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雨月物語  作者: 晶
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紫の瞳

 その男は、雨月うげつと名乗った。


 遠くに吉原の明かりが見える。耳を澄ますとざわめきさえも聞こえてきそうだ。

 紫陽しようはそっと障子を閉めた。

 そして小さく溜息をつき振り返る。

 広くない部屋の真ん中に敷かれた布団。

 そこに寝ているのはでっぷりと太った、お世辞にも美丈夫とは言えない男である。

 好いてもいない男とでも体を重ねる。それが場末の遊女である紫陽の仕事だ。

 吉原の遊女は、太夫になれば男を選べるという。それ以前に、吉原に来る男は良い家の坊ちゃんや商人たちだろう。紫陽のいる驟雨楼しゅううろうに来るような、吉原に通えるだけの金は無いが、そこらの農民よりかは金を持っている変にプライドが高い小金持ちではないはずだ。

 紫陽は自分の手首に目を落とす。

 両手首に赤くくっきりと浮かぶ跡。それは、目の前で寝ている男によってつけられたものだ。

 毎回毎回飽きない男だこと。女を縛って犯して……よっぽど支配したいのか。

 今度は盛大に溜息を吐き出す。

 その時、ふっと室内が陰った。

 振り向くと、閉めた障子越しでも見えていた月が隠されている。

 微かに雨の匂いが鼻につく。

 夜明けまでに止んでくれるといいけれど。傘をさして見送りなんて面倒臭いったらありゃしない。

 足元に泥は跳ねるし着物は濡れるし。

 なんてったって傘を返しにまたこの男が来るのがねぇ……

 そんな事を思っていると、ふと黒い影に気が付いた。

 庇の下にぶら下がる、雫の様な形をしたもの。

「珍しい。蝙蝠か」

 後ろから男の声がして、紫陽の細い肩に丸太の様な腕が乗る。

「まぁ、影だけでお分かりになるなんて博識なんですねぇ」

 一瞬浮かんだ嫌悪をさり気なく押し込め、紫陽はそっと腕に触れる。

 男は空いている方の手を無造作に障子に伸ばし、ガラリと躊躇なく開けた。

 そこには、通常よりも一回り大きな蝙蝠が、こちらに顔を向けてぶら下がっていた。

「早く閉めて下さいな。雨も降ってるし、何より入ってきたら嫌じゃないですか」

 男の腕から逃れ、紫陽が障子を閉めにかかる。

 その時、ふと蝙蝠と目が合った。紫色に光る目が紫陽を見つめる。

「紫陽」

 男に名を呼ばれ、慌てて振り返る。

「朧月に蝙蝠……何ともいい光景じゃないか」

 男の目に、情欲の色。

「もうすぐ夜明けが来ますよ」

 微笑み、着物の襟を引き寄せる。「今日はもう終わり」という意味。

 しかし、この男には伝わらなかった。

「何を言う。夜が明けたってかまうものか。金を出しているんだからな」

 手を伸ばし、紫陽の手首をつかむ。そのまま乱暴に布団へと突き飛ばす。

 紫陽が体勢を立て直す暇もなく、男がのしかかってくる。

「せめて障子を……」

 気付かれないように溜息をつき、開け放されたままの障子を指差し……目を見開いた。

 紫陽の表情の変化に気づいた男が背後を振り返る。

 開け放された障子。その桟に腰掛ける人影。

「誰だ?」

 男が紫陽から体を離し人影の方に向き直る。

 紫陽は人影を見つめたまま手を伸ばして明かりを点す。

 明かりが点った瞬間、その人影は眩しそうに手をかざした。

「お前は誰だ!?一体どこから入ってきた!?」

 唾を飛ばしながら激昂している男に対し、相手はかざしていた手を下すと気だるそうに口を開いた。

「名は雨月。少し雨宿りさせてもらおうと思ってね」

 そう言うと口元だけゆがめて笑む。

「ここは二階だぞ!?どうやって……いつの間にっ」

「もう少し小さな声で話してくれないか」

 雨月は大げさに両手で耳をふさぐ。

 その仕草が男の怒りに火を付けた。

「この野郎っ……!」

 腰掛けたままの雨月にどかどかと近寄り胸倉をつかみ上げる。

「ちょっと乱暴はやめて下さいませ」

 紫陽は慌てて二人に駆け寄る。揉めて、どちらかが流血でもすれば驟雨楼全体の問題にもなりかねない。

「うるさいっ!」

 男の腕の一振りで、紫陽の体は簡単に跳ね飛ばされてしまう。

「どうせこいつはお前の間夫まぶだろう!?二人で俺を嵌めようとでもしてたのか!?」

 紫陽にまで火の粉が飛ぶ。

 雨月が動じないので、男は紫陽に矛先を向ける。

「こんな場末の遊女がいっちょまえに間夫なんて持ちやがって」

 床に転がっていた紐を手に取り、両手でぴんと引っ張る。それは先ほどまで紫陽の自由を奪っていたもの。

「やっぱりお前にはこれが必要だな」

「自分にこそ必要なのでは?」

 いつの間にか雨月は、足音も無く男の後ろに立っていた。

「何だと……」

 男と雨月の目が合う。

 その途端、男はだらりと両手を下ろしふらふらと戸口に歩き出す。

 何が起こったのかと、紫陽は出ていく男の背を見る。

「家に帰りつくと綺麗さっぱり忘れているさ」

 視線を雨月に向ける。

 その視線に気づいた雨月は、髪をかき上げながらどっかと腰を下ろす。

 そして紫陽に目を向けるとあくびを一つ。

「今朝はここで過ごそうかな」

 そう言うと、畳の上に寝転がる。

「ちょっと、何を……」

 紫陽の抗議は、規則正しい寝息によって打ち消された。

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