冴子の入院。
最後にちょっとしんみりしますが、そこまではコミカルに進む冴子と遊里の日常になります。
ぱきっと本当に折れる音がした。
その音を聴いた瞬間、何が起こったかわからなかったけれどその場に崩れ落ちた。
見れば足が変な方向に曲がっていた。
痛いというより、非日常を見た事で感覚が麻痺していたのだろう。
でも、手をやらなくてよかったと思ったのは職業病だろうか。
「冴子~良かった!」
連絡を受けた遊里が私が入院した病院に夜やってきた、電話連絡は入れずにメールをいれておいた。
遊里は仕事中は携帯をOFFにしているのを知っていたのでメールなら、慌てずに読むだろうと思ったから。
電話だと何か緊急の事が起きたのかと思ってすぐ電話してきそうだし。(まあ、骨折は大変じゃないことでもなかったけど。)
「重い。」
足はつってるけど、お腹に体重をかけるのは止めて欲しい。
「もう、メール読んでびっくりしたわ! こんな大事なら電話して頂戴。」
「人が気を使ってメールにしたのに・・・」
「気を使うところが違うのよ、全く。もう冴子は家族と同じなんだからね。」
ぺしっと頭を叩く。
「痛い。」
「私の痛みよ、もうー骨折ですって?」
私だってしたくてしたわけじゃないのに。
おかげでコンサートの予定は、キャンセルじゃない。
出来なくはないけど、ギブスしてチェロ弾くのはちょっと見た目悪すぎ・・・。
頭、痛い。
初めてのキャンセル・・・幸いだったのがCDショップやらキャパの小さなステージのコンサートだったって事。
大きなヤツだったら私の演奏家生命すら危うくなっていた。
「遊里、興奮してないで明日着替えを持ってきて。あと入院費、事務所が出してくれたからあとで話しといて。」
「・・・・冴子。」
「何よ。」
「なんでもないわ。」
遊里は苦笑して、出て行った。
泊り込みは出来ないからとりあえず今日は帰るみたい。
病院なんて生まれて以来だった、意外にも怪我とか病気とかした事はなかったので来る機会がなかった。
入院も初めてで、もちろん足を吊るなんてことも初めて。
戸惑うのは他人と一緒の部屋だということくらい、骨折なので入院はそんなに必要はないと思うけど。
初めての事だらけで疲れた・・・今日はもう寝よう。
病院のベッドは結構、寝心地が良かった。
次の日、病室を移された。
後で聞くとどうやら遊里が病院と交渉したらしい、私の性格を慮って。
・・・そんなに私、独りで居たい!ってわがまま言わないわよ。
どこかの大物タレントじゃないんだから・・・もう。
午後から続々とお見舞いが来た、友人と呼べる演奏家、事務所のお偉いさん、ファン一同というものもあった。
私にもそんなものもあるのか(苦笑)。
嫌な見舞いも来た、雑誌記者。
どこに私が骨折した事を書いて、写真を載せるんだと思ったものだけど、表に出すと負けなので適当に答えておいた。
どうせ、私が言った事とは全然違うことを書かれるに違いないのだし。
写真を撮られるのは遊里だけにしてもらいたい、特に足を吊った情けない姿なのに。
また、面会ぎりぎりに遊里はやってきた。
仕事柄仕方がないことだと思う、私も始終会いたいと思ってるほどオトメでもないので気にしない。
着替えと洗面具、暇つぶしの本を持ってきた。
「これでいい?」
「上出来、あとMP3は?」
「あるわよ、ちゃんとアニソン700曲入り。」
「さすが、遊里。」
「ここまで来て、アニソンが多いの?と思わないでもないけど・・・」
「あら、アニソンは元気が出るのよ。特にロボットモノは熱血系はね。」
そういうところの趣味が私には分からない、ギャップがありすぎて。
