#17 至福の午後
「どうぞ〜」
通してもらった部屋は、予想を裏切らない素晴らしい部屋だった。
部屋の真ん中にはグランドピアノと、楽譜が詰め込まれた大きい本棚が置かれている。
棚にはオーケストラのDVDやLD、CDが所狭しと並び、指揮棒が数本たてられている。
よく見ると、楽譜棚は6割方スコア(総譜)で占められている。
どちらかというと、ピアノ科の学生というより…指揮者志望の人の部屋…………?
「ここ座ってください。コーヒーか紅茶、どっちがいいですか?」
キッチンから楽しげな声がきこえてくる。
慌てて振り向き、なるべく不自然にならないように声をあげた。
「紅茶くれる?」
目の前のガラス製のローテーブルに置かれた紅茶は、高価そうなカップの中で、美味しそうに湯気をたてていた。
一口だけ口に含んだ瞬間、ほんのり甘い味が口いっぱいに広がる。
「おいしい」
「でしょ?これ、大学の友達のお土産。イギリス本場の茶葉だから、すっげー旨くて、絶対香帆さん気に入ると思ったんだ」
てっきり、優也が取り寄せたのかと思った。
「で、何の曲?」
完全に紅茶に酔ってた私は、当初の目的を忘れ去っていた。
「あ、うん。……モーツァルトなんだけど………ピアノソナタの、第8番」
あらためて口にすると、なんか自分がとても恥ずかしいお願いをしてる気がして、妙に早口になる。
「こんなの、音大生に頼むなんて、間違ってるかもしれないけど……っ」
「ううん。前に弾いたことあるけど、すごくいい曲だよね」
そう言うと、カップを置いて立ち上がり、楽譜の入った本棚に向かう。
大量の楽譜の背表紙を指でなぞり、一冊の譜面を見つけだす。
「モーツァルト作曲ピアノソナタ第8番KV310……あってる?」
「う、うん、たしかそんなカンジ……」
「俺、第二楽章が好きなんだ」
「私も!」
ピアノの蓋を開け、楽譜を開く。
大量の書き込みが現れる。
かなり練習してるんだ………。
「……やべ。演奏会より緊張する(笑)」
照れ笑いを浮かべながらピアノの方を向くと、さっと真剣な目になった。
そして、ゆっくりと奏で出す。
ゆったりとした旋律で、どこか切なげに始まり、優しげに部屋に響き渡る。
軽やかで、キラキラしていて、昼下がりの暖かい光が差し込んだこの空間に、ものすごく合っていた。
優也の真剣な瞳と、優しい音色を奏でる大きな手を見ていると、妙に温かい気持ちになった。
やがて曲調は切なく暗くなり、急に気持ちがざわめき出す。
しかしすぐに復調し、また軽やかに流れだす。
風に揺れるカーテンの影が床に映し出され、ゆったりとした雰囲気を造りだす。
私は、ゆっくり瞼を閉じ、しばらくこの至福の空間に、身を委ねることにした。




