#31 葵
†優也side†
部屋の中に入り、電気もつけずに冷蔵庫に向かう。
この部屋は日当たりがいいから、電気なんかつけなくても昼間は暖かい。
さっきまで香帆さんがいたこの部屋も、彼女の存在を察知できなくなると、急に味気ないものになるらしい。
冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを飲みながら、ふとカレンダーに目をやる。
あ、今日は夕方に病院だった。
じゃああんまりピアノ弾けないな。
そんなことを思いながらピアノの蓋をあけ、課題曲の譜面を取り出す。
と、インターホンが鳴った。
インターホンが聞こえなかったときのために、誰かが来ると壁が青く点滅する。
そんな仕掛け、以前はただうっとうしいだけだったのに、最近よく役に立つ。
「………はい」
重い腰をあげ、玄関に向かう。
ドアを開けると、そこにいたのは………
「…………葵………」
「久しぶり、兄さん」
「へぇ〜、こんないい部屋に住んでんだ。これも父さんの金?」
ドアの向こうに立っていたのは、6年弱ぶりに会った、弟だった。
「…………何しにきたんだ」
「べつに、どうしてるかなって。あ、これグランドピアノじゃん!うわ、難しそうな楽譜だね〜」
「………おまえ、医大に受かったんだってな」
わざと話を変えた。
俺は、過去に俺自身がした行為に、多少なりと罪悪感を感じていて、あまり音楽にかかわる話題に触れたくなかった。
「まぁね。これで俺も、父さんの役に立てるよ」
葵は、俺が全てを押し付けて家を出たことを、まだ恨んでいるのだろうか。
朝とは打って変わって、何ともいえない気まずい空気が、部屋中に漂う。
「今日は、少し様子を見に来たんだ。一度、こっちに帰ってこないか?」
「帰らないと、何度も言ってるはずだ」
「わかってるって〜。ただ、父さんも母さんも、兄さんに会いたがってるよ」
「…………」
過去の記憶が、脳裏に蘇る。
俺が黙り込むと、葵はあきらめたように言った。
「まぁ、父さんの病院は俺が継ぐから、兄さんは音楽をやっていればいいよ」
「………わるいな」
「なんで?俺は全然苦じゃないよ。永久就職決定だしね!ま、また気が向いたら顔だしにくれば?」
「………あぁ、そうする」
俺の返事をきいて、じゃ、と言うと部屋を出ていった。
苦じゃない、か。
それは、葵の本心でもあり、偽りでもあるだろう。
俺が過去にした行為は、今も葵を拘束している。
俺の今の生活は、葵の自由を代償に成り立っているのだ。
「………………」
また人気のなくなったこの部屋。
自分に纏わり付く何かを振り払うように、無我夢中でピアノを叩いた。
休むことなく指を鍵盤に叩きつけた。
乱暴に弾くことで鬱憤を取り除こうとする俺は、あのときと少しも変わっていなかった。




