#56 聴力
†優也side†
4月。
香帆さんと付き合うようになった俺は、締まりなく毎日にやにやしながら過ごしていた。
『香帆』と呼ぶようにしたのは、やっぱり少しでも年の差を埋めたいから。
でも呼び捨てにするようになってから、香帆がはにかむ回数が増えた。
前に自分の名前が嫌いだと言っていた香帆。
少しでも彼女のコンプレックスが軽くなったなら、嬉しい。
香帆……
香帆に会いたい。
昼間でも無性に会いたくなる。
彼女は新入社員の世話で忙しいみたぃで、店に来てもカウンターでこてんと眠ることが多い。
眠る香帆はたまらなく可愛くて、そんな彼女が俺の恋人だなんて、まだ信じられない。
客がいなくなったあと、必死でキスしたい衝動に堪え、片付けをする日々だ。
寝込みを襲う趣味はないし。
そんな矢先、俺がひそかに描いていた幸せな生活を揺るがすことが起こった……。
「……え……今言ったこと、本当ですか……?」
「…うん……。……………ほんの少しだけど、去年よりもまた聴力が落ちています」
春の健康診断。
聴力の診断だけは他の奴より細かいものをやってくれるようになっていた。
そして今日、大学の健康センターに呼ばれて、俺の診断をした医者に結果を聞いたのだ。
頭を鈍器で殴られたみたいだった。
しかし医者を前に黙り込むこともできず、なんとか声を搾り出す。
「……どのくらい、落ちてますか…?」
「いや、程度としては本当に少しだけなんだ。普通の人なら気付かないくらい。……ただ、少し低音が聞き取りづらくなってる……。……通院はしてるんだよね?」
「はい…月一で……」
「……毎年言うようだけど、君の病気は手術しないかぎり、良くなることはないんだ。徐々に、けど確実に聞こえなくなってくる」
「………音大生の君にこんなことを言うのは酷かもしれないが、もう一度主治医の先生と手術も含めて話し合ったほうがいい」
……手術………。
けど………
「………はい。……ありがとうございました…」
センターを出て、一人外のベンチに座る。
少し離れたところでは、学生が真剣に楽器を吹いたり発声をしていたりしていた。
それをぼんやり眺めながら、今言われたことを頭の中で反芻してみた。
『ほんの少しだけど、去年よりもまた聴力が落ちています』
『徐々に、けど確実に聞こえなくなってくる』
無意識にケータイを開く。
指で香帆の番号を出し、通話ボタンを押す直前に思い止まる。
………こんなこと、彼女に言ってどうする?
どうにもならないことなんだから、余計に彼女に心配をかけさせたくない。
…同情は、いらないから。
そこまで考えて、我に返って頭を振った。
「…俺………最低だ…」
何考えてんだよ、俺。
『同情』なんて、彼女がそんな風に思うはずがないのに。
あんなに心配してくれてる香帆に、こんなこと思うなんて…………。
頭を下げたまま、しばらく動けなかった。
こんなによく聞こえているこの楽器の音も、全く聞こえなくなる時がいつか来るのだろうか。
………彼女の声も、聞こえなくなる時が、いつか来るのだろうか………。




