#18 背中
静かに弾き切った優也は、ゆっくり手を下ろして振り向いた。
「………どうでした?」
演奏はあんなに堂々としてたくせに、少し不安げな顔つきで私を見る。
立ち上がり、ピアノのほうへ歩み寄る。
「……すごく、感情移入した。………感動した」
「小泉かっ!(笑)」
茶化す中に、安堵の表情が垣間見えた。
「……何でこの曲?」
「……………内緒」
「え〜っ!何だよ〜(笑)」
さっきまでの真剣な瞳は消え、またいつもの温かい目で笑う。
安心する。
「あ、じゃあついでに、今の課題曲聞いてもらえますか?人に聞いてもらえって、先生に言われてるから」
「?もちろん。…私でよければ」
「ありがと」
本棚まで行き、さっと何冊かの楽譜を取り出す。
「じゃあ、まずは技術のやつ」
手をピアノに叩き下ろした瞬間から、私は呆気にとられた。
さっきとは打って変わって、激しい音の波。
鍵盤の上を指が踊り、そして生み出されるうねりが、部屋を覆う。
あっという間に弾き終わった。
「……す……」
すごすぎる。これが本当に、学生の課題曲なんだろうか。
「………何て曲?」
「え?えー、ショパンのエチュードOp.10-4だね」
ありえない。
素人の私でもわかる。
ただの音大生じゃない。
何でこんな彼が、プロじゃないんだろう……
「まだ、全然なんだけど…。俺、速いの苦手で」
「他にもあるの?」
「…………聞かせられる出来じゃないけど、あとは―――…」
それから、私は優也が生み出すピアノの波に、しばらく酔っていた。
ラヴェルの《水の戯れ》
シューベルトの《ピアノソナタ第16番D.845》
彼の表現力に、驚いた。
技術はもちろん、様々な曲調を捉え、感じたままに表現する能力。
あの学園祭のときと同じように、急に彼が遠い人に思えた。
衝動的に、彼の背中に顔を埋める。
「か、香帆さん?」
演奏が止まり、慌てた優也が振り向いて顔を覗き込もうとした。
「ど、どうしたんですか?何か嫌なことでも……」
「……どこにも、行かないで…」
「え?」
「遠くに、行かないで…」
思ったことがそのまま口から零れ落ちる。
こんな弱いところ、他人に見せるなんて………
そう思っても、言葉はとめどなく出てくる。
「……行かない。……ずっと近くに、います。……だから、好きなだけいてください」
彼の鼓動が速くなったのがわかった。
突然こんなこと言うなんて、どうかしてる。
だけど、こんな私を優しく受け止めてくれる優也。
そんな彼の背中が、妙に心地よかった。




