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骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第一章 銀座綺譚
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九 童喰らう鬼




「……千寿子の怨みと、明美の業。この鬼を成したのは彼女ら二人の情念だったというわけか。

 どうだね、古舘(ふるだて)さん。ついに開いた秘密箱の中身は」


 地鳴りがする。

 明美は――いや、千寿子かもしれない――微動だにせず突っ立っていたが、その怨みが、怒りが、業が、無念が、愛憎渦巻く屋敷を揺らしている。


 古舘はポカンと呆けたように明美を見ていた。その目は依然恐怖に震えているが、しかし……


「千寿子は……娘達は……死んだのか。おまえ……お前が殺したのか、明美。乳飲み児までも。

 てっきり(わし)は、別れの挨拶もないまま姿を消したものと……不義理な女だと、儂は……」


 古舘の耳に、鈴のように弾む愛らしい明美の声が蘇る。


 ――まあ、帝都興産の社長さま? すっごぉい。

 ――あたし、力のある殿方って大好き。


 誘われて行ったダンスホールで出会った女だった。

 血のように赤いスカートを(なび)かせて踊り狂う女で、飛び散る汗の粒までもが美しく見えた。


 遊びで抱いたつもりだった。二、三回使()()()終わりにするつもりだった。なかなかの焦らし上手で"初めて"に漕ぎ着けるまでは臓腑の焦がれる思いもしたが、ダンスホールの女給など所詮いっときの慰み者……そう思っていた。

 

 しかし、明美は古舘などより何枚もずっと上手(うわて)であった。

 じっくりと、ねぶるように。気付けば、古舘は骨の髄まで明美に抜き取られてしまっていた。


 ――ずっとこうしていられたらいいのに。


 毛の生えた古舘の胸元に指を這わせて明美が囁く。ダンスで培ったしなやかさと女の柔らかさが同居した腿を撫でると、明美はクスクスと笑って猫のように身を丸めた。


 ――奥方さまの従兄弟って方、中学に通ってらしたの? 若いのに随分と優秀なのねえ。ただ運に恵まれなかったのだわ。ねね、会社で雇ってさしあげたら……きっとそのうち()()()()わよ。


 千寿子の従兄弟が横領の末に出奔し、怒りと動揺で古舘が身悶えしていた時も、明美は鈴のような声で囁いた。


 ――ねえ、あなた。奥方さまとその従兄弟って、歳が離れているのに随分と仲が良かったのよね? 従兄弟が中学に通い続けられるよう、奥方さまは随分金策に奔走したって……大切な着物を質に入れまでしたって話、聞かせてくれたじゃない?

 

 ――もしかして、もしかしてよ。今回の横領も、奥方さまが手引きしたんじゃ……? あたし、怖い。


 それでもやはり千寿子を突き放すことができないと告げた夜、明美は飢えた獣のように激しく古舘を求めた。(なぶ)り、揺さぶり、締めて、握って、古舘を快楽の渦へと突き落とした。

 しかし、情事の後、息を切らせて汗だくのまま寝台に横たわる古舘の隣で、マッチの火を煙草に移しながら明美が告げたのは別れ言葉だった。


 ――これっきり、ね。


 千寿子は、貧しい時期も苦しい時期も、文句のひとつも言わずに支えてくれた女房だ。確かに身内は罪を犯したが、千寿子が手引きした確たる証拠もない以上、そう簡単に切り捨てる気にはなれなかった。それに三女はまだ乳飲み児だ。

 

