覚醒
まさかここにまた来ることになるなんて、と髭の男は思った。ふと馬車の中を横目で確認すると、少女も狸もこちらに気づく様子はなく、ただ寝ていた。
甲冑を着た者が彼と対峙しており、男は同様を見せないよう、その甲冑の中身をにらみつけた。
「おお、あなたはこの間の。ご機嫌いかがですか。」
存外近くにいたのか、ハゲ散らかした領主が甲冑の者のすぐ後ろから出てきた。
「これはこれは、領主様。この間はお世話になりました。」
そう言いながら、髭の男は冷や汗をかいていた。彼もあの時、領主を罵倒している群衆の中の一人だったからである。
「どうですか、中でお茶でも一杯。」
「え、ええ、是非。」
領主が振り向いた瞬間...、男は反対側に振り向き、馬車の運転席に飛びついた。
「ほう...。」
領主は音を聞いて何かを察したのか、パチンと指を鳴らした。すると武装した者たちが髭の男に飛び掛かり、男は一瞬で捉えられてしまったのである。
「やめろっ!何をするんだ!」
「馬鹿め。全て筒抜けなんだよ。おい、こいつを収容しろ。」
暴れる髭の男は、領主の屋敷の奥へ引きずり込まれていった。
男を見送ると、領主のクラウスは顎をなでながらニヤリと笑った。
「さて、あとは中のガキとゴミだけだな。私の手で殺ってやろう。」
その頃には、ナオミは目を覚まし、外の騒ぎに耳を立てていた。彼女は狸を抱え、馬車の中に蹲っていた。
クラウスはどこからかナイフを取り出し、右手で彼の腰の後ろに隠し持ち、左手で馬車の扉を開けた。
「貴様ら、よくもこの間は私に恥をかかせてくれたな。」
クラウスは大人気なく少女にナイフの切っ先を突きつけた。馬車の中はそれほど広くない。クラウスの刃はナオミの鼻先にある。ナオミは、その刃越しに逆光を受けた領主のしたり顔を見た。
「貴様は死刑だ!死ね!!」
クラウスはナイフを持った腕を振り上げた。
その時、ナオミは腕に抱えた獣が飛び出そうな勢いでぶるりと震えるのを感じた。ナオミは恐怖に目を閉じた。終わりだ。死んでしまう。領主に殺されるのは悔しいけど、シャグラスと死ねるなら......。ナオミはこの狸に出会うまでずっと孤独を感じていたことを思い出した。
(もう少し...、一緒にいよう...。)
「え...?」
聞いたことのない声である。あまりにも落ち着いた声なので、ナオミがふとつられて目を開けると、なんとそこには顔面血まみれの領主がだらりと両手をぶら下げて仁王立ちしているのである。眉間の中心には先細った物干し竿のようなものが突き刺さっている。
(今までよく頑張ったね...、お互いに...。)
ナオミは再び声を聞いた。心の中に直接届いているようだった。胸元では痩せ細った狸が少し息を荒げていた。
(早く出よう。)
寝ているようにぐったりした様子だが、声の主がその狸だということをナオミはなんとなく理解していた。
馬車の外は領主の様子がおかしいとどよめいている。
「どうやって出ればいいの?」
ナオミはできるだけ小さな声で狸に尋ねた。
(クラウスの小指を切り落としてください。)
「えっ...。」
(早く!死にたいの?)
少女は言われるがまま、男の小指の根本にナイフを入れた。よほど良いナイフだったのか、少女の力でも軽々と切断することができた。重力に従って吹き出る血に、少女は眉間を寄せた。
「出てこい!何をした!」
五、六人の警備たちが馬車に向かって喚き始めた。
(外にむかって投げて!)
なるようになれ、とナオミは思った。こんな強い仲間がいるんだ、きっと言う通りにすれば何とかなる、と。
士気を帯び始めたどよめきは、血まみれの指が地面に転がると一瞬で静まり返った。
ナオミは狸を抱え、ゆっくりと馬車から出てきた。馬車を囲むようにして注視していた屈強な男たちは、目を丸くしてその光景を凝視していた。
男の一人が剣を抜いた。
「クラウス様に何をしたっ!」
ナオミには主を労る言葉でなく、警備員が男自身を鼓舞しているように聞こえた。
いける...、とナオミは思った。
(3、2、1.....逃げて!)
