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moderato.  作者: 奏多
20/56

#20 昼下がりの一時

今回も引き続き優也視点です。

†優也side†



部屋に案内し、いそいそとキッチンに向かう。




こないだイギリスに行っていたピアノ科の友達に、旨い紅茶の茶葉をもらった。




いつもは俺しか飲まないやつだけど、あれなら香帆さんも気に入るかな。






紅茶をゆっくり差し出すと、香帆さんはおいしそうに飲んでくれた。




やっぱり、これ出してよかった。




「で、何の曲?」



本当はもっと彼女を見ていたかったけど、そういうわけにもいかない。




香帆さんは、俺のピアノを聴きに来たんだから。






香帆さんが言った曲は、音楽高校時代に弾いた。



あの時は課題として出されて、正直嫌な思い出しかない。




けど、香帆さんが好きって聞いた瞬間、俺にはこの曲がものすごく輝いてみえた。




ゲンキンだなぁ、俺(笑)




あのとき先生に言われて無理矢理つくって弾いてた表現も、香帆さんのためを思うと自然に体中から溢れてくる。







弾き終わり、香帆さんが褒めてくれたのに調子にのり、さらに今の課題曲まで弾いた。




ショパンもラヴェルもシューベルトも、どれも楽しくてしょうがない。




もしかしたら、香帆さんが聴いてくれたら、俺の技量も上がるかな。




なんて調子のいいことを思っていると、突然香帆さんが、俺の背中にもたれ掛かってきた。




俺の体内メトロノームは一気に二倍の速さで刻み、俺の体温バロメーターも目盛りを大幅に振り切った。




「か、香帆さん?」




突然のことに、俺は少し慌てる。




しかしそんな俺とは対照的に、香帆さんのか細い肩は細かく震えている。




「……どこにも、行かないで……」


「え?」


「遠くに、行かないで……」



消え入りそうに…しかしはっきりとそう聞こえた。




いつもクールで大人な香帆さんが、こんなこと言うなんて。




よくわからないけど、絶対に彼女から離れてはいけない気がした。




震える彼女を見て、不謹慎にもときめいてしまった。




大人の男ならこういうとき、どうするんだろう。



こんな香帆さんを見ても、ただ声をかけることしかできない自分が情けない。




「……行かない」



香帆さんが望まないかぎり、それはありえない。




そう強く思った。

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