それぞれの死生観
死生観
神父
『生は神より受け賜わったモノであり、死によってまた神へと還る。還った魂は再びの生に向けて、休息に入る、その時記憶は無くなり、そんな安息から、苦痛を伴い、世に姿を現し、泣くのである。自らはここに生まれたのだと示す為に。そして様々な苦楽を経験しながら、笑顔で死を迎えるのは、周囲が泣いてくれる、惜しんでくれていると知れるからであり、過去に生まれた時の周囲の笑顔の分だけ朗らかに笑う必要があるのだと知れるからだ。だから命は粗末に出来ないのだ。』
芸術家
『生まれた時の我々は様々な素材である。石かも知れないし、粘土かもしれないし、キャンバスかも知れない。そんな素材を最終的にどうするかが我々には課されている、そのまま放置してもいいし、試行錯誤して作風を出すのもいい。完成にほど遠い未完の作品でも、人によっては美しく映るし、完成されたモノが美しいと言うわけでもない。彫るのも、捏ねるのも、書き足していくのも、人それぞれのペースがあり、どんな作品になるのか、本人にも分からない、だから死の時にどんな作品だったかが解る。』
ギャンブラー
『人間の生と死なんてものは、ギャンブルそのものだ。コインならば生と死の面があり、事在るごとにコイントスをして、生の面を出し続けているだけのこと。だから唐突に死の面を引き、唐突に逝くのだ。もしくはサイコロならば半々でで生と死の出目がある奴もいれば、5生1死、2生4死、1生5死の奴もいる。だが粘り強く生の面を出す奴もいれば、6分の1を引いちまう奴もいる。もしくはグラ賽を使ってでも生にしがみつこうとする奴もいるだろう。ルーレットでもいい、カードでも、いずれにせよ、勝ち続ける奴もいれば、あっさりと負ける者もいる。ただしどの勝負でもかかっているのは自身の命だと言う事を忘れることはしてはいけない。安くなった命程、勝ちが遠いのだから』
アスリート
『生と死は駆けっこに似ている。足の速い奴はゴールに進むのも早いし、遅い奴のゴールは遠い。もしくは個人で走れる距離が違うのだろう。フルマラソンな奴もいれば、ハーフマラソン、長距離、短距離と違うのだろう。そして何も自分の足だけとは限らない。車に乗ってゴールに行くかもしれないし、ロケットにしばりつけられゴールさせられるかもしれない。いずれにせよ、ゴールした時に、達成感があったか、気分良く走り抜けたと言えるかが重要なのだ。』