「今度はチェロでアニソンでも出そうかしら?」
「・・・やめて、ファンが減るわよ。」
本気で考えていたんだけど、遊里は冗談だと思っているらしい。
実はこの人との付き合いが苦手な私が、水面下でアニソン好きな演奏家と親密に連絡を取り合ってあるCDを作ろうと考えていることを遊里も事務所も誰も知らない。
これが世に出たら遊里もびっくりするだろうし、業界の人たちもびっくりするだろうと思うとちょっと楽しい。
「もうちょっと居たいけど、時間みたいだから・・・」
遊里が椅子に座って座っていた時間は5分程度、色々持ってきてくれて整理していたらそれくらいになってしまったのだ。
「私は大丈夫よ、病院って居心地いいし。他はみんな看護婦さんがやってくれるし。」
「冴子が病院がいいって言うのが驚きだわ、てってきりもっと拒否反応示すと思ったのに。」
「どんな人間だと思ってるのよ、子供でもないのよ? いくら我がままだって言ったって。」
「ごめん、ごめん。」
立った遊里に手が握られる。
「また、来るわね。」
「毎日は来なくてもいいわよ、骨折だもの。遊里の顔を見たら直りが早くなるわけでもないし。」
「ひどい事と言うわねぇ。」
「・・・うそよ、忙しいんだから来られる日でいいわ。」
本当に忙しいんだから自分の時間まで割いてくれなくてもいい。
遊里が超人的な人間だってのは知ってるけど、仕事と病院を行ったり来たりは大変だろうし。
「涙が出るわ。」
「家に帰って休んで、私は病院で寝てるだけだから。」
「じゃ! また来るわ。」
遊里は敬礼をして出て行った、あの様子だとまた明日も来そう。
それはそれで嬉しいけれど。
「ぷっ、意外!」
毎日来ると言っていたのにも関わらず1週間半振りに病室にやってきた遊里は入るなりそう笑いながら言った。
私は憮然としながらも照れていたのだと思う。
遊里が来ない間に病室には子供が出入りして絵を描いたり、歌を歌ったりしていた。
もはや病室ではなく、娯楽室に近い。
気分転換に歩いて探検していたら何故か子供になつかれて今に至るのだ。
私だって予想外よ、こんなの。
それに病状が深刻でもないのでお医者さんも看護婦さんも何も言わなかった、それにもう少しで退院できそうだし。
「あの子供が嫌いな冴子がねぇー」
笑いつかれて目じりに涙をためながら言う。
「うるさいわよ、遊里。」
「だって・・・あの小日向冴子が、よ?! 子供嫌いで人嫌いな人間がどういう心境の変化なのよ。」
「用事が無いなら帰っていいわよ、別に遊里と会えなくても淋しくないし。」
「淋しかったの?」
ずいっと顔を寄せてくる遊里。
「・・・なわけないでしょ?」
子供がまだ居るのに、変なことしないでよ。
ベッドの上で絵を描いている、ひろ子ちゃん。
アニソンを歌いながら絵を描いている子の名前はひろ子ちゃんと言った。
「そうよね、これだけ子供がいたら楽しいわよね。しかもアニ友じゃない。」
「変な造語作らないで。」
「このお姉さん、いい人?」
遊里ってばひろ子ちゃんにへんなことを聞く。
「うん、お歌すごく上手♪」
「そうー、そうよね。」
意味あり気に言う、分かってるわよ言いたい事。
どうせ私は家でアニソンを聞いてるわよ。
「お絵かきはダメだけど。」
「ぶっ」
「遊里。」
肩を揺らして遊里は笑っている。
「どうしたの? お姉さん?」
ひろ子ちゃんが遊里を心配して声を掛けた。
「だ、大丈夫。」
ひーひ-いいながら笑いをこらえるのに必死。
「ほんとに?」
「大丈夫よ、しばらくしたら直るわ。それよりひろ子ちゃん、そろそろ病室に帰らないとダメなんじゃない?」
放っておこう、あとでマンションに帰ったらシメる!
