畜生
ローディ、と名付けられたその狸は、人間に飼われていた。
元々、ローディが生まれたばかりの頃にこの大富豪の家に連れてこられたのだが、それが退屈な日々の始まりだった。
「はい、ローディ。ごはんですよ。」
今まで何千何万回と聞いた言葉、不味そうな飯、食わねば心配する素振りで無理やり食わせようとしてくるので、食わないわけにはいかない。この毎日飯を持ってくる男は、クラウスという名前で、この豪邸の主である。ぼんやりとだが、子狸はこのクラウスという男がこの家のどの人間よりも偉いということを理解しており、さらに男が自分に近づくと物凄く弱い物を相手にするような話し方をするのが気に入らなかった。
今日は湯でものの残飯である。おそるおそる口を近づけて咀嚼すると、床に落としたのか砂が混じっている。人間が見たらへどがでるような食事であったが、ローディにとってはご馳走だった。
「よしよし。かわいいかわいいローディちゅわん。でへへへへ。でゅふふふふ。」
クラウスが子狸の腹を抱えるように撫でてきた。
男はローディを捕まえて頬ずりしたり、キスをしたりするのだが、それが子狸にはたまらなく嫌だった。まず、子狸の長い体毛に年老いた男の唾がついて臭くなる。もっと言えばこの男は力加減を全く分かっておらず、ローディの体が湾曲しようともお構いなしに強く抱きしめてくる。
ローディは飯の入っている皿から一歩引いて、クラウスの手の甲をひっかいた。
「いてぇっ!!全く。早く慣れてくれないかなぁ。」
一生慣れはしないだろう。最初の頃は逃れることができたのだが、段々とクラウスはローディが寝ている時や、飯を食っているときを狙うようになり、手に負えなくなってきたので、子狸は数回に一回、男の顔面をひっかいて逃げるようにしている。こうすることで、ロ子狸は丸二日の安寧を得ることができるのだ。
「この野郎。次は餌抜きだ。」
クラウスがローディから離れるとき、彼はケージに閉じ込め、大体一日餌を持ってこずに放置する。この子狸としては一食くらい抜かれても大したことはなく、今日もまたゆっくりできると、ケージの中で丸まって寝ていた。
とある朝、クラウスが飯を持ってくるだろうと待っていたが、昼になっても男はこなかった。ローディはさすがに空腹を感じてきた。この子狸は今まで物をねだったことがなく、それをすることは恥ずかしい事だと思っていた。
だが、それからさらに日が落ちるまで待っても、クラウスは飯を持ってこない。子狸はケージのある部屋で、静かに空腹に耐えるのみだった。
翌朝、鏡のように磨かれたドアノブが、鈍い金属音を立てて回った。とぐろを巻いて寝ていた子狸は、つい後ろ足の間に埋めていた顔を持ち上げ、ドアのほうに向き直った。
「おうおう、ローディちゃん。ご飯を待っていたのかな?」
これだけ酷い仕打ちをしたにも関わらず、クラウスは嬉しそうににやにや笑っている。
「お前のような薄汚い狸の世話をしてやれるのは、この世界で私だけなのだ。ほら、これを食え。」
デミグラスソースのたっぷりとかかったステーキが、子狸の前に置かれた。
「いつもは孤児の残飯だが、今日はほら、お前のためにステーキだ。」
子狸は生まれて初めてかぐ、たった今焼いたばかりの肉の匂いに興奮し、クラウスの言葉も無視して、ステーキに食らいつこうとした。
「ほらほら、待て待て。まずは私のキスを受けてからだよ。」
クラウスが皺のよった唇を近づけてきても、子狸は足をばたつかせるのみで、その行為自体を気にする余裕はないようだった。
「ほれ、いいぞ。」
クラウスが手を緩めると、ばたつかせた足の勢いのまま、子狸は肉に飛びついた。
しかし、肉は熱くてなかなか食べることができない。室温以上の食べ物というのもまた、ローディには生まれて初めてのものであった。仕方なくソースだけを舐めていたのだが、これが子狸にとっては塩気と酸味が強すぎた。それでも僅かに感じる肉汁の味のために子狸は必死でデミグラスソースを舐めた、ついにむせてしまった。
「あああああ???」
子狸は今まで聞いたことのないクラウスの声に一瞬固まった。次の瞬間、ぴしゃりと何かが皿の横を打った。
おそるおそる見上げると、クラウスが両手に掲げていたのは、馬用の鞭だった。
「俺の飯が食えねえのか。」
ローディは恐怖に固まり、四肢を震わせている。
「俺の飯が食えねえのかって言ってんだよ!!」
今度は鞭がさらに鈍い音を立てて、床板にめり込んだ。
「覚えとけ。」
クラウスが捨て台詞を吐いて部屋の外に出ると、子狸はようやく安心して肉にありつくことができた。