 しかし……古舘はもう、明美の甘い蜜なしでは生きていけない。


「望みは全て叶えてやった……使い切れんほどの金も与えた。お前を『女給上がり』と蔑んだ従業員には例外なく制裁を下してやったじゃないか。

 それでもお前は満足できなかったのか。儂の全てを貪り尽くしておいて、それでもなお、お前は……!」


 古舘の顔面が音を立てて歪んだ。

 怒りか、憎悪か。あるいはそのどちらも孕んだ、昏くて深い、底なしの感情。

 その全てが結実したかのように、古舘は戦慄きながら右手を持ち上げると、震える指先で明美を指した。


「貴様は鬼だッ! この売女(ばいた)めッ! 薄汚れた女給風情が、調子付きやがって!」


 その罵声に呼応するかのように、鬼が再び絶叫を上げる。金切り声のような、野太い怒号のような。耳を塞ぎたくなる異形の声が鳴り響く。

 ヒトの理から外れた雄叫びが床の間の掛け軸を切り裂き、柱を軋ませ、襖にドス黒い染みを作っていく。

 

 枯れた両腕を持ち上げた鬼が、赤い爪で顔を、喉を掻きむしり、怒りに塗り潰された声で吼えた。


「ゴオオオォォッ!」


 ひと呼吸の間に距離を詰めた蛇川が、鞘を払った懐剣を鬼の胸元に突き立てる。切り裂かれた部分から何かが――血ではない、黒い霞のようなものが噴き出し、宙で霧散する。

 

 痛みと怒りに狂った絶叫が三度(みたび)蛇川を襲う。至近距離で声を喰らったためか、蛇川の身体が彼の意に反して僅かに痺れる。

 瞬間、蛇川の左脇腹を鬼の拳が襲った。咄嗟に腕を差し込んで胴を守ったものの、腕の骨がミシリと嫌な音を立てて軋む。

 

 人体の作りを無視し、腕全体を鞭のようにしならせた痛烈な打撃だ。細身の蛇川はなす術もなく弾き飛ばされ、襖を突き破って続き間へと叩き込まれた。早々に()()を片付け終えていた吾妻が声を荒げる。


「先生ッ!」


「構うなッ、(こっち)は僕の領分だ!」


 全身がバネでできているかと見紛うような速度で、再び蛇川が鬼に向かって突進する。

 幾つもの束となり、触手のようにうねりながら獲物を捕らえんとする黒髪を懐剣で次々に切り落としながら、たちまちのうちに本体へと肉薄する。

 

 鬼の間合いに飛び込んだ蛇川が、腰を捻ってしなやかな回し蹴りを一閃!

 上方から眉間に向かって叩き込まれた蹴りに、鬼が身を屈めてたたらを踏む。しかし蛇川は止まらない。蹴りの勢いそのままにグルリと半回転したかと思うと、今度は反対の左脚で一閃!

 

 風を切る音さえも美しい、鮮やかな二連撃。上から撃ち落とされたと思えば、次の瞬間には下方から刈り上げられている。人智を超えた鬼といえどもこの猛撃はさすがに(こた)えたと見え、ドウと激しく倒れたところへ蛇川が馬乗りになった。割れた畳の上で鬼がもがくも、蛇川が総身の力を振り絞って抑え込む。


「知るものかよ……なぜ鬼と成り、何を喰らわんとするかなど。だが、ヒトと鬼とは決して交わってはならぬものだ。

 

 確かにあんたは哀れだ。しかし、成ってしまったら斬るよりない。

 ならば、全てを断ってやる。それが、同じ業を背負う僕からの……せめてもの手向けだ」


 右手で懐剣の柄を握り、左手を把頭(つかがしら)に添えた蛇川。その右手に巣食う無数の目玉が、やにわに熱を帯び、何かを求めるように激しく震え始める。


 鬼の両目からは止めどなくドス黒いものが流れ出している。

 涙だ、これは。千寿子の、明美の……


 ゆっくりと、小指から順に柄を握り直す。蛇川の全身に精気が満ちたのを感じ取ってか、鬼が逃れようと金切り声を上げる。


 あんたとて、このままでは苦しかろう。

 短い気合いと共に、懐剣を鬼に突き立てた蛇川が呟く。しかしその小さな呟きは、悍ましい断末魔の叫びにかき消された――……



 

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