プロローグ
ある晴れた午後、古めかしい日本家屋で一つの悲鳴が上がった。その声はまだ幼いものだった。
この家の周りには他の民家はなく、隔離されたような場所になっている。そのため、毎日のように上がる悲鳴には誰一人気づく者はない。
この家に住んでいるのは、父親とその子どものみ。家自体は祖父母のものだったのだが、両方とも癌によってこの世を去った。子どもの母親は父親の暴力に耐え切れず、家を出ていってしまった。残された子どもは毎日受ける暴力に必死に耐えていた。
そしてそれは今日も起こる。悲鳴はその子供のものだ。
父親が子供を殴ろうと手を伸ばすが、子供はその手を避けた。
父親の周りには空になった酒のビンが何本も転がっている。子供はそのビンを避けながら必死に父親と距離を取ろうとした。
しかし、父親のほうが一歩早かった。服の襟をつかむと力任せに引き寄せ、自分のほうに向けられた小さな顔を平手で殴る。数度に及ぶその行為に、子供は抵抗すらしない。
子供は殴られた頬をそのままにし、父親の襟を掴んだ手が緩んだのを感じると、一目散に逃げていった。
その様子に父親は不気味な笑い声を上げる。そして、ゆっくりと子供が消えていった方向に歩いていった。
(どうしよう)
父親の手から何とか逃げることが出来たものの、どこへ逃げればいいのかわからない。
逃げている途中に聞こえた不気味な笑い声。その声がいつまでも耳から離れない。
子供はこの家に、自分が存在していいのかさえ考えるようになっていた。
一歩も外に出たことがない子供は、自ら外に出ようという考えはもてない。この家だけが自分の世界なのだ。だからこそ、逃げ場はない。
子供にとっては広い部屋でも、大人にとっては狭いとさえ感じる。そんな場所で逃げられる場所といえば限られている。
昔、母親と一緒に寝ていた寝室。その部屋に駆け込むと押入れの中に潜り込んだ。
息を殺し、何とか気配を気づかれないようじっと座っていた。小さな手をぎゅっと握り、小さな体をさらに縮込ませる。
助けを求めたくても誰に助けを求めればいいのかわからない。ただただ心の中で叫び続けるしかなかった。
すると不意に、自分の声に応える声を聞いた。しかし、直接自分の耳から入ってきた言葉ではない。不思議に思っていると、また同じ声がした。
―大丈夫?
それは自分と同じくらいの子供の声だった。その声は心の中から響いてきていた。
―どうしてそんなところに隠れるの?
(だって、ここしか思いつけなかったから……)
―外に出ればいい。そうすれば優しい人が助けてくれる
その声は自分を責めるわけでもなく、優しく語り掛けてくる。
外に出ればいい……。しかし、それをすることはこの子供には出来なかった。
無言で首を振ると、子供の声が微かに笑った。
―そうだよね。でもこのままでいいの?逃げたくない?
出来ることなら逃げ出したい。父親に殴られる日々を抜け出したい。
子供は静かに涙を流した。今まで堪えていた気持ちが、溢れ出したのだ。
この声に頷けばここから出ることができる。しかし、もう二度とこの家には戻れない。いい思い出があるわけでもないが、今まで自分の中心だったこの家を離れることはとても勇気のいるものだった。
どうするべきか悩んでいると、こちらに近づいてくる足音が聞こえてきた。
迷いのない足音は確実にこの押入れへと向かっている。
ここをあけないで。おねがいだから……。
そんな思いなどつゆ知らず、押入れの扉はなんの抵抗もせずに開いた。
目の前には無表情で立つ父親の姿。その姿には何の感情も見えない。しかし、子供と目が合うと、その表情は憎しみや怒り、そして快楽といった感情で醜く歪んだ。
それが限界だった。父親は自分に愛情などもってはいない。今捕まれば自分は死んでしまうだろう。
父親の手がこちらに伸ばされるのを見ながら、子供は感情を失っていこうとしていた。このままずっと辛い思いをするなら、いっそ自ら死んでしまおうと。そのとき、またあの声が聞こえてきた。今までと同じように静かに、しかしはっきりと。
―逃げないの?
そうだ、自分はまだ一人じゃなかった。ここで終わらせてはならない。
失いかけていた感情がまた戻ってきた。生きたい。
父親の手が自分に触れようとした瞬間、
「おねがい助けて。逃げたい!!」
勇気を出し声に出して叫ぶと、心の中からあの声がしっかりと頷いたのを感じた。
―わかった
その声を聞き、父親の手が自分の肩に触れた感触を感じたとき、一気に自分の意識が持っていかれるのを感じた。
自分の心の奥底まで引っ張られる。それと入れ違いに、先ほどの声の主が出ようとしていた。
意識を落とす瞬間、その子供が大丈夫だよと言うのが聞こえた。
自分の意識が自分の下へと帰ってくると、目の前には紺色の服を着た男の人たちがいた。
ここに来るまでの記憶はない。自分がどうやって父親の手から逃げ出し、ここに来たのかがわからなかった。しかし、足にはきちんと靴を履き、手には唯一の自分のもので大切だった人形が抱きかかえられている。
逃げられたのだ。その想いだけが体の中を満たしていた。
―大丈夫?
またあの声が聞こえてきた。この声の主が、自分を外へと連れ出してくれたのだ。
子供はしっかりと頷く。
(大丈夫だよ)
と心の声に応えると、心の声が嬉しそうに笑うのを聞いた。
初めて出た外は、きれいな青色で染まっていた。