

ただ呆然と目の前に咲いた光の結晶に目を奪われたまま、ちいさく「とても」と返すことしかできなかった。


 周囲の人々がざわめいた。部屋の床に横たわっていたものが目を覚ましたからだ。


 それはおおきく腕を伸ばして伸びをし、細くしなやかな指で自分の薄緑の髪をくしゃくしゃとかき回すと高い丸椅子の脚に掴まって立ち上がり、それから部屋の周囲を取り巻く人間たちを金色の瞳でゆっくりと眺めはじめた。

 雪のように白い肌は照明の光をやさしく弾き、桃色の唇とそこに見え隠れする赤い舌先は蠱惑的でありながらも淫らな印象を与えない。股間に付いた控えめな包茎の男性器は古代ギリシャの彫像を想起させ、丸くやわらかそうな臀部からすらりとした形の良い脚が伸びる。

 感極まったのか、誰かが呻くような声を出した。


 ひとりの美しい少年が、そこに「展示」されていた。


-


 奇妙な芸術作品が展示されているらしい。

私がそんな噂を聞いたのは、行きつけのカフェで美味しくもないコーヒーをすすっていた時のことだ。

ブルックリンにあるレムリックホール近代美術館は、その展示を見るために押しかけた人々で連日満員だという。


 幸いなことに私には時間があった。

職場の衣料品店が火事で消失し、ついでにパートナーとの長い同棲生活に終止符を打ったばかりだったからだ。

 いままで目の前にあった普通の生活が、実は風にそよぐカーテンに映った影絵でしかなかったと知らされたような気分で、苦いだけのコーヒーをぼんやりと口に運ぶ私の耳に届いたその噂話が、こころの一部に妙に食い込んだ。


 行ってみようか。

そう考えたのは単なる気まぐれだと自分でも気がついていた。

要はなんでもよかったのだ。この陰鬱な状況から一時的にでも逃げ出せれば。先のことは考えたくなかった。気が付けば私は地下鉄に乗り、件の近代美術館へと向かっていた。


 着いてみれば噂の通りに館内は混雑していたものの、けっして身動きが取れないというほどでもない。

四肢を不規則な方向に動かす猿の剥製、絶えず体表から泥が流れ出る成人女性の立像、耳を澄ますと中から会話が聞こえる銀色の球体。

 作者の挑戦心が形になったような、見た目にも楽しげな作品は多かったものの、私にはその大半がある種の玩具に思えた。もちろん、見る私の側に芸術的素養がなかったことも少なからず影響していたかもしれない。


 噂は噂だ。期待しすぎたかと考えながら私はぶらぶらと館内を歩く。

期待。私はなにを期待してここまで来たのだろうか。

荒んだ心の琴線に触れる愉快な芸術作品、あるいは目にした瞬間に何もかも吹き飛ばしてしまうくらいの衝撃的な体験。そんなもの現実にははあり得ないと知っているのに。


 やがて最奥の展示室までたどり着いた私は、そこで肩をぶつけあうほどに密集している観衆の存在に気がついた。人々は壁に貼られた『お静かに』の注意書きを無視し、小声で互いの見識を交わすのに夢中になっている。

 部屋の入口に掲げられた作品名のプレートには『観察対象』の文字。私は足の赴くままに人と人の隙間を肩でこじ開けながら展示室の中へと歩を進める。


 その作品は広い展示室の中央に設置されていた。

幅と高さ、奥行きが5メートル前後の透明な立方体。巨大な水槽にも似たその中に、なにかが横たわっているのが見えた。


 そして私は「それ」を視た。

とても美しい、心からそう思った。


-


 私はレムリックホール近代美術館に通い始めた。

朝は早くに目覚め、始発の電車で美術館へ駆けつけては列に並んで開場を待った。

中に入ると、迷うことなく最奥の展示室へ向かい『観察対象』の観賞に没頭する。


 『観察対象』である薄緑色の髪をした少年は、狭い部屋の中に展示されていながらも自由に見えた。

部屋の中には背の高い丸椅子が一脚と、古びた蝶の図鑑が一冊あるだけで他には何もなかったが、少年は満足そうだった。好きな時に寝て、好きな時に起き、部屋の周囲に群れる観衆を柔らかな表情で眺める日々。