シャグラスはナオミの心にそう語りかけると、体をぶるりと震わせた。全身の毛が逆立つ。
ナオミが振り返った瞬間、彼女の背後に黄金の槍が生えたのである。領主の顔に突き刺さっているものも、よくよく見てみるとこれと同じ物であった。しかし、今度のものはいくらか細い。それを見てか否か、ナオミはシャグラスの体力が落ちているのを感じていた。
彼女の顔は未だ悲壮感に満ちていた。領主の家を出たからと言って、どこでまた捕まるかもわからない。日は沈みかけていた。警備が怯んでいるうちに、どこか安全なところへ逃げなければ。そう考えるうちに、少女の足は自然と人目につかない路地裏に向かって行った。
少女を観察する陰鬱とした空気は、暗さに比例するように活気を帯びていった。
「もしもし、お嬢ちゃん。」
そして悪は、弱者を見逃さない。路地裏の壁伝いに歩いていた少女の背後から、三人組の男たちが声をかけてきた。
「なんでしょうか...。」
「こんなところを歩いていたら危険だよ。」
声をかけたのは、三人の中で最も背の低い男だった。
「帰るところがないんです...。」
「よっしゃあ、お嬢ちゃん!じゃあ今日はお兄さんたちと遊ぼう!」
「いいのか?」
背が高く、疲れた顔をした男が、真ん中にいた中肉中背の男に心配そうに聞いた。
「ふむ...、まぁいいだろう。」
ナオミは、本能的に彼らが悪人であることには気づいていたのだが、どうにも領主の手下に捕まることを考えると、一旦他人の家に上がり込むべきだと思った。
そこはナオミの家と大差ない、おんぼろな家だった。男三人で住むには少し手狭なのでは?と彼女は思ったりもした。
「ほら、あがんな。」
背の低い男は立ち止まる少女の顔を覗き込み、ニヤニヤしながら少女を促した。
「りんごだ。食え。」
中肉中背の男が少女にりんごを渡すと、横からそそくさと小さい男が割って入り、彼を家の外に連れ出した。
「兄貴、いいんですか。食い物なんか恵んでやって。」
「構わん。どうせ売るんだ。元気な姿にしたほうが値段も高くなるだろう。」
小男はもどかしそうに言った。
「でもなぁ、小さいけど女ですよ。売る前に少しくらい楽しんだっていいんじゃないですか?」
「馬鹿が。そのために餓死にしてもいいなら好きにしろ。」
男たちの暮らしもまた貧しかった。彼らは少年時代からつるんでいた農民の集まりなのだが、全員家族を失い、土地を失い、独り身になりようやくたどり着いたのがこのボロい家である。彼らは主に盗みで食事を賄い、奴隸や薬物売買で硬貨を手に入れていた。
「まあ兄貴ならそういうのわかってましたよ。安心してください。ちゃんと売れるまで肥えさせますよ。」
その日から少女と狸は家の奥の柱に首輪で繋がれ、奴隷としての生活が始まった。狸は依然として立つことができず、ミイラのようにやせ細っていた。
男たちは、毎日一食、一つの皿で飯を与えた。ナオミは与えられた食べ物の大半を狸に食べさせ、自分は残りの三割ほどで我慢した。
「見てくださいよ兄貴、うちは狸と女を飼ってますぜ。」
小男が囃し立てる。ナオミが睨みつけると、
「おー、怖い怖い。」
とそのニキビ面をニンマリとさせるのであった。
七日が経った。
少女の献身もあって、狸は未だか細いながらも歩けるようになった。
(そろそろ抜け出さなくてはいけませんね。)
「うん。」
少女はできるだけ小さな声で答えた。
この時間帯、男たちは日銭を稼ぐために出かけている。
様子を見計らって、狸はちらりとナオミに目配せした。
(鍵を作りますから。)
そう言うと、狸はぶるりと体を震わせた。すると、光とともに地面から金色の鍵が現れたのである。
「す、すごい...。」
ナオミは感嘆した。
鍵の作りはとても簡素であったため、概算で作られた金の鍵で十分であった。
首輪で繋がれていたときから今の今まで、ナオミは今まで守っていた狸に対して、頼もしく感じ始めていた。
「仕事」から戻った男たちは、全員が手ぶらだった。中肉中背の男は少女たちが繋がれていた場所を見ると、猛獣のような唸り声を上げた。
「なめやがってぇえええええええええ!!!!」
その頃、少女は早足で歩きながら、町の外へ出ることを画策していた。さして広い街でもない。ナオミは、彼女の身分、そして彼女がシャグラスと共にいることを考えると、搾取する人間たちと一緒にいるよりも、動物に囲まれていたほうが安全だとさえ思っていた。
夕暮れ時、ついに男たちが少女の姿を捉えた。
「見つけたぞぉ!!」
少女は慌てなかった。なぜなら彼女はシャグラスと共にいたからである。
「お願い。」
後ろを振り返らず、できるだけゆっくり歩いた。
走る男三人はすぐに彼女に近づいた。 だが、三人のうち二人が彼女を捉えようと手を伸ばしたところで、すぐに動かなくなった。だらりと四肢を垂らして、頭でなにかにぶら下がっている。
シャグラスはあのときと同じように、金の柱を出したのである。地面から斜めに生えた、少女の腕ほどの太さの柱は、男たちの片目を通り、後頭部、頭蓋骨の内側に引っかかって止まった。
「ひ、ひぃいいいい!!!!」
残った一人は、中肉中背のリーダー格の男であったが、その役に似合わない、なんとも間抜けな顔をして街の方へ逃げ出していった。
背後の惨状には見向きもせず、少女たちはゆっくりと森の中へ消えていったのであった。