「・・・うーん、あんまり帰りたくない。」
「どうして?」
「面白くないし、痛いし、苦いお薬飲まないといけないし。」
ひろ子ちゃんは私のベッドの上に乗って足をバタつかせる。
彼女が何の病気なのかは私は知らない、あまり深く立ち入りたくなかったので知る気はなかった。
けれどあまり良くはないというのはうすうす感じていた。
彼女は最近は痩せて咳き込む事が多くなった気がする。
「また明日いらっしゃい、このお姉さんがまた遊んでくれるからね。」
遊里が説得する。
「うん・・・。」
彼女は渋々遊里の言うことを聞いて自分の病室へ帰っていった。
残されたのはやり散らかした紙と筆記用具、それまで遊んでいた子供たちの気配。
「あまり深追いはしないほうがいいわよ、冴子。」
遊里は床に散らばった物を拾って片付け始める。
「寄ってくるものを邪険にできないでしょ。」
「オトナは邪険にするのにね。」
「子供を邪険にしたらひどいオトナじゃないの、オトナは別にオトナなんだから構わないじゃない。」
「オトナも構ってもらいたいのよ、ね。」
「遊里・・・ここ、病室。」
「わかってるわ。」
分かってないじゃない。
片づけが終わった遊里はベッドに身を乗り出して顔を寄せてきた。
「キスくらいはいいでしょ? あ、でも他もいけるかも。」
「まだ、着替えるのが大変なんだから止めて。」
私一人で着替えられないのに、変に勘ぐられるのは嫌。
「ひとりでしないの?」
「するわけないでしょう!」
ベシッ!
手の平でにやけた遊里の顔を押し返してやった、私は別にキスしたいわけじゃないし。
「ほんとに?」
「しつこいわよッ」
まだ足を踏ん張れないので遊里を簡単に押し返すことが出来ない。
抵抗も空しく、私はベットに倒された。
「・・・ちょっと! 誰か来たらどうするのよ!」
「大丈夫、大丈夫。」
「大丈夫なわけないでしょうがッ。」
キスじゃなくて遊里は唇を私の首筋に当ててきた。
「真面目に、やめて。」
両手を押さえられているので張り倒す事もできない。
「止めてもいいの?」
「今はそんな気分じゃないって言ってるのよ、遊里。」
これが家だったらこんなに抵抗なんかしないわよ。
「・・・惜しい。」
そう言いながら右手がパジャマ(入院衣)の間から滑り込んでくる。
「だ、か、ら~やめてって言ってるでしょうが。」
「なかなかスリルがあるんだけど。」
「・・・変態っ。」
「失礼な。」
ま、まずい、遊里の態度が・・・変に火を着けたみたい?
「まだ看護婦さん、来ないみたいだしね。」
にゃりと笑う遊里。
「~~~~!」
ああ、遊里がまずい方向に・・・今日ばかりは看護婦さんが早く回ってこないかと思った私だった。
病院から退院してしばらくは自宅養生。
私は仕事も完全に直ってから再開することにした、中途半端にやるのは私のプライドが許さないし。
毎日嫌いな牛乳を飲んだ成果、『驚異的だ!』とお医者さんに驚かれるほど直りが早かった。
私としたら動きずらいところを、遊里にいいようにされるのに我慢ならなかったので早く直してやろうという思いで頑張ったのだから当然だと思う。
遊里ときたら私が動けないのをいいことにあんなことや、こんなことをしまくりで・・・もう、信じられない。
しかも悪い事に後先考えないんだから。
大体私に会いに来ているのは遊里くらいなのに、朝無かったキスマークが夕方にあったらどう思われるか分かるでしょうに!
みんなあからさまな視線はくれなかったけど居たたまれなかったわ、まったく。
「おかえり♪ 冴子。」
じゃーんと言って遊里はテーブルの上にホールのケーキを置いた。
「上機嫌ね、遊里。」
はしゃぎっぷりは尋常じゃない、私が引くくらい。
「え、そう? 普通でしょ?」
金色の炭酸がシャンパングラスに注がれる。
「それで普通なの? 逆に気持が悪いんだけど・・・」
「気のせい、気のせい。」
サクサクケーキを切った。
ローソクとか乗せないの? 火つけて消さないの?
