盲霞~昭和不思議譚 其之弐~
内容にごく軽く、少女性愛描写を含みます。
また、現代では差別とも取られる可能性がある表現が出て参りますので、ご注意ください。
──此処から、どうしても出られないのです。
余りにも儚げに微笑うものだから、田安亮はてっきり、娘が不治の病にでも侵されているのかと当初は思っていた。
或いは、と訊いた事がある。
「生まれつきお身体が弱くていなさるのですか?」
「いいえ。そういう意味ではありません」
病でもなく、しようと思えば自由に外出も出来ると彼女は答えた。それでも自らを『囚われの身である』と言って憚らない。
庭師としてこの邸に入って数日、初日からもの珍しげに話しかけられたのが縁で少しずつ会話は増えていったが、世間話以外の話は初めてだった。
もし他の使用人に見咎められでもすれば、雇われ庭師が何を怠慢なと叱られるだろう。幸いなのか此処はいつも人があまり、否、皆目出入りしていないのだが。
とはいえやはり長居をするわけにもいかず、適当に濁して彼は持ち場へと戻ろうとした。
昭和に入って七年、帝都東京に江戸の名残がかなり薄れたこのご時世。
諸事欧米に右倣えで洋風化が進む中、此処の様に大名屋敷を買い取って改築したという古風な日本家屋は珍しい。如何にも風流らしい書院造の内装、娘の部屋には畳にそれこそ、大名かと見紛う豪奢な錦床が延べられている。
上掛けを跳ねた状態の敷布の上に、しとやかに正座してこちらを見る娘は十八か九。天井から吊っている蚊帳は年代物に見えた。葵、唐松草、空木などの夏草の透かし染めのゆかしさにも、引けを取らない臈たけた美人だ。
「待ってください」
縁側に腰だけ借りていたはずなのに、腕をひしと掴まれて亮は驚いた。振り向くと娘の思いつめた様な双眸にまともにぶつかり、更に驚かされる。
「この蚊帳が原因なのです。わたくし達今枝の家の者は誰一人、どういうわけかこれを始末する事が出来ません。ですが外の貴方なら」
「それは、どう──」
「伯父から話を伺いました。よろず何事も解決してくださる、頼もしいお方だと」
助けて頂けませんか。
伯父とはこの邸の主人の、今枝子爵の事だろう。半ば夢見がちな女の妄想と片付けようとしていた亮だったが、娘の色を失くした顔に浮かんだ恐怖は演技とはとても思えず、気の毒になり断る時機を完全に逸した。
──厄介ごとの予感だ。
「……俺ごときに出来るのは、話を聞いて頷く位で」
「ではそれでも構いません」
しまった、と亮は思った。婉曲に断るどころか、聞いてしまえばきっと。
「この蚊帳は、祖母円華の形見の品でした。元々は蔵の奥に仕舞われて、いずれは寺などで供養してもらう筈だったのですが」
嗚呼、やはり込み入った話に違いない。
優美な中にも奇妙に艶のある声で娘が話し始めた。視界の端で、何か動いた様な気がして亮は眼を流す。
何もない。ただ骨董めいた調度品があるだけだ。
──蚊帳か……?
