キルシェ
こん、こん、と寂しい音を響かせて、その幹は幾度も斧の刃を受け入れました。
少しずつ、亀裂が深まるたびに身を震い、投げ出されていく暖色の花びら。わたしたちはただ、それらが地に落ちいつか土に還るだけの行く末を、黙って見送ることしかできません。
「悲しい?」
肩の上のムササビが、問いかけました。
「悲しいわ、とても」
けれどそれ以上に、悲しむだけの薄情なこの心が、わたしは悔しくてならなかったのです。
村の木が一本、妙な色の花を付けたという話が広まったのは、今より二週間ほど前のことでした。
その木は村を囲むように点在する丘の一つに生えていたもので、昨年までは周りの木々と同じように目立たない姿をしていたために気付かれることもなかったのでしょうが、この春、何がきっかけになったのか突然開花してしまったようなのでした。
どのように妙かといえば、枝の先に小さく集合している花びらが全て、淡いピンク色なのです。反対に幹などは色黒だとかで、話を聞いた村人の誰かが、それはもしや桜という木ではないかと言い出せば、皆口を揃えて凶事の前兆だ何だと噂を広め、その丘に近寄ろうとしなくなりました。
この村にとって、桜は忌避すべき木だったからです。
人の性とは不思議なもので、行くなと言われればどうしても行きたくなってしまうものです。話を聞いたわたしは例に漏れずそのおぞましい木を一目見たくて仕方がなくなってしまい、すぐさま姉たちにその旨を伝えましたが、邪気を拾って来られては困ると、全くとりあってもらえませんでした。姉はわたしの身を案じてのことでしょうが、義兄の場合は別の理由からでしょう。
両親を喪い、姉の嫁ぎ先である義兄の家へ転がり込んだわたしに、彼らの反対を押しきる力や資格はありません。
「何もできないくせに厄介事にばかり首を突っ込みたがるのは女の悪い癖だ」
義兄はそう言って不愉快そうに鼻を鳴らしました。説教の最後に『女の悪い癖だ』と付け足すのが彼の口癖のようなもので、それを聞くたび自分だけでなく大好きな姉までが愚弄されているような気がして悔しくなります。
かく言う姉はしばらく前に臨月を迎えたところでしたので、生来病弱なために無理をさせるわけにもいかず、現在この家の家事はわたしが全てを担っていました。つまり、兄が仕事で家を空けさえすれば、わたしを監視する者は一人もいなくなってしまうわけなのです。
お咎めなしで行けるものならと持ち出した相談でしたがやむを得ません、心を決めたわたしは翌日、兄が出かけるといつもより手早く家の仕事を片付けて、ベッドの姉に食事など一通りの世話を済ませると、あらかじめ拵えておいたサンドイッチ入りの籠を手に、丘へ向かったのでした。
その木は丘を登る道のどこかから少し外れて行った先にあるそうで、似たような木漏れ日が続くこの道のどこを曲がればたどり着けるか一抹の不安はありました。しかしいざそこに来てしまえば簡単なもので、道の真ん中にいても右側からぼんやりと漂ってくる妖艶な色彩を感じとったわたしは、迷わず木立の中へと足を踏み外したのです。
「お嬢さん、お嬢さん」
声のした方に顔を向けてみましたが誰も見当たりません。気のせいだろうかと前に向き直ればまた同じ声が聞こえたので、もう一度その方に目を凝らしてみると、その主はどうやら枝の一つに留まってまっすぐこちらを見ているムササビのようなのでした。
「ご機嫌ようムササビさん、わたしに声をかけたのはあなたね」
「その通り。驚かないの」
「そうね、今なら何が起こっても驚かないと思うわ。とっても不思議で幸せな気分なのよ」
するとムササビはまるで人間のように背筋をぴんと伸ばして立ち上がり、自分も連れていってほしいと言ってきました。別に断る理由もなかったので同意してあげれば、彼女は枝を蹴って大きな皮膜を広げ、器用に私の肩の上に着地してみせます。