「そんなの、誕生日だけよ。あ、もしかしてしたかった? 冴子。」
「別にしたくないわよ。」
気になっただけで・・・コホン。
「病院で規則正しく食べたから太ったって言ったから、おかずを作らなかったからね。」
本当にケーキとシャンパンしかテーブルに乗ってない(笑)。
「シジミ汁くらいは欲しかったわ。」
フォークにケーキを取りながら私は言う。
シジミは私の活力だ、入院中は飲めなかったのでかなり恋しい。
「ケーキにシジミ汁、やってみる?」
「・・・あるの?」
「今はインスタントしかないけど。」
呆れたように遊里は笑った。
「やって。甘いのとしょっぱいの、意外と合うわよ。」
「悪食なんだから、まったく。」
はーっとため息をついて立ち上がる、なんだかんだ言っても彼女はいつも作ってくれた。
感謝・感謝。
「あ、アニソンかけていい?」
「ここで、アニソンなの!?」
キッチンの方で遊里が叫ぶ。
いいじゃない、クラシックの気分じゃないもの。
ふふふ、病院からの帰り道CDショップに寄ってアニソンCD買ったしね。
あやうく自分のCDを買い忘れるところだったけど(爆)。
やっぱり気兼ねなく聞ける家のほうがいいわね、テーブルに頭を置いてアニソンに浸る。
病院でも聞いていたけど、MP3だったし。
「行儀が悪い。」
「浸ってるの。」
「ねえ、冴子・・・ホントに、チェリストなの?」
さすがに今の私に面影もないので不安を覚えたのか遊里は確認してきた。
「失礼ね、これでも美貌のチェリスト・小日向冴子です。」
「自分で言わないわよ、普通。」
コツンとゲンコツひとつとともにあの匂いが私の鼻腔をくすぐった。
「シジミ・・・!」
「お待たせ、即席だけどね。」
「全然、全然。」
さっそく、起き上がって頂くことにした。
「んんんんんーーー!!」
一口飲むと感動が表現できず、唸るのみ。
そんな私を遊里は呆れて見てるけど気にしない、気にしない。
インスタントとはいえ、この独特のダシ。
鰹節にも昆布にも煮干にも出せないものよっ(力説)。
「そのこだわりと興味、こっちにも欲しいんだけどなあ。」
私の前に座り、頬杖をついた遊里。
「何よ、シジミ汁にヤキモチ?」
「マジ、ヤキモチです。」
「病院じゃ、散々したいことしてくれたわね。」
覚えてるわよ、嫌だって言ったのに。
「ダメだと言われると、つい・・・」
てへ。っと変な笑い方してるし、だまされないんだから。
「怒ってるのよ、私。」
「反撃したいのにできなかったからねえ、冴子。」
今度はにやにやと笑う。
「人が動けないのをいいことに、ホントにひどいわ。」
「萌なシチュエーションじゃない? 病院って。つい、ムラムラとね。」
「変態。」
「何がよ、人間の本能じゃない。」
「・・・本能を理性で抑えるのが人間でしょ?」
自分の思ってるように突き進むのは動物のすることだわ(呆)。
「まったく、口だけは達者なんだから。」
遊里はケーキに乗っていた果物をよける、ケーキ本体と果物を別々に食べるつもりらしい。
私は一緒に食べた方がいいと思うのに。
「食べる?」
「別に物欲しそうに見ていたわけじゃないわ。」
じっと見ていたから私が狙っているものと思ったらしい。
まだかなり残ってるのにわざわざ取り分けた物が欲しいわけないじゃないの。
「素直じゃないのは冴子の特徴よね、ほら、あーん。」
そう言い、私の口にケーキの方を持ってきた。
「だから、違うって言ってるでしょう。」
「いや、違うの反対。天邪鬼だもん、冴子。」
「しつこいわよ、遊里。」
カシン☆
フォーク同士がぶつかる、行儀は悪いけれど私が拒否したのだ。
「私は私の分を食べるわ、いらないのよ悪いけど。」
フォークはぎりぎりと音を立てる。
「ぬおうー、ケチっ。」
「何がケチよ、訳が分からないわ。」
こんな遊里は放っておいて、さっさと食べてしまおう。
久しぶりの自宅なのでゆっくり寝たいのだ。