図柄の夏草が、今動かなかっただろうか。
「田安さん?」
「あ、いえ」
気のせいだと、激しく瞬きをしてもう一度凝視してみるも、やはり部屋の中に異状は見受けられない。当然だ。今日は風もないのだし、娘も中にはいないのだから。
「蚊帳が、気になるのでございましょう」
耳元で聞こえた震える声に、視線を戻して彼はぎょっとした。
傍らにいたはずの娘が、消えうせていたからだ。
「仕方がないのです」
間髪を置かず、奥から娘の声が続く。首を慌しく巡らすと、蚊帳の中にうっすらと姿が映った。
──いつの間に。
娘が入って蚊帳を閉じたのを、亮は見ていない。
と同時に、何かが焦げる様な異臭がした。
「この蚊帳は意志を持っております。──ある男の執念が、死して今も尚祟り続けているのです」
※※※※
今枝家の子弟の中にただ一人の娘だった円華は、淑女らしからぬ好奇心と気勝りの持ち主で、十を越してもよくぶらりと近くの地所内を散策に出掛けたという。
明治に入って行われた廃藩置県や地租改正は、領主から領地を奪う『解体』を是としていた。それに伴い幾分目減りを余儀なくされたものの、実質支配力は依然として衰えず、当時今枝の資産はまだまだ大層なものであったらしい。
ともあれ近隣の山河は全て、この一族の所有だった。本邸は江戸の世からそのまま領地にあり、周りは山や渓谷に囲まれている。近くに滝壺などもあったせいか、邸はいつもどことなく水の香りがした。滝壺を眺めに行くと、草木の瑞々しいそれと相俟った独特のものになる。円華はほぼ一日を、其処で過ごすのに費やしていた。
同い年の遊び相手もなく、兄達は既に中等学校に通う身。更に家庭教師は退屈な婦女子の躾ばかり、蝶よ花よと育てられた娘には苦痛以外の何者でもない。邸をこっそりと飛び出すまでは首尾良いが、必ず程なく使用人に発見される。その度に家人の叱責を頂戴するところまで、最早日課となりつつあった。
いくら叱られても仕置きされても、円華に山通いを止める気は毛頭なかった。清涼に流れる滝の麓、底が見える清水に着物の裾を捲り上げて、足を浸す気持ち良さが俗物たる父にはわからないのだと諦めてもいた。はしたないと諫めていた乳母やも、今では理解してくれているのに──実際は父親である今枝泰邦が、いずれは娘を都会に連れて行くと家人に宣言した為だった。都会に行けば然るべき格式高い家に嫁がされ、山どころか言葉一つも儘になるまい。乳母は少女を不憫に思った。使用人達の配慮など露知らぬ当の本人は、少なくとも此処よりは刺激に満ちた生活が待っているに違いないと、よく知らない都会に漠然とした憧れを抱いていたのだが。
ところが円華が十二の歳の春、帝都での生活を待たずして、日常の激変が訪れた。
いつもの山歩き、一休みして滝壺に足を浸していると、決まって誰かが向かい側の林の中からこちらを見ているのである。
──付近の猟師かしら。
だが猟師ならば人間とわかれば捨て置くか、「危ないから」と忠告ぐらいするだろう。なぜずっと、仕事もせずに半刻以上もこちらを見ているのか。
疑問に思って見返していると、男の身体が動いた。
何とはなしに不気味になって、水面から脚を引き抜き手拭で水を取り去る。下駄を履いて立ち上がり、踵を返した所で使用人が追いついた。
「お嬢様! またこのような場所においでになって──」
「きえ。あの者を知っていて? 向こうの林にいる」
男の姿を再び見る気にならなくて、言葉だけで問う。下女のきえは目をすがめて遠くを窺ってから「誰もいませんよ」と怪訝そうに答えた。
「そんなはずは」
慌てて振り返ると確かに、木々の合間に人の影すらない。
──狐狸の類を見間違えたのだろうか。
最初はそう思った。そうではないと気づくまで、さほど時間は掛からなかった。
男は毎日水辺に現れ、円華もまた散策を止めようとはしなかったからである。
生来の勝気さが、ただこちらを見ているだけの何処の馬の骨ともわからぬ相手に怯んでなるものかと彼女を奮い立たせた。それが全ての間違いの始まりになるとは知らずに。
無言の邂逅が続いてひと月、何時になく厳しく出歩きを叱られて一日外出を止められた翌日。
