シャグラス
狸を家に連れ帰り、藁の下に隠して一夜を過ごしたナオミは内心驚いていた。生きた状態で譲り受けたとはいえ、狸が助かるとは思っていなかったのである。彼女自身不謹慎だとは自覚していたが、彼女は早朝に冷たくなった狸を埋める場所を考えていた。だが事実、狸は寒い藁の中、ナオミの横で一夜を明かしたのである。致命傷を負った動物のできることではない。
おそるおそる狸を撫でると、骨に大きなひびがいくつも残っているものの、砕けていたはずの肋骨や背骨が繋がっていた。子供ながらに彼女は一体どのような力が働けば真っ二つに裂けた骨が繋がるのか、と思考を巡らせたが、その一方触れられた狸が時折痛そうに反応するので、彼女の思考は直ぐに狸への同情へと移り変わった。
「あなたは今日からシャグラスって呼んであげる。」
ローディと呼ばれていた狸は、その日からシャグラスという名前になった。
住居を変えてもなお、人間に飼われている狸の生活は過酷な野生動物の生活にも及ばないほど貧相なものであった。一日中藁の下で寝ているばかりで、あることといえば、ナオミが持ってくる僅かな残飯と、抱き枕にされることだけであった。
狸は動くことを諦めていた。外に出ることを望めば、何も得られないどころか、罰が下ることを体に教え込まれていたのである。だが、それだけに、外に出られないが故に、ナオミの腕の中からうっすら見えた外の景色が夢のように脳裏に焼き付いていた。
ある時、ナオミが珍しく狸を藁の中から引っ張り出した。
「シャグラス...??」
狸の足は衰退しきり、ごぼうのようにやせ細っていた。
「ど、どうしよう...。」
狸は全く運動をしていなかったため、立つための筋肉がほとんど残っていなかったのである。元々細かった両足が、さらに細くなったことが、さらにナオミを恐れさせた。おそるおそるナオミが狸を土の上に立たせようとすると、小鹿のように四本の足を震わせると、二、三回彼女が瞬きをする間に、倒れこんでしまうのである。
ナオミはこれを何らかの病気ではないかと思った。
「お...、おかあさん...。」
洗濯物を取り込んでいる母親に、彼女はおそるおそる声を掛けた。
「あの...、聞いてほしいことがあるんだけど...、」
彼女は母親を自分の寝床まで案内すると、屍のように瘦せこけた狸を見せた。
「まぁ...!」
「可哀想だからたすけ...、」
助けてあげて、と言おうとしたナオミは、最後まで言い切ることができなかった。
目を見開いた母親は、唐突にナオミの右頬に張り手を食らわせたのである。ナオミは地面に倒れ込んだ。
「あんた一体なにやってんの!動物なんて連れ込んで。」
「ごめんなさい...。」
狸を連れ帰った時ナオミは傷だらけの動物の心配ばかりしていたため、狸を連れて来た事を母親に言っていなかったのだ。
「しかもあんた、金は?もらってきなさいって言ったでしょう!!」
母親はまくしたてる。
「ごめん...、なさい...。」
彼女はそのとき、母親の言いつけを何一つ守れないばかりか、自分の我儘で動物を飼っている自分を客観視した。
「領主様から貰って来たんです...。森に捨ててきます...。」
「何を言ってるの?捨てる必要はないわよ」母親はため息を吐いた後、ふと表情を明るくした。「あんたが、肉を持ってきてくれたんだから、感謝して食べるしかないじゃない。」
ナオミの背筋に寒気が走った。あのおぞましい拷問のような光景と、母親が獣を屠畜する光景が重なってしまったのである。
「嫌だ!!」
「じゃああんた、どうするの。」
「病気だもん...。病院に連れていくもん...。」
すると母親は、
「あっそ。あんたの好きにしなさい。」というと、冷めた目をして台所に戻っていった。」
その日の夜、ナオミは父親にひどく殴られたのであった。父親も狸を殺そうとしたのだが、顔面血だらけで覆いかぶさりシャグラスを庇うナオミの姿に戸惑い、渋々ながらも手にかけることを諦めた。
後日、ナオミはやせ細った狸を抱えて病院への道を歩いていた。抱えている動物の分、足の裏に小石が強く刺さる。