「気をつけて。恋の匂いがするから」
耳をくすぐった忠告の意味を、そのときのわたしは理解することができませんでした。
今になって思えばあの頃からすでに、わたしの恋は始まってしまっていたのでしょう。
目的の木は、それから間もなくしてわたしたちの前に姿を現したのでした。
青葉が繁る似たような背丈の木々に囲まれて、独り立つ黒の幹。その枝先にぽつぽつと宿る赤みがかった花たちはまだ満開とは言えない様子で、射し込む日の光に今か今かと蕾をふくらませているように見えます。
きっとこの愛らしさが生命の輝きとなって、わたしをここまで導いてくれたのでしょう。
「こんなに綺麗な花をつける木が、どうして嫌われなくちゃならないのかしら」
「綺麗だからこそ、たぶん」
肩の上から聞こえてきた呟きは、小動物らしくとても小さなものでした。
木の根もとに腰を下ろし、バスケットから取り出したサンドイッチの角をちぎって肩に持っていくと、ムササビは小さな両手でそれを器用に受け取りました。一人と一匹で昼食をいただきながら見上げる枝は間近にあることもあってとても逞しく、黒々とうねる樹皮は筋骨逞しい男の人の腕を思い起こさせます。
この力強さならすぐにでもたくさんの花を咲かせてくれるだろうと、そのときわたしは、この場所に再び戻ることを誓ったのです。
義兄が自分より早く帰ることがあっては全てが台無しです。わたしはサンドイッチをたいらげるとすぐに腰を上げ、帰宅しようと体の向きを変えました。
「決めた。ここにいる」
声の元を辿って上を向けば、つい先程まで自分の肩にいたはずのムササビが、桜の枝からわたしを見下ろしています。
「そう。それじゃあまた、近いうちに会いましょうね」
生き生きとしたピンク色に囲まれて手を振り返す彼女の姿は、伝承にとらわれない動物の、自由な生き方を象徴しているかのようで、少し羨ましくも思えました。
義兄が帰ってきたのは、わたしが帰宅して間もなくのことです。いつ知れてしまうかと緊張していたせいで多少訝しまれはしたようですが、その日はついに、何を言われるでもなく終わってしまいました。
これですっかり味をしめたことは言うまでもありません。以来、わたしは毎日のように、義兄の留守を狙っては桜の様子を見に出かけるようになったのです。
日に日に開花していく桜の上からは、あのムササビが決まってわたしを出迎え、肩に降りて他愛もないお喋りをしてくれます。そうはいっても一番のお目当ては桜の方なので、どんな会話をしたのかまではほとんど覚えていないのですけれど。
花の艶やかさはもちろんのこと、対照的にひっそりとした深みを秘めて隆起している暗い木肌も、わたしには魅力的に感じられました。地表に飛び出た根に座り幹に頬を寄せると、硬い表面の奥の方から人の心臓にも似た音が脈を打ち、その生々しくも懐かしい響きが全身を巡ると同時に、心地よい寒気をおぼえるのです。甘やかで落ち着きのある独特な香りも、わたしの心に深く染み入ってくるようでした。
このようにどれほど桜の下で陶酔に溺れようとも、日暮れが近づく頃には必ず、ムササビが帰るよう注意を促してくれました。毎回邪魔をされるのはやはり不愉快なものでしたが、おかげで義兄より帰りが遅れる事態を避けることができたわけですから、彼女を恨んだり、憎んだりと言うことはついぞなかったのです。
虜になってしまったわたしの脳内は、桜のことであっという間に満たされてしまいました。夕食も喉を通らず、義兄に何度不審な目で見られたことでしょう。これではまるで恋患いではありませんか。