いつもの場所に来た円華は、男の様子に変化を感じた。以前はもっと遠巻きだった筈なのに、顔がわかるまでに近付いて来ている。最近慣れて気にしなくなっていた視線も、今日は酷く苛立たしかった。
父へ感じていた怒りは未だ冷めておらず、その鬱積を儘、彼女は男にぶつけた。
「貴方は何者? 何故毎日此処に来るの? 此処は私のお気に入りの場所なのよ」
すると男は去るどころかおずおずと近づき、水辺を伝って円華のすぐ傍までやってきて、止まった。
付近の農家の息子だろうか。綴れ織に股引、余り擦り切れていない様子から漠然と名主の家の者かと想像する。浅黒い顔に痘痕は日に焼けて当たり前としても、両眼に浮かぶ、燃える様な強い気配が円華はどうしても好ましく思えなかった。寒気すら覚えた。
「何か言いなさい。お前は誰」
『貴方』から『お前』に変わっても、男は頓着する風もなくただ暫く円華を見つめていた。
「何なの! 人を呼びますよ!?」
恐怖を感じて後じさったその時、木の根らしきものに躓いて彼女は後ろに重心を取られた。
「ひっ──」
「お嬢様!」
始めて、男が口を利いた。どうやら助けようと伸ばしたらしい手は間に合わず、円華は盛大に地面に尻をつく羽目となった。転んだ拍子に下駄も脱げて、少し離れた場所に転がった。
「痛……」
「何処か、お怪我はありませんか」
空を切った手を下ろして、男は膝を付き目線を合わせて来る。
「お前は私を知っているの?」
「存じております。子爵様のお嬢様の円華様でございましょう」
草履を広い上げて、彼はむき出しになった円華の白い踵に手を掛ける。
「やめなさい、それぐらい自分でやれます──」
男の指が膚に触れた途端、声が震えた。
丁寧に、過ぎる程にゆっくりと、鼻緒に指を通して履かせる。
「……手前はずっと、存じておりました。真逆こうしてお傍に寄れるとは思いませなんだ……」
何が起こったのか、すぐには理解出来なかった。ごわついた布の様なものが、爪先に触れる。
次いで訪れた、生温かく湿った感触に彼女は悲鳴を上げた。男の唇が、自分の足の指を口に含んでいる事にようやく気づいたのだった。
勢い良く脚を蹴り上げれば、ふりほどけたはずだった。なのに身体は硬直したまま、罵倒の言葉さえ出てこない。
抵抗されないのに勢いづいたのか、男の唇は執拗に白い、仄かに桜色に色づく指を舐め続けた。やがて指から、足の甲へと。接吻を繰り返しながら、徐々に上へと上って来る。
──このままでは。
脚に掛かる息が、ねぶる唇の動きが激しくなるのがわかって、円華は漸く自失から返った。
先に何が起きるのか、十を過ぎたばかりの子供に知る由もない。けれど本能で、今逃げなくては酷く嫌な事が待っていると直感した。
「嗚呼、お嬢様──」
顔をふと上げて、男が円華の上半身に視線を──恐らくは次なる段階に進もうと脚から注意を──移したその瞬間。
今度こそ脚を力いっぱい蹴り上げて、円華は男の鳩尾の辺りを打った。
「ぐうっ……!」
よろめいて倒れそうになる身体の下敷きになる前に、手を重心に脚を引き抜き、体勢を立て直す。
円華は脱兎の如く走り出した。
きえ達の目を盗んで、こっそり家を抜け出した己を悔いても後の祭りだ。
──それでもきっと、もう気づいているはずだ。皆で私を探しているに違いない。
しかし無我夢中で咄嗟に走り出した為、気づけば元来た道をかなり逸れてしまっていた。どうすれば合流出来るのかもわからなくなる程に。
こちらか、と滝の音を頼りに茂みを抜けると、いきなり切り立った崖の様な場所に出てしまった。
「お嬢様……!!」
背後から男の声がする。──万事休すだ。
「何故、お逃げになるのですか」
「こちらに来ないで!!」
「……今更、拒むのですか」
男は力のない足取りで、それでも着実に距離を詰めて来る。
「なら、どうして毎日此処にいらしたのです。貴方が一度きりで姿を見せなければ──さっきだって、近づく前にお逃げになれば良かったのに」
調子の外れた哀しげな声も、円華の恐怖を煽るものでしかなかった。いつの間にか背後にはもうほとんど後退する余裕がなくなっている。何かこの局面を打破する方法はないか、彼女は地に視線を這わせた。転がっているのは木の枝や、小さな石ぐらいだった。武器にはとてもなりそうもない。