「でも良かったわ、早く帰ってこれて。」
私に食べさせるのを諦めた遊里はしばらく何も言わずに私が食べているのを見ていた。
気付いていたけれどあえて無視していたらこのセリフ。
「遊里にイタズラされるのは嫌だったのよ。」
「ははは。」
「ははは、じゃない。」
「蹴られないからつい、ねぇ。」
足が動かないのがあんなに不便だなんて怪我をしなかったら気付かなかった。
身体を踏ん張れないし、バランスも取れない。
遊里にはいいようにされるしで、最悪。
「さびしかったのよ?」
「たかがちょっと帰ってこなかっただけでしょう? この間のイタリアへ行った時とは比べ物にはならないじゃない。」
「怪我をして病院と、仕事で海外は違うわよ、冴子。」
「怪我って言ったって骨折しただけなのに大げさね。」
「病院はあまり好きじゃないわ。」
「その割には、楽しんでいじめてくれたじゃないの。」
「そこのところ、強く言うわね・・・」
「怒っているのよ。」
少しだけど。
動けない私の自由を奪ってイタズラした事は腹立たしく思っていた。
「ゴメン。」
遊里は私の目の前で手を合わせる。
そんなあっさり許すのも微妙だけれど、二人きりしかいない空間でずっと引きずっているのもどうかと思う。
「まあ、いいわ。今度はちゃんとしたシジミ汁を作ってくれれば。」
シジミ汁で許そうかな、あっけないけど(笑)。
「真面目に好きよね、冴子。」
「遊里よりは、じゃないから安心して頂戴。」
「そうかなあ・・・私、シジミに負けてる気がするんだけど。」
フフフフ。
思わず笑ってしまった、確かにシジミの方が勝ってるかもしれないと思う。
「なによ、笑うことないでしょ。」
「シジミにヤキモチを焼く遊里も見てて楽しいわ。」
「なにおう。」
ひさびさに家のダイニングテーブルは主が揃って明るかった。
「もう。大丈夫ですね。」
レントゲン写真を見てドクターが言う。
「ありがとうございます。」
私はお礼を言って診察室を出た、これで晴れて完治のお墨付きをもらったので仕事が再開できる。
最初はこわごわ足をついていたけれど、最近は骨折をしていたのが嘘のように過ごしていたので大丈夫だろうとは思っていた。
「あ。」
さっそく帰ろうとして思い当たり、立ち止まる。
足は出口へは向かわずに売店へと向かった、チョコレートを買うためだった。
ひろこちゃん、居るかな。
私は売店で彼女の好物だというチョコレートを買って病室をたずねることにした。
ナースセンターだと色々あるので直に病室へ(苦笑)。
「702、702と・・・」
確か、部屋番号は702の大部屋。
扉が開いていたのでそっと覗く、何人かは起きていたり、面会の人と会っていたりする。
窓の方のベッドだった。
失礼します・・・と小声で言い、中に入る。
なるべく、目立たないように・・・と思ったのだけれどぐいっと服の袖を掴まれた。
「?!」
反動で後ろに引き戻される。
「あんた、ひさしぶりだねえ、直ったのかい?」
振り返るとにこにこ笑っているおばあさんが居た。
私は覚えてはいないけれど、おばあさん本人が私の事をそういうのだから初対面ではないのだろう。
痴呆症老人じゃないわよね・・・? 多少の不安はあるけれど。
「お、おかげさまで・・・」
面倒になるのは嫌だったので話を合わせる。
「自分の思うとおりに歩けないと、イライラするからね。良かったよ。」
「はい。」
足の事を知っているようなので痴呆症老人ではないようだ。
「あの・・・」
「ああ、そういえば知ってるかい? あんたに懐いていたひろこちゃん、亡くなっちゃったんだよ。」
「・・・えっ?」
まさか思ってもいなかった言葉に呆然となる。
確かに、私の退院時具合はあまりよさそうではなかったが、その時はまだ自由に歩きまわっていた。
震える手を押さえつける。
「まだ元気だったんだけどね、急にだよ。」
「急に、ですか?」