 時折、床や部屋の中空に見えない絵や文字を描いたり、壁面に額を押し付けてなにかを呟いたりしている。そういった天真爛漫な動作のひとつひとつが優美で、穏やかで、楽しげだ。私はすっかり少年に魅了されてしまった。


 奇妙なことに少年が食事する場面を見たことはなかった。排泄も然り。

誰かが閉館後に外に出てきているのだろう、と話しているのが聞こえたがそれも現実的ではない。

 だが、私にとってはどうでもいいことだった。少年がそこにいて楽しげに生きている、輝くようなその姿さえ見られればそれで良かった。彼の正体など知ったことではない。


 私が足繁く通う間にも様々な出来事があった。

展示室にこれは芸術ではなく見世物だ、ポルノだ、人権侵害だとわめきたてる集団がなだれ込んできたことがあった。彼ら、あるいは彼女らは学芸員に詰め寄ったり警備員ともみ合いになったりしていたが、少年はその光景を微笑みながら見つめているだけだった。

 このことは新聞記事となり、押し寄せる観衆の数はさらに増えた。展示そのものについても世間では賛否の議論が巻き起こったようだったが、私は興味を持たなかった。


 少年と交流を試みるものもいた。

部屋の周囲には近寄れないように人の腰の高さほどある柵が張り巡らされていたが、それを乗り越える者は後を絶たなかった。

 少年の目の前で裸になり誘惑しはじめた女がいた。勃起した姿が見たかったという。突然、自慰行為をはじめて部屋の外壁にぶちまけようとした変態がいた。そいつは行為が済む前に周囲の観衆に袋叩きにされた。取り出したスプレーで透明の壁を黒く塗りつぶそうとするアーティストがいた。自分の作品が見向きもされない事への復讐だという話だった。

 他にも、罵声を浴びせるもの、挑発するもの、愛を囁くもの。

それらの行為を少年はただ、じっと眺めていた。


 いずれの行為もが少年の美しさと不可思議さに魅せられた故のものだと、私は知っている。

人は未知の存在を恐れる。畏れ、憎み、時に敬い、時に尊ぶ。

透明な檻の中、無邪気にあそぶ美少年の姿はまさしく此処を訪れた者たちにとって未知の存在なのだった。そして、もちろん私にとっても。


-


 変化に気がついたのは、おそらく私が一番最初だったのではないだろうか。

その日の私はいつもの定位置、人の波に流されない壁際の柱の陰にもたれて部屋の中の少年の挙動に見惚れているところだった。外はあいにくの雨模様で、展示室の天窓から差し込む明かりはひどく弱々しかったが少年の輝きにはわずかの曇りも見出せなかった。


 観衆はいつもよりも少なかったが相変わらずの盛況ぶりで、様々な人種が押し合うようにして展示室に詰めかけて来ている。

 その中から「俺を見ろ」という声が聞こえた。音の響きに嫌なものを感じ取った私が声の方向に視線をすべらせると、そこには一人の男が立っていた。


 薄汚れたレインコート姿の男は、いつの間にか柵を乗り越えて部屋の壁まで近付き、少年に対して右手を突き出している。問題はその真っ直ぐに伸びた手のなかに小口径の拳銃が握られていることだった。

 どうやって持ち物検査をパスしたのか、警備はなにをしている、危険だ、あの男は少年を―――撃つつもりだ。一瞬で思考が頭の中を駆け巡る。観衆の誰かが悲鳴をあげた。


 「俺を見ろ」ともう一度、男が言った。

少年は床にあぐらをかいて座り込み、いつものように見えない文字を書いて遊んでいたが、その声に気付いて顔をあげ、男と、そして自分に向けられた銃口を見た。それだけだった。


 数秒間、男と見つめ合った少年は、すぐにひとり遊びの世界に戻ってしまったのだ。

男が大声で目をそらすなと叫び、ガラスの壁を銃のグリップで殴打したが、もはや少年は見向きもしなかった。

 舐めやがって。俺を無視しやがって。男のヒステリックな声と同時に少年のあたまに銃口が向けられる。ぶるぶると震える指が引き金に掛かり、引き絞られていくのが私の目にはスローモーションのように映っていた。