途方に暮れた内心に任せて怒鳴る。
「お前、狂っているわ。お父様に言いつけてやるから! 此処で暮らせなくしてやる!!」
「──貴方に触れる事さえなければ、俺だって!!」
いきなり声の調子が激しくなったかと思うと、男は彼女に向かって飛び掛かり、避ける間もなく小さな身体を抱きすくめた。絶叫する唇を、右手で押さえる。足掻くと口に、土と塩の味が入り込んできた。
──吐き気がする。
「……もう、引き返せないのです。これも、何かのお引き合わせだとお思いください」
再び地面に押し倒されては堪らないと、円華は思い切り男の掌に歯を立てた。拘束が緩んだ隙に、右手に掴んだ木の枝を振り下ろす。今度は男が絶叫した。
全くの偶然ではあったが、片目に命中したのだった。
視界を半分奪われた上に激痛であろうに、まだ見える片目で円華を求めて片手を伸ばして来る。震える手足に焦りながらそれを躱し、崖の縁から身を引き戻した。
「あっ」
円華は思わず声を上げた。身体の均衡を失った男が、崖から足を踏み外してしまったのだ。恐ろしい程の速さで視界から消えていく。無事な方の目を見開き、反対側のそれから流れ出た血が顔を紅く染めていた。
余りに非現実的な光景に、呆然として悲鳴も出ない。崖の下は滝壺に繋がる渓流だ。岩肌もところどころ出ているが、深さなどはわからなかった。
遠くから自分の名を呼ぶきえの声に、彼女はもう何も考えず其処を走り去った。落ちたらどうなるか、などと想像をするのも拒んだ。
「お嬢様、どちらにいらしたんですか! どれだけ皆が心配してお探し申し上げたか」
言葉の通り、探しに来たのはきえ一人だけではなかった。背後に引き連れた数人の使用人達、もし誰か一人にでも崖の下を見られでもしたらと、急いで下山を促した。
──もう、あそこには行かない。
それきり円華は男の事を忘れる様に努めた。罪の意識ごと、忌むべき記憶を葬り去って楽になりたかったからだ。父親の言われるが儘に上京し、教養を身に付け、連れられて社交の場にも顔を出す様にした。東京の華やかさや目まぐるしく変わる街並みが、彼女には救いとなった。都会見物に習い事、美しい少女は妍好たる女性へと成長していった。
爾来何事もなく過ぎた七年は、彼女にとって人生の春そのものだった。
父泰邦が職務の最中に負った怪我が元で、全てが瓦解するまでの短い間ではあったが。
近代医療を疎む彼は疼痛の治療の為にと、人伝に評判の良い按摩師をわざわざ邸に呼び寄せた。最初邸にやって来た客人の姿を見た時、円華は己の眼を疑った。
──あの男にそっくりだ。
背格好も様子も声も、酷似している。両眼に黒い眼帯をしていて、彼女が恐れた薄気味悪い眼差しはない。顔立ちもよくわからない、それでも似ていた。
「この眼帯でございますか。昔負った傷が消えませんで、お客様が恐がるといけませんからね。こうして隠しております」
見えてなどいないはずなのに、按摩は真っ直ぐ円華の方を向いて話した。杖を突き、中庭に佇んでいる姿が、まるで『あの日』と同じだ。縁側を開け放していた事を彼女は悔いた。
「……父の部屋は、向こうです」
「本日の治療はもう終わりました。是非お嬢様にお話しておきたい事がございましてね」
「人を呼びますよ。お帰りなさい」
「呼んでもよろしいのですか?」
顔色が変わった円華に按摩は嘲笑を浮かべた。自らの眼帯を外す。
引きつれた無残な傷が、両の瞼を綴じる様にくっきりと見えた。いつでも血を流せるのではないかという程に鮮明に。
「どうやら、覚えていてくださった様ですね」
あたしは七年の間、一日たりともお嬢様を忘れた事などありませんでした。この傷のおかげで──
昏い笑みが粘り気の強い毒となって、封印した筈の彼女の記憶を鮮明に呼び覚ます。
「……嘘よ」
「嘘なものですか」
「だってそんな傷、おかしいわ! 私はあの時──」
「あの時、何ですか? “片目だけを突いたのだから”?」
円華は答えられなかった。
「語るに落ちる、とはこの事でございますね……確かに貴方に直接付けられたのは左の眼のみでございますが、あの後をお忘れですか。崖から落ち、岩肌に叩き付けられました。流され里人に発見された頃には、それはもう全身傷だらけとなっておりましたよ。生命を長らえたのが不思議な位に」
