#32 追憶
†優也side†
夕方、診察券を手に、病院へ向かう。
向かう道すがら、葵の言った言葉を頭の中で反芻する。
『一度、こっちに帰ってこないか』
無理だ。
過去の自分に、思いを馳せる。
昔、母さん……玲子さんは、子供をつくれない体質だった。
しかし大病院の次期院長のポストにいた父さんには、どうしても後継ぎが必要だった。
だから玲子さんは、父さんが愛人をつくるのも、黙認していた。
自分は、愛人であるドイツのバイオリニストと父の間に生まれた、正統な血筋でない子なのだ。
一応断るが、だからといって、俺がハーフなわけではない。
そのバイオリニストは、日本とドイツのハーフなんだそうで、つまりは俺はクォーターなのだ。
生まれてすぐ、俺は玲子さんに引き取られ、後継者として育てられた。
俺はそれから、実の母親である女性のことを、ただの音楽の先生だと思い込んでいた。
しかし2年後、長年の不妊治療が功を成し、父さんと玲子さんの間に子供ができた。
それが、葵だった。
玲子さんは2人を分け隔てなく育ててくれた。
だけど内心ではやっぱり、正妻である自分の子に病院を継がせたいと思っていた。
それを知ったのは、ちょうど中学三年の秋だったように思う。
ジュリアードを退学して日本の公立中学に入った俺は、音楽をやめて、いつか父さんの病院を継ぐことを夢みて、医学部を目指して猛勉強していた。
トップクラスの進学校にも安全圏だというとき、偶然それを話している玲子さんを見てしまった。
今から考えれば当たり前のことだし、むしろそれまで平等に扱ってくれたことが有り難いことなのだ。
だけどそれは今だからわかることで、当時の俺がそのとき受けたショックほど大きかったものは、後にも先にもないだろう。
それを知った瞬間、俺の中で何かが弾け、自分の存在を全否定されたような錯覚に陥った。
俺は音楽高校に進むことに決め、運よく受かった俺は、全てを葵に押し付けて家を出たのだった。
今はべつに玲子さんや葵を恨んだりなんてことはしていない。
ただ、一度折り合いが悪くなった関係を、正統な血筋の家族でもない俺から修復するのは、想像以上に重いものだった。
病院につく。
頭から過去の記憶を振り払い、気を引きしめて診察室に向かう。
春の大学での健康診断で、若干聴力に異常あり、と出た。
俺自身、以前と全く変わらない調子だと感じていたから、きっとそんなに悪くはないのだろう。
担当医も、一応音大生だという旨を伝えると、毎月来るように言ったが、べつにさほど気になるところはないのだろう。
いつも聴力検査をして、そのあとはしゃべって帰るだけだ。
40代くらいの医者で、一度店に来てくれたこともあった。
クラシックにも詳しくて、気さくな人だ。
そんな診察の時間が、俺にとって気楽な、でも貴重な時間だった。