 怖いとは思わなかった。ただ恐ろしかった。目の前で美しいものが傷つけられようとしていることが。

私は男に向かって大声をあげながら駆け出した。なんと言ったかはよく覚えていないが「やめろクソッタレ」に近い言葉だったと思う。男が顔をこちらに向けた。血走った眼球がぐるりと動き、私の動きを捉えた。それでも標的は揺るがない。

 やめろ、撃つなら、せめて私を。


 かわいた破裂音が響き渡った。

展示室の床に血飛沫が散り、赤色の前衛的なアートを形作っている。

人々が互いを押し退けあいながら逃げていくなか、レインコートの男は床の上で胎児に似た姿勢でうずくまり、泣き叫んでいた。無残に砕けた右手を抱きしめたまま絶叫を続けるその傍らには、銃身の裂けた拳銃が落ちている。暴発したのか。


 安堵のためいきと同時に、少年の存在を思い出した私は『観察対象』に目を向けた。

目の前で起きた暴力とその結末が、彼に良くない影響を与えなければいいと願いながら、私は見た。


 彼はあくびをしていた。


 部屋の周囲で騒ぎたて、戸惑い、珍妙なアプローチに終始する我々の凡庸さに対して、少年は完全に飽きてしまったのだと。展示室の片隅から誰よりも少年の輝きを見つめ続けてきた私には、その事実が理解できてしまったのだった。


-


 事件から数日後、深夜にレムリックホール近代美術館に忍び込んだ私は、ふたたび『観察対象』の前に立っていた。時刻は午前一時を廻っている。

 警備員が次に巡回してくるのは少なくとも一時間後で、それまでに作業を終わらせる必要があった。もっともこの日のために入念な準備をし、シミュレーションも重ねてきたのだ。失敗するとは思えない。


 少年はやはり部屋の中にいた。

すでにフロアの照明は落とされていたが、非常灯の効果なのか『観察対象』の周囲だけがぼんやりと光っている。部屋のなかで退屈そうに寝そべっている少年に手を振ってみせると、彼はきょとんとした表情でこちらを見返してきた後に微笑んだ。


 「あなたをここから出します」

言葉が伝わるかどうかは関係なかった。自分の意志を口に出したかっただけかもしれない。

少年をこの硝子の檻から救い出し、陽の光のもとに返すことが自分の使命だと、私はあの瞬間に気がついたのだった。

 職場の焼失、パートナーとの別離、カフェでの噂話、それらすべてがこの少年を解放するための布石だった。そのために私はここに招かれたのだ。


 私は部屋の壁を構成する強化ガラスに強酸性の薬品を、スプレーで円形に吹きつけた。

表面がわずかに泡立った頃を見計らって厚手のゴムシートを張り付け、その上からハンマーで叩いていく。しばらく続けると鈍い音が続き、手応えが軽くなった。ゴムシートをはがすと壁には人ひとりが通り抜けられるくらいの穴が開いていた。


 私は穴から肩先を入れ、部屋の奥でじっとこちらを見つめる少年の手を差し伸べた。

いきましょう。そう告げた私の意志が伝わったのか、少年は特に怯えた様子もなく歩いてくると迷いなく私の手を握った。血の通っていないような、それでもかすかに温かみのある細い指を引き、痛くないように細心の注意を払って。