微動だにしない娘に向かって、男はむしろ何処か恍惚として話続ける。
幸いにして彼は今枝の領内をまとめる地主の息子だったので、両親は傷の治療の為に金を使ってくれた。だが眼だけはどうにもならず、最早野良仕事は到底出来ない身体となってしまった。総領息子が、途端に一族の厄介者となってしまったのである。
しかし何より彼を失望させたのは、円華が上京した事だった。東京と此処では、もう生きて逢う事は叶うまいと悲嘆に暮れた。例えこの身が五体満足であったとしても、それでは何の甲斐もない。
治療にも意欲を失くしていた彼に希望が射したのは、施術にやって来た按摩の話のお陰だった。評判が良いと聞こえただけあって客層の広い按摩は、子爵の治療をした事もあると自慢した。薬だの手術だのを嫌う為、湯治や按摩や灸だのと、昔ながらの遣り方を好むのだと。
これは活路と、男は按摩に弟子入りを志願した。一通り学んだ後、両親に東京に行くと旅費をせがむと父親は烈火の如く怒った。挙句勘当を宣言されたが、彼には最早どうでも良い事だった。怒りに任せて畳にばらまかれた金子しか、眼に入らなかったのである。
「しかしながら、広い東京の事。そうそう都合よく子爵様に雇われる道理もありませんからね……。正に奇跡でございますよ。光を奪われ、斯様な醜い姿になったのも、今日となっては天の計らいにさえ思えます。こうしてお嬢様に再びお会い出来たのですから」
「……お願い、帰って」
按摩は笑みを浮かべたまま答えない。
円華はその場に両手を付いて土下座した。
「私が悪かったわ。後生ですから、この通り、堪忍してください!」
「まァお嬢様、頭をお上げになって下さいまし」
畳に伏した身に、振動が伝わって来る。円華が思わず顔を上げた時は、按摩は既に部屋に上がり込んでいた。
「責める為に此処に参ったのではございませんよ」
両の手を取っていとおしそうに頬に押し当てる、その仕草に円華は全てをようやく理解した。否、当初から寡なかった選択肢が一つになってしまった事に今更気付いた。
──此処に人を呼んだら、どうなる。
嫁入り前の娘が、見知らぬ男を座敷に上げ──しかもこの為体。仔細を問わぬ者があろうか。
どちらに転んでも、罪は暴かれる。恐らくは監獄に送られてしまうに違いないと。
円華は己の操を守る為に自害するという最後の決断が、この時はどうしても出来なかった。華やかなものばかり観てきた身に、死は余りにも縁遠い苦しみに思えたのだった。
「あの頃より、一段とお美しくおなりですねえ……」
盲人とは思えない確かさで男が障子を閉める音がする。それが彼女には一切の退路を断たれる音にも聞こえた。
まるで七年の月日が全て夢で、今現実の扉が開いたかの様に。
※※※※
亮は薄布を隔てた向こうから淡々と聞こえる問わず語りを、固唾を呑んで見守っていた。
「……祖母は、日に日に弱っていきました」
泰邦の治療の為に通う合間、人目を盗んで──円華自身にも人払いをさせて──按摩は円華の部屋に通い続けたという。
密会は蹂躙であり、耳元で囁かれる睦言は怨嗟となって彼女を責め苛んだ。
ひと月余りで気塞ぎの余り枕も上がらぬ病人となり、娘を案じた今枝子爵から、せめて気慰めにと買い与えたられたのがこの蚊帳である。
「按摩は蚊帳を見る度に羨ましがり、いつもこう言いました」
──毎夜お嬢様と共に在るなど、来世があるならあたしは蚊帳になりとうございます。
睦言を全て無視していた円華も、これには慄然とした。
ちょうどその頃父が取引先の子息との縁談を円華に持ってきており、もう来月には婚約という所まで話が進んでいた。余りに毎度言われるおぞましさに、当日まで黙っていようとした件を引き合いに、「もう終いにしてくれ」と懇願さえした。
──冗談じゃ、ありません。どうしてみすみす他の男に。それなら旦那様に全てを打ち明けてお嬢様を頂きます。
しかし彼の目論見は外れた。後日密かに子爵にその事を告げると、激昂した泰邦は彼の出入りを禁じ、あまつさえ人を雇って密かに始末しようとしたのである。