「早く...、病院に行かないと...。」
「おお!あんときの嬢ちゃん!」道中、ナオミに知らない男が声をかけてきた。男は顎全体に髭を蓄え、でっぷりと脂肪をこしらえている。「どうしちまったんだい。そんなに顔を腫らして。」
「なんでもない。」
「なんでもないことはないだろう。血だらけで、動物を抱えた女の子が歩いてたら誰でも声をかけるだろうよ。馬車を出すから病院に連れて行ってやろう。」
「病院に行く」、と聞いて戸惑うナオミを前に、男は大きな腹を震わせながら馬車に向かって叫んだ。
「おーい。客だ!俺が金を払うよ!」
御者に行き先を告げた男は、少女を抱き上げて馬車に乗せた。男が乗り込むと、床がギシギシと悲鳴を上げた。
「床抜けちまうかな。はははは!」
馬車の中は豪華に飾られてはいたが、所々木が腐っていたり、カビが生えていたりしている。
「お嬢ちゃん、勇気あるねぇ。」
馬車が動き出すと、男が話しかけてきた。ナオミはじっと腕の中の狸に目を落としている。
(悪い人ではなさそうだけど...。)
「いやぁ。おじさんも勇気をもらってね。あの時は領主が金をくれるだろう、って思ってたんだけどさ。そんなことは他人に期待しちゃいけないね。」少女が黙り込んでいるので、 男は話を続けた。「万が一大量に金を持ってたとしても、領主にだって自分の生活があるんだ。あれから短い間だけど一生懸命働いたんだ。そしたらさ、見てくれてる人はいるもんだね。それまでは物を運ぶだけだったんだが、今度は俺のチームができたんだ。勿論、人の上に立つからには、きっちりと効率よく仕事をするよ。俺はあの件で反省したんだ。自分の食い扶持は自分で稼がなきゃって。税金取ってる領主だろうと、どこのお偉いさんだろうと、そんな人たちに期待しちゃいけないんだ。」
自分自身に言い聞かせるように話を続ける男の話は、ナオミの右耳から左耳に抜け出ていった。
一通り自分の言いたいことを終えて冷静になった男は、
「まあ安心しなさい。病院にはもうすぐつくから。」
といい、目をつぶって寝たふりを始めた。
「こいつは栄養失調ですよ。」
グレーのセーターを着て丸眼鏡をかけた男が言った。風船のように腫れ上がった顔を見た医者は真っ先にナオミの顔を診断し始めたのだが、ナオミが「狸を見てくれ」と聞かなかったのである。
「柔らかいものを食べさせれば、すぐに歩けるようになるでしょう。」
医師が笑いかけると、少女はシンクロしたように破顔し、床に崩れ落ちた。
(良かった...。)
少女が身に覚えのある振動に目を覚ますと、目の前に太った男の顔があった。見覚えのない顔に彼女は一瞬狼狽した。じっくり目を凝らすと、彼女を病院に連れてきてくれた男だということが分かった。
「おお、目を覚ましたかい。疲れただろうに。もう少し寝ていていいんだよ。」
「いい...。」
少女は恥ずかしくなり、慌てて男の膝の上から降りた。ふと、狸のことを思い出し、馬車の中を見渡していると、男が指をさしながら言った。
「ああ、それならこっちだよ。」
男が指し示す先には、籠に入ったブランケットにくるまれる茶色い毛玉がある。
「ああ...、よかった。」
毛玉の四肢は未だに弱弱しいものの、ナオミの腕の中にいたときのような険しい表情は消え去っていた。すやすやと気持ちよさそうに寝息を立てる姿を彼女は初めて見た。
「お医者様が痛み止めと砂糖をくれたんだ。これからはもう少し餌をあげなきゃだめだぞ。」
少女は少し考え事をしてから、
「うん....。」
と答えた。
馬車の中を並々ならぬ緊張が襲ったのは、ナオミが再び眠りに落ちたその時だった。馬車が急停止し、外から男が叫んだ。
「ドアを開けろ!!」
馬車の中で、聞いていたのは男一人だった。
「警察か...?なんだってこんな時に...。」
男は恐る恐るドアを開けた。
「どうされました。別にやましい者はこの馬車の中にはいませんよ。」
そう言って外を見渡した男は、目を見開いた。ここは、領主の敷地内なのである。