 まるで異国の姫君をエスコートするような心持ちで、私は少年の手を引いて部屋の外へと連れ出した。


 そして少年は消えてしまった。

壁の穴を通り抜けた瞬間に、彼は空気に溶けるようにしていなくなってしまったのだ。

ああ、やはり彼は本当に光の化身だったのだ。

 異常に気がついた警備員が駆けつけ、床に引き倒されるまで、私は消えてしまった少年の体温と目的を果たした充足感に浸りながら、展示室に立ち尽くしていた。


-


 『ブルックリンのレムリックホール近代美術館に男が押し入り、展示されていた前衛芸術作品を破壊した容疑で逮捕された。

  この美術館では事件の数日前にも館内で拳銃の暴発による怪我人が出ており、警備や監視体制を強化すると発表したばかりだった。

  破壊されたのは裸体の少年をモチーフとした作品『観察対象』で、巨大なガラス張りの部屋で暮らす少年の生態を観衆が見守るという内容。

  観衆が少年の存在を目の当たりにした際、どのように影響されるかの社会実験要素を含んだ作品で、展示当初より激しい議論の的となっていた。。

  実際には室内に生身の少年は存在しておらず、有機ガラスの壁面に投影された立体ホログラム映像であったことが主催者レムリック氏より語られた。

  この作品は様々な事件やトラブルに見舞われてきたが、今回の事件によりガラスが破損したため展示中止のやむ無きに至ったと説明している。』


-


 やあどうも、とガラス越しの紳士が会釈をした。

高級そうなグレーのスーツに整った口髭、おまけに室内でも山高帽を脱がないとくれば、これはもう典型的な金持ちの所作だ。拘置所の殺風景な面会室にはとうてい馴染まない。

 誰だろう、この男は。


 「やってくれたね。まあ、いつかはあんな事になるんじゃないかと予想はしていたが」

私の困惑をよそに、紳士は一方的に話し始めた。


 あの作品は社会実験の一種で中に本物の少年は実在しなかったこと。

展示ケースが壊れてしまったので作品を展示中止にせざるを得なかったこと。

そして私が自らの行為を罰せられ、ここに拘留されていること。


 「嘘だ」

私の口から自然に言葉が漏れた。

あの時、私はたしかに少年の手を握り、かすかな体温を感じた。あれが映像だとはとても思えない。そう続ける私の目をじっと見つめながら紳士は右手で宙に何かを描くような動作をした。

 まるで、あの少年がそうしたように。


 ガタン、と音がした。

振り向くと面会室の隅にいた刑務官が腕組みをしたまま体勢を崩し、居眠りを始めている。

「何をしたんです」

「あいつは異なる場所から来た妖精のような存在だ。当初は外に出ないという約束で人間を『観察』させていたんだが、お察しの通りでね」

 紳士は帽子を脱いで、ネクタイを軽く引っ張ると首元を緩め、それから椅子に座り直した。


 「退屈したんだろう。だから観衆の中から特にご執心な君を見出して操り、そして抜け出したというわけだ」

 私は話を聞きながらも、紳士の耳元から目が離せなくなっていた。

彼の耳は顔の横から側頭に掛けて長く伸びており、加えて先端が鋭く尖って見えていたからだ。まるで物語の中のエルフ族のように。


 「これが真実だ。もっとも君が目覚めた時にはすべて忘れているだろう。さあ日常に戻り給え」

紳士の手がひらひらと動き、私の意識は強烈な眠気と共に急速に遠ざかっていく。

なにもかもが消えていく。紳士の顔も、少年の瞳も、自分が抱いた感情すらも。

それはひどく寂しいな、と思った。


-


 私は今日も行きつけのカフェで美味しくもないコーヒーをすすっている。

退屈で、平凡な毎日がこれから先もずっと続くのだろうという確信にも近いイメージを抱きながら。

 どうしようもないこの現実から逃げ出したくなる時もあるが、逃げ出した先もまた自分にとっての現実なのだ。大して変わりはしない。

時々、私が前科持ちであると知った人から「何をして逮捕されたのか」と聞かれることがある。しかし、なにかを壊して捕まったという記憶だけは残っているが、それがなんだったのかも思い出せなかった。


 私は暇つぶしに隣の客が置いていった新聞を手に取り、適当に記事を眺める。

『レムリックホール近代美術館にて"異形展覧会"開催。主催ジョン・レムリック氏が語る異形の魅力とは』

そんな記事が目に留まる。写真に映ったグレースーツの紳士にはどこか見覚えが有るような気がしたが、きっと気のせいだろう。

 

 私は溜息を吐き、コーヒー代をカウンターに置くとカフェを後にする。

また日常が待っているのだ。

習作です。日常に憂んだ私がそこから抜け出そうともがき、失敗する話を書きたかったのですが

あまり面白くなりませんでした。

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