円華の婚約者は器量望みで、この頃まるで世に仇なすばかりの美貌となっていた娘を、一日も早く嫁に欲しがっていた。泰邦は泰邦で、傷が付いてしまったのならこれ以上厄介の種にならない内に片を付けておこうという打算があった。何処の世界に、身元も知れぬ按摩なぞに未だ価値のあるものを遣れるかと。
暴漢を装った男達に袋叩きに遭った按摩は、今際のきわにこう言い残した。
──例えこの身が世から消えようと、お嬢様はあたしのものです。他の誰にも遣りません。
言うなり絶命したその骸は、筵で簀巻きにされ近くの川に投げ込まれたという。遺体は遂に発見されなかった。
「……それで、円華さんはその後、どうなったんですか。真逆、祟り殺されたんじゃ」
いいえ、と娘が答えた。
「祖母は無事に婚約者の許へ嫁いだそうにございます。ただ」
どういうわけか、嫁入り道具の中に手放した筈の蚊帳が紛れ込んでいた。
円華本人が始末しようとしても、他の誰がどうしてもまた持ち主の手元に舞い戻る。
家人や夫は不気味がっていたものの、面妖な余り手を出すのが恐ろしくなってきた。しかも。
「そのうち祖母自身が以前と同じく、その蚊帳を使い始めるようになりました。明らかに訝しいと思って周りが忠告しても、何故か聞く耳を持たなかった様です」
それでも夫となった男は円華に惚れ抜いていて、夫婦仲は睦まじかったそうである。次の年には子宝にも恵まれ、蚊帳の怪奇を覗けば他に家庭内に問題はなかった。──子供が生まれるまでは。
「翌年、祖母が女児を──わたくしの母でございます──産み落とした頃、いきなり祖父が亡くなりました」
死因はよくわからなかった。前日まで溌剌としていたのに、翌朝いきなり冷たくなっていたという。
「祖母はその後母を育てる為に同じ一族の他の者とも再婚致しましたが、こちらも間もなく同じ目に遭いました」
親戚達は流石に気味の悪さに耐え切れず円華を実家に戻した。一人事情を知っている泰邦は再び娘を縁付けようとはせず、母子共々隠す様に家の奥に住まわせたのだった。
「……祖母はある程度まで生きた様ですが、元々塞ぎがちだったのが出戻ってからは更に酷くなっていたらしく。余り長生きは致しませんでした。母も──」
「え、では、貴方のお母様は」
娘の声は何処か自嘲めいていた。
「曽祖父も祖母ももう亡くなっており、秘密を知る者はおりませんでした。祖母の兄──大伯父は何やら曽祖父から言い含められていたらしいのですが、余り重きを置いていなかったのでしょう。一度母を嫁がせました」
何処に行っても、夜になればあの人がやって来る。
「……母はそう申しておりました。わたくしが十五の年に亡くなるまで」
哀しそうに呟く声で、亮は全てを了解した。同じ事が起きたのだと、改めて確認するまでもない。
「ちょっと待ってくださいまし。お嬢さんは按摩が襲われて亡くなった事をどうやってお知りになったんです?」
“泰邦も円華も亡くなり”、彼女の伯父は何も知らなかったというのに。ましてや、聞いているこちらが決まり悪くなる程の生々しい按摩と円華の密会は。
「当人の書き遺しでもあったのでなければ、とても」
「……そんなものはございません」
「は?」
「『見せる』のです。この蚊帳が」
幼い頃決して母親は自分と同衾する事を許さなかった。その理由を彼女が知ったのは、母が亡くなり、いつの間にかこの蚊帳の中で眠る事になった頃からだと言う。
幻は、やはり毎夜訪れた。
「最初は気味が悪い、程度に思っておりましたが内容が内容な上に、絶えず繰り返される夢は地獄でございました。幾度捨てても戻って来、切り刻もうとしても刃が通りません」
「……火は。火を点けて燃やしても」
「それも試しました。火は──不可ません」
駄目だった、という事なのだろうか。
声が震え、啜り泣きが聞こえて来た。
「このままではわたくしはいつまでも蚊帳に縛り付けられたまま……彼岸の祖母も母も浮かばれませぬ。せめて按摩の執念が浄化されるような手立てでもあれば……」
是非お知恵を拝借致しとうございます──涙ながらに訴えられて、亮は腕組みをした体勢でううむ、と呻いた。
助けたいのは山々なのだが、己は生きている人間でさえも儘ならない一介の庭師である。評判の一人歩きも甚だしい。