クラウスはその後、異様な優しさを見せては鞭で脅すということを数日周期で繰り返した。犬や鶏を目の前で捌いて見せたり、ローディをケージに閉じ込めて、目と鼻の先に置いた肉が腐るまで放置したりした。狸がストレスで嘔吐すれば、男はさらに激しく激昂するのだった。
ローディはやせ細ったまま不格好に体が大きくなったので、野良犬のような惨めな姿に育った。そしてそれが、主の虐待の激しさに油を注いだ。初めは顔をかすめるだけだった鞭も、ローディが大きくなるにつれて体をねらって直接当ててくるようになった。
あくる冬の朝だった。寒さに震えるローディの元に、クラウスは湯気の出るスープを持ってきた。この頃には既に、ローディは食べ物が焼きたてのステーキだろうと砂の混じったサラダだろうと、関係なく一定のスピードで食べる術を身に着けていた。
「ほら、ローディ。これを食べなさい」
狸はスープに舌を伸ばすと、そのスープは焼けるように熱かった。それもそのはず、そのスープは、上から熱した油をかけられていたのだ。沸点に達した水の温度は空気に触れれば一定の速度で下がってゆく。しかし、油の膜で蓋をされれば、その温度は沸点に限りなく近い状態で長時間保たれるのだ。
狸は固まった。今からクラウスの怒号とともに、鞭が飛んでくる。狸は頭を下げて、震えながらその声を待った。
心臓の鼓動が静寂を打つ。
このとき、クラウスの言葉よりも早く飛んできたのは、鞭のほうだった。狸の丸い頭は、硬い感触にはじかれ、下顎が床に斜めに叩きつけられた。灰を圧迫された狸は、ぐえっと鳴き声をあげた。
クラウスが何かわめいていたが、ローディの脳はその音を処理する力を失っていた。徐々に視界がぼやけ、狸は意識を失った。
珍しく人の笑い声が聞こえる。主の猫なで声を聞いたことはあっても、笑い声は聞いたことがなかった。狸は、クラウスに虐待を受ける以前から、基本的に畜生の飼われ方をしていた。ただ餌を食い、寝て、成長するのみであった。
だが今日は様子が違った。ローディは鉄格子越しに煌びやかな光を見た。
「おお!ローディちゃん。目が覚めたかな?」
光を遮って笑いかけてきたのは、クラウスだった。彼は普段と違う、ひらひらとした服を身にまとい、普段のにやけ面の数倍嬉しそうな顔をした。
「君は素晴らしい。君は才能があるんだ。」
ローディには当然、彼の言っていることがわからなかった。彼の笑顔が鉄格子を離れると、その向こう側には、親しげに話す、クラウスと同様の煌びやかな服を着た老若男女が楽しそうに話をしていた。
「あれが金の卵らしいわよ。」
「クラウスさん、どこであんな魔法の動物を手に入れたのかしら。」
「本物なのかしら。」
当然、ローディには理解ができない。見たこともない大きな部屋では、嗅いだことのない量の食べ物のにおいが充満していた。ローディは腹を空かせていた。自然と涎が垂れてくる。
しばらくすると、クラウスが再び嬉しそうに話しかけてきた。
「食いたいのか。もう一仕事終わったらたらふく食わせてやる。」
クラウスはそういうと、大勢に向かって声を張ってこう言った。
「さぁ、皆さん。今から金見せて差し上げましょう。これで私たちも永遠に億万長者でいられるのです。」
彼は檻を開け、紐につながれたローディを外に連れ出した。
「それではいきます!」
男は高揚した声で、叫んだ。右手には鞭を持っている。
「一、二、三、それっ!!」
男は、鞭を大きく振りかぶった。狸はそれを床から見ていた。
鞭は狸の首筋に命中した。狸は自分の首の骨が砕ける音を聞いた。
「あれ....?おかしいな。」
クラウスは狼狽を含む声を出し、有象無象はざわつき始めた。
「も、もう一度試してみましょう!
鈍い音を立てて、今度は狸の背中に鞭が当たる。ローディの背中は既に、体毛の上からでもわかるくらい腫れあがっていた。
「おかしいな。このっ、このっ!!」
クラウスその後も何度となくローディを叩いた。まるで母親に怒られた少女が、縫いぐるみに八つ当たりするような、一方的な光景だった。
ついに、ざわついていた部屋から、悲鳴が聞こえるようになった。ローディの背中や脇腹から、骨が露になってきていた。顔面の腫れはローディの両目をふさいだ。
クラウスはため息をついてから舌打ちをするとこう言った。
「し、仕方がありません。この狸はスープにしてしまいましょう。」そして彼は、さらに小さな声でローディに向かって、「クソが。恥かかせやがって。」と言い捨てたのであった。