#42 課題曲
†優也side†
香帆さんの家を出てから、俺はまっすぐ大学に向かった。
練習棟に行き、ちょうど開いていた練習室の鍵を借りる。
休日にもかかわらず、練習棟の中はフルートやらホルンやらの音で溢れかえっていた。
ピアノの置いてある練習室は棟の一番奥にあるため、廊下に立ててある譜面台やら楽器ケースやらを避けながら、なんとか部屋までたどり着いた。
『使用中』の札をかけ、中に入って鍵をあける。
そしてピアノの前まで行くと、ついさっき決まった課題曲の楽譜を立て掛けた。
モーツァルトのピアノ・ソナタ第17番KV570。
神童と呼ばれた彼の、数多いソナタの中の1つで、晩年に書かれた簡素で澄み渡った旋律が特徴の変ロ長調。
今までの彼の作品のような、華麗さや深さは影を潜め、彼がますます純粋な音楽の境地にあったことを示す作品だ。
…………香帆さんのお父さんがこの曲をよく弾いていた、と言っていた。
そんな大切な思い出の曲を、俺なんかが弾いていいんだろうか……
それに、『事故で亡くなった』とも。
前に泣いていたときの、『どこにもいかないで』の言葉。
あれは、お父さんが亡くなったときのことなのか……?
だとしたら、ますます俺でいいのか、なんて思ってしまう。
鍵盤に指を這わせ、穏やかに踊らせる。
指は穏やかに音を紡ぎだす。
それと同時に、絶対にお父さんには負けたくないと、そう思った。
やがて曲は、緩やかな第2楽章に入った。
香帆さんにこんなにも深く印象を刻みつけたこの曲。
その思い出を、今度は俺が塗り直したい。
俺の曲にしてやりたい。
そこまで考えて、ピタッと指を止めた。
……何だ、この気持ちは……?
なんか、体の奥の方がモヤモヤする。
言葉ではなんとも表せない、ムカムカというかイライラというか……。
香帆さんのお父さんとは面識だってないんだから、好き嫌いなんかあるはずもないし……。
誰もいない練習室で、深く溜め息をつく。
わけがわからない。
何なんだ……??