そう自身をからかうつもりで心の内に呟いてみて初めて、わたしは、本当にあの木に恋をしてしまったのではないか、と思うようになりました。植物性愛とでも言いましょうか、きっと、わたしはおかしくなってしまったのです。それが桜の言い伝えに聞く邪気によるものなのだとしたら、これほど独り占めにしたいけがれはありません。
「いい香り」
ある朝、いつものように身の回りの世話をしていたとき、ベッドに座る姉が不意に口を開きました。
「わたし?」
「うん。この辺りで嗅いだことのないような、ほんのり、甘い香りがする」
それはもしや桜のことではないでしょうか。毎日通い詰めていたせいで、木の匂いが移ってしまったのかもしれません。ついに気付かれてしまったと危うく慌ててしまいそうになりましたが、外に出ない姉が香りの正体を知っているはずもなく、加えて立派に膨れた腹をさも愛おしげに撫でて微笑む顔を見れば、そんな心配は簡単に安堵へと変わっていきます。
「じゃあわたし、ちょっとお買い物に行ってくるわね」
ほっと胸をなでおろし、けれども優しい姉にまた嘘を重ねながら、寝室を出て行こうとしたときです。
「気をつけてね」
普段の見送りの言葉とは違う、張りつめた語気に思わず振り返れば、すでに薄い唇を引き結んでいた姉の真剣なまなざしに行き当たりました。
「恋の香りに、気をつけて」
どこかで聞いたような言葉だな、と頭の隅から呟く声が、聞こえたような気がしました。
この日にはもう桜の花も九分咲きといったところで、先に咲いていた部分などは早くも花弁を落とし始めていました。愛した花が散ってしまう様はもの悲しくもありましたが、幹に寄り添って見ているとまるで桜色のベールに包まれているようで、なおさらに離れがたい幸福感を覚えたのもまた、事実です。
「そろそろ、帰ったら。また明日、満開の下で」
「あら、もうそんな時間……そうね、明日を楽しみにしましょう」
ムササビの言葉を聞いて余計に満開の日を待ち遠しく思いながら、その日もわたしは、時間通りに帰宅しました。
遅れてしまったということはありません。しかし、事態はその夜に急変しました。後から帰ってくるなり、義兄はわたしを呼びつけて桜のことを問い質したのです。どうやら知人の誰かが、例の丘へ入っていくわたしの姿を目撃したらしいのでした。前にそこへ行きたいとお願いした経緯もありますから、すぐに桜を見に行ったのだと勘付いたのでしょう。
「あれほど行くなと言ったのにこれか。おかげで俺までが汚れ物を見るような目を向けられる始末だ。責任も持てないくせに人の言うことを聞かないのは女の悪い癖だな、ええ?」
怒りに両目を光らせながら、義兄は口元ばかりにやにやと広げています。ここで姉が重い体を抱えて仲裁に入ってくれていなければ、間違いなく家を追い出されてしまっていたことでしょう。
彼女の説得によっていくらか冷静を取り戻した義兄は、結局二度とあの場へ近づかないとわたしに誓わせることで、説教を切り上げてくれたのでした。
「ありがとう、ねえさん」
「ううん。でも本当に、もうあの木の所へは行かないでね」
このときばかりは、そう言って優しく微笑んだ姉の頼みを裏切るしかない自分が、情けなくて仕方ありませんでした。
そして次の日、わたしはやはり家を抜け出していたのです。
ほんの少し、一瞬だけでもいいから、満開の花を咲かせた姿をこの目に収めたい。そう望む気持ちを抑えつけられるほど、私の心は強くありませんでした。あのムササビにも、一言お別れを言っておかなければ気が済みません。
いつものように丘を登り、初めの頃よりもずっと鮮やかになった甘美な色彩を横から感じて道を逸れる。自然と足も速まって、気付けば最後には駆け足になっていました。その足が止まったのは、慣れ親しんだあの黒い幹が、立ち並ぶ木々の隙間から見えてくるはずのところまで来たころです。