子爵が何と聞いたか知らないが、誰かを助けたにせよそれは亮の手柄などではない。彼を食い物に──否、彼が巻き込まれる厄介ごとを食い物にする、あの男がしている事なのだ。
「……一応、知り合いに色んな話を知っている奴がいますので。聞いてみましょう」
──生きている人間には滅法強いが、さて幽霊にはどうだろう。
怪異にはしてやられた姿も見た事があるだけに、当てになるものか些か心許ない。
それでも蚊帳の奥で魂切る慟哭を続ける娘が余りに哀れで、亮は結局断りきる事が出来なかった。
※※※※
「全く、病膏肓に入るお人好しだな亮さんは」
新聞記者である亮の『耳袋』は、基本的に忙しい筈なのだが酒或いは相談ごとを餌に呼ぶと必ず捕まえられる。亮自身はいつも断ってばかりなのに。
すっかり馴染みの場末のカフェーの、奥まった目立たない場所がその男──伊村靖の特等席だ。
「幽霊退治なぞ請け負って、とばっちりで祟られたらとは考えないのかね」
「何だよ柄にもない。見えないものは信じないんじゃなかったのか」
「所詮元々は人間だったもの。怪異見たり枯れ尾花としても、生臭いいざこざが凝り固まった事情抜きには語れまい。俺は飯の種になるからいいがね──」
亮さんが問題さ、とは彼なりにこの年若の友人を心配している様子を見せた。
「お前さんは物事を前からしか見ない。そしてまともに受けとめすぎるんだよ。幽霊にも人間にも格好の標的になろうってもんさ」
忠言めいているが、どうやら莫迦にされているらしい。亮は些か不愉快になった。
「止してくれ、今は蚊帳の祟りを鎮めるのが先決だ。やっさんは仕事柄、顔も広いだろ? 拝み屋でも坊主でも、その筋の伝手に頼み込んじゃくれねえか」
伊村は愛用のフィガロ煙草をしばしくゆらせながら何事か思案をめぐらせている様子だったが、ふと、「子爵には亮さんから何か話をしたのかい」と問い返して来た。
「うん? ああ。随分と驚いていなさる様子だったが、姪御が助かるならと同意してくれたよ」
「同意、か。……拝み屋を呼ぶ事に? 他に何か不可解な点はなかったかね」
「いや、特にこれといって。一体それはどういう意味だい?」
何でもない、と彼は例によって片頬だけで皮肉げに笑った。この表情には見覚えがある──
「さては何か掴めたんだろ」
「いやアまだ大した事は。ただ予想の通りなら、子爵は姪御の言動に探りを入れて来る筈だと思ったまでさ。違った様だな」
首を傾げた亮は「探り? 確かにお嬢さんが他に何か話したか詳しく聞かせて欲しいとは言われたが。別段訝しい事でもないだろ」と眉をひそめた。
「勿論、訝しくはないさ。だが──ちょいと試してみるか。事によると拝み屋を呼ばずとも済むかもしれん」
嫌な予感に亮が渋面をしていると、宥め口調で
「なあに、そうしかつめらしく構えてくれるな」とやけににこにこ笑う。
「試すとは聞き捨てならないな。もしいつもの口八丁で丸め込むというなら、俺はやらないぞ」
「何を言うんだ。これは誰にでも出来る事じゃないぜ。お前さんみたく真面目を絵にした様な奴だからこそ、その娘が頼って来たんだろう。置いて適任は他にあるまい」
「しかしだな」
「むしろ今回は拝み屋よりも亮さんが必要だ──子爵家の因縁を、解きほぐす為の講釈師としてな」
※※※※
「俺はとある人に、貴方のお祖母さんの事を尋ねました」
翌日、蚊帳を開かせて娘と再び対面した亮は伊村に教えられた通りを口にした。
──お嬢さんの元へ行って、こう言えばいいのさ。
「按摩は、貴方の父親などではありません」
陰欝に面を伏せていた娘が、びくりと身じろぎした。
「彼が見せたのは、ただの幻です。だから貴方が、いつまでも囚われる事はないのですよ」
「──本当に、そうでしょうか。ならば何故、わたくしは此処から出られないのでしょう」
「それは貴方が」
平静を装って座敷に正座していたが、内心亮は酷く緊張していた。
──焦げた匂いがした。あれはそういう事だったのだ。
“火は、不可ません”
「貴方が、もう亡くなっているからです」
娘は答えなかった。ただ、以前のままに憂いがちな美しい顔に戸惑いの色が加わった──幽霊とはとても思えない。