「3日前かね、あんなに元気だったのにねえ。あんたも気をつけなよ。」
おばあさんは私の背中を叩いて言ったけれど私はその時には既に意識は他にあり、身体は病室の出口へと向かっていた。
ショックが大きくて、私は何も考えられない。
ただ身体だけは機能的に動き、家までの帰路を的確に選ぶ。
今、声を掛けられても応えることは出来ないと思う。
混乱していて、気持ちの整理がつかず、相手の言っていることを理解するのも難しい状態だから。
ひろこちゃんが亡くなったなんて・・・。
こんなにショックを受けるのは久しぶりだった、子供が嫌いな私が彼女の死にショックを受けるなんて。
しかし、涙は不思議と出てはこなかった。
ぷっつり、と音が途切れる。
聞いていたレコードが終わったのではなく、途中で切られたのだ。
私は間を置いて顔を上げた、見れば遊里がいつの間にか帰って来ている。
時間は20時過ぎ、今日は早い方だった。
「何よ、暗い曲・・・それに珍しく出してるのねソレ。」
椅子に立てかけたままのチェロを指して遊里が言う。
「ちょっとね、この曲な気分なのよ今日は。」
「ハイドンのレクイエムが? ちょっと大丈夫なの?」
「少し凹み気味。」
遊里は歩いてきてイスに座っている私の額に手を当てる。
「熱は無いわよ。」
「じゃあ何よ、ご飯は食べたの?」
「いらない、しばらく断食する。」
「・・・はぁ?」
彼女は耳に抜けるような声を上げた。
「何言ってるのよ、それでなくても冴子は食べないのに断食って。」
「私の気持ちなの。」
ひとりよがりだけど。
赤の他人だけど、普通なら涙くらい出てもよさそうなのに涙が出ない自分への罰?
「何かあったの?」
質問を変えてきた。
「別に。」
「別に何も無くてこんな暗い冴子が出来上がるわけないじゃないの。」
遊里は私の目線まで腰を落とし、膝をつく。
「何があったの?」
まっすぐな視線を向けられて私は視線を逸らす。
「何も無いわ。」
「じゃあなぜ、目を逸らすかな。」
「それは・・・・」
「一緒に居るのは何のためよ、一人なら別にいいだろうけど二人で居るのよ? 心配事なら話し合うべきでしょ。」
「今回の事はあまり遊里には関係ないわ。」
「・・・そう言われるとつらいところだけど、冴子が落ち込んでいるのを見るのは忍びないから言うのよ。」
「・・・・・・・」
そう言われては態度を硬化させるわけにもいかない。
「チョコレート。」
「チョコレート? コレ?」
テーブルの上に封を開けていないチョコレートがある、私が今日病院の購買で買ったもの。
「今日は病院に行ってきたわ。」
「結果が良くなかったとか?」
「それはないわよ、手だったらこんな感じになるけど足だから。」
「じゃあ何なのよ、この暗さの原因は。」
「チョコレートが大好きだって言っていたから買って行ったのよ。」
「・・・・・」
「行くまではそこに居ないかもとは思いもしなかったわ、そこに居るものだと思ってた。」
ほんの気まぐれで。
いつもならそのまま何事も無く帰るはずなのに。
思い出してしまった、ひろこちゃんと大好きなチョコレート。
「私の半分も生きてないのよ。」
「・・・亡くなったの? ひろこちゃん。」
私は頷く。
「亡くなってしまったのも悲しいけれど、涙が出ない自分にも落ち込んでるの。」
「仕方ないわ、関わったのは数日だもの冴子が落ち込む事はないわ。」
遊里は立ち上がって私を抱きしめた。
「普通は泣くんでしょう?」
「喜怒哀楽は人それぞれよ、冴子。」
髪を優しく撫でられる。
「私は人と違うの?」
「違わないわ、悲しいと思った時点でそれは普通の感情だもの。」
遊里の言葉に私は救われる。
いつも彼女は私をともすれば自分の世界に引きこもりそうな時に引き出してくれた。
「だから、泣けなくても気にしなくてもいいのよ。」
言葉がすっと入り込んでくる、私は目をつぶり遊里に身体を預けた。