そこには今日に限って、ちょうど幹と重なる位置に立つ、人間の後ろ姿があったのでした。そしてどこからか、硬い物同士を打ちつけるような音が断続的に響いていることにもようやく気がつき始め、わたしは血の気が引く思いで、もう一度強く地面を蹴ったのです。
思った通り、音の出所はその人と桜の木にありました。この村の住人であり顔見知りでもある体格の良い木こりの男が、両手に持った大きな斧を、なんとしきりに桜の幹へ叩きつけているではありませんか。
「な、何をしているのですか」
慌てて声をかけると木こりはその手を一旦休め、こちらに顔を向けてくれました。
「ああ、昨日村の連中に頼まれたのさ。いい加減、この不気味な木を切り倒してくれってな」
そこまで言うと、この木の異質さを改めて確かめでもするかのように辺りをぐるりと見回し、
「まあ確かに、朝焼けみたいに不吉な色の花だよな。人の心を惑わすだとか、気をおかしくしちまうって噂も、あながち嘘ってことはなさそうだ」
再び、幹の表面がめくれ上がって白くなっている部分へ、正確に斧の刃をかませていきます。
無理に止めることもできず、ひたすらに立ち尽くして愛した木が切り倒されていく様を見守っていたら、
「悲しい?」
いつの間にか、肩の上に乗っていたムササビが、か弱い声で囁きかけてきたのでした。
悲しいと思う気持ちは、確かにあります。せつないと思う気持ちも。しかし、それだけです。
悲しみに暮れる一方で、わたしの中の冷静な心は、本当に桜に対して恋心を抱いているなら……本当に、狂ってしまっているなら、これくらいで済むはずがないとも考えていました。もしも目の前で心から愛する人が殺されてしまっているのなら、犯人に襲いかかるなり、自害してしまうなりしてもおかしくはないはずだ、と。
けれど、今のわたしはそのどちらをも実行に移そうとはせず、ただその場に立ちすくむばかりです。それはつまり、わたしが結局のところは普通と大して違いのない人間だったという、何よりの証拠なのではないでしょうか。
わたしは単に桜ではなく、桜に心酔するという、異質な行いをする自分に、酔っていただけなのかもしれません。
「お別れね」
雪のように降る桜色の中、告げるはずだった別れの言葉を、先に口にしたのはムササビの方でした。
桜が切り倒された次の日、姉は元気な男の子を産んで間もなく、息を引き取りました。
お産の後、寝台の周りに体験したことのない匂いが漂っていると言って、義兄や産婆さえもが不思議そうに顔を見合わせていましたが、わたしにはそれが桜の木の香りだとすぐにわかりました。とは言え、これほどに強い香りを感じたのは、初めてのことでしたが。
そこでふと、自分でも不思議なことに、かつてあの桜の上で毎日わたしを待っていたムササビの姿が、頭を過ぎったのです。
もし本当に、邪気などというものが、あの木にあったのだとして。
今となってみれば、あの場所でわたしと桜の開花を見守ってきた彼女はその弱小な身に、わたしとは比べ物にならないほどのけがれを、引き受けていたのでしょう。
例の匂いは寝台だけでなく、産まれた子にもまとわりついて、いくら体を洗っても消えそうにありませんでした。だからこそわたしは、それが桜の香りであることを絶対に誰にも告げてはならないと、固く心に決めたのです。
まだ目も開かない赤ん坊は言葉のとおり、白い産着の中で顔を桜の花のように赤らめながら、母を求めていつまでも、力いっぱいに泣き叫んでいました。
タイトルはドイツ語で桜という意味ですが、別にドイツが舞台というわけではありません。
タイトルに困ったときは、横文字に逃げるに限りますね(笑)
とにかく春らしいお話を書こうと思ってできたものでした。春=桜というイメージしか持てなくてあれなのですが、後は食べ物くらいしか思いつかなかったので……
それでは、ここまでお読みくだってまことにありがとうございました。