「子爵にも、お話を伺いました。貴方は幻が現実なのではと疑った。按摩は祖母にしたと同じく、母の元へもやって来る。支那の冥婚さながら、死人の妄執が母親に自分を生ませたのではないかと考えてしまった。なので蚊帳に火を点けて燃やそうとした。全ての禍根を断つ為に」
しかしまた其処でも怪異は起きた。──恐らく。
「ご家族の方がたが駆けつけた時にはもう、貴方は」
娘はややあってから頷いた。同時に、白い頬に涙が伝い落ちる。
「そうでした。わたくしは……燃え盛る火に包まれた蚊帳がはっきりと悲鳴を上げるのを聞きました。すると、いつの間にか外で見ていた筈のわたくし自身が、蚊帳の中にいたのです……」
あれはやはり夢ではなかったのですね。いくつも見た悪い夢の一部だと思っていましたが──
哀しげに呟いて、声もなく娘は泣いた。亮は殊更冷静を己に言い聞かせて背筋を伸ばす。
「しかし蚊帳はもう間違いなく消えたのです。貴方が見ているこの蚊帳は、貴方の記憶に残っているものです。もう此処に按摩はいません」
真っ直ぐ彼女を見て言い放った。肝心な所で狼狽えるなよ、という伊村の声が聞こえそうだ。
「……わたくしは、これからどうしたら良いのでしょうか」
亮は微笑んだ。
「お嬢さんは何処にでもお行きになれます」
「そうですか……」
娘の身体が残像の様に揺らぎ始めた。深々と頭を下げる姿も、ともすれば見失いそうになる程に。
『では、母の元へ参る事に致しましょう』
初めて見る娘の笑顔は淡雪の如く、時を置かずに儚く消えていった。掛けられていた蚊帳も、床を彩る錦の蒲団も。
──全て、『そう』だったのか。
驚くと同時に、心の何処かで奇妙に納得する自分がいる。
言っていたではないか、最初から。
“此処から出られない”のだと──そして切り取られた過去から、漸く抜け出せたのだろう。
もういないであろう場所に両手を合わせ、しばし瞑目してから呟いた。
──然様なら、お嬢さん。
蒲団が消えた畳の間は、張替えられたものか何の名残も気配もなく、余りに綺麗で。
後に残る空虚な静寂を、亮はほんの少し寂しい気持ちで眺めてその場を後にしたのだった。
※※※※
──何故教えてくれなかったのか。
娘の部屋に行く前に、訪れて問うと今枝子爵は言った。
確かに一年前姪が亡くなってから、あの場所は誰もが気味悪がって近寄らない。
何も見えないのだが、明らかに『何かがいる』気配はするのだと皆口を揃えて言うのだ。それは自身とて同様で、謂わくも知っていたからこそ、手をこまねいていた。だが真逆、全くの部外者に見えるとは。
意外にも程がある、恐らくは身内には言えない何かがあるに違いないと。
ならば、下手に幽霊と知らせずに聞き出してもらった方が良いかもしれぬ──故にこの間久々部屋を訪れて、庭師の評判を独りごちて呟いてみたと言う。
「『それで解決するとは、言ってみるものだな』──だとさ。姪御があんな亡くなり方をしたっていうのに、呑気な話もあったもんだ」
後日いつものカフェーで結果を報告する際、亮が怒り混じりに吐き捨てると、伊村は目を細め、何処ともなく眺めて言った。
「……ま、成仏出来たみたいで良かったじゃないか」
「それだけか」
「ああ。兎に角開放されたんだからな」
自ら吐き出す煙の向こうに、茫とした表情のまま、珍しく言葉を濁し功も誇らず。
「やっさん、どうした?」
「……いや、何。祖母も母も、旦那にさえ按摩の幻を見ていたかもしれないと、ちょいと仮定をな。だとしたら、娘にも誰かが来ていたんじゃないかとね」
誰って誰だよ──と亮が説明を求めても、
──度し難い、下種の勘繰りさ。
何処か自嘲気味に言ったきり酒杯を傾けるだけで、伊村は答えてはくれなかった。
─了─
この小説は、泉鏡花の短編『黒猫』を読んでいて思いついたものです。オマージュを目指して書きましたが、モチーフや設定、展開は全く違うものとなっています。
ストーカー的執着を弁護、または糾弾するのが主題ではありません。
もし少しでもいずれかの気配を感じられましたら、それはひとえに作者の力量不足に拠るものです。
最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。