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八 童喰らう鬼




 吾妻という暴力装置の前では、弱い者虐めがせいぜいの破落戸(ごろつき)風情など、大海の波間で揉まれる木っ葉に過ぎない。

 加えて、木っ葉はどこまでも木っ葉であった。己と相手の力量を正しく測って退く賢さも、敵の提案を受け入れる度量もなかった。総員浮き足立ちながら、しかしそれでもジリ……ジリ……と間合いを詰めようとしてくる。


 明美から目を逸らさないまま蛇川が言う。


「無駄だ、吾妻。はなから思考を放棄している」


「ま、そうなるか。片付けていいな、先生?」


「任せる。生者(そっち)はあんたの領分だ」


 唇を歪めて「了解」と呟くが早いか、再び濁流と化した吾妻が着流し連中に襲いかかった。


 手始めに、端にいた男の胸元に強烈な飛び蹴りを叩き込む。肋の砕ける感触が、足裏を通じて伝ってくる。

 着地したところを匕首が狙ってきたが、難なくかわしてその腕を取ると、肘関節を逆向きにへし折り、さらにそのまま自前の投げ技を極める。畳が割れ、背をしたたかに打ち付けられた男が白目を剥く。投げに型などない。実地で鍛えた喧嘩戦法だ。


 直後、その背に拳打を受けたが、逆に突いた男が驚愕の声を上げた。硬すぎるのだ。

 投げ技直後で不安定な体勢だったにも関わらず、殴られた吾妻はびくともしない。


「なんだァ、今のは」


 のっそりと起き上がり、突きをくれた男へと向き直る吾妻。その顔は、唇の両端が吊り上がった野の獣そのものだった。


「ガキのお遊戯じゃねえんだ! 突きってぇのはな……」


 左脚を軸に、身体全体を捻る。肩を落とし、右腕を引き、腰を沈める。座敷中の空気が吾妻の右拳に収束していくかのようだった。


 瞬間、地が鳴った。

 畳を裂かんばかりの勢いで後ろ脚が踏み抜かれる。重さも勢いも桁違いの巨躯が、暴風をまとって突き進む。


 それは殴打というにはあまりに凶暴すぎた。

 鉄塊を叩きつけたような破壊音が響き、男の顔面が肉団子と化す。


 まさしく木っ葉のように吹き飛んだ仲間を見て、残された三人の身体から力が抜ける。頭に昇っていた血がサアッと引くと同時に、戦意が汗のようにこぼれ落ちていく。

 やっと気付いた。これは、決して敵対してはならない男だ……


 パン、パン、と軽く両手を払いながら、吾妻がゆっくり振り返った。


「……こうやるんだ。お分かり?」




 座敷後方で暴力が渦巻いている間、蛇川は静かに明美と対峙していた。腰を抜かしたらしい古舘(ふるだて)は、無力な小動物のように二人を交互に見遣るばかりだ。


 左眼が抉れ、口から大量の汚泥を垂れ流す明美。節くれだった両腕をダラリと垂らして俯向く姿は、この世の怨みだけを養分に立つ呪われた老木のよう。

 

 かつて古舘に甘い言葉を囁き、酔わせ、誘惑した赤い唇は、今や裂けて捩れて元の形を窺うべくもない。

 しかし、よくよく耳を澄ませてみれば、何かを呟いているらしい声がか細く聞こえてくる。


 聞いてはいけない。古舘はそう直感した。

 しかしその声は、線香からのぼる煙のように不確かなのに、確実に古舘の鼓膜を震わせた。


 声は二つあった。

 弱々しく打ちひしがれた女の声と、憎々しげに歪んだ蓮っ葉な女の声……


 ――後生でございます。娘共々追い出されては、とても生きていけません……せめて子供達だけは……


 ――あの女、ほんっと邪魔ね。死んじゃえばいいのに。


「ヒイィッ! な、なんなんだ一体ッ」


「鬼が胸の内を語ってくれようというのだ。耳を傾けてやるのが亭主の役目ではないかね」


 見れば、蛇川は小さな懐剣を握り締めている。

 刃渡りは七寸あまり。刃は薄くしなやかで、女の小さな手にも馴染む寸法だ。赤銅に黒漆の鞘に、金糸で織った梅花の意匠が添えられた柄。鍔はない。


「なぜ、明美は鬼と成ったのか。なぜ我が子を呪わねばならんのか。

 見届けろ、古舘。これこそが最後のピースだ」


 パチリ。


 どこからか聞こえたその音を機に、古舘の脳裏にとある日の情景が浮かび上がった。

 そう、あれは、千寿子に離縁を切り出した夜……


 ◆ ◆


 離婚届を前に、千寿子は唇を噛み締めた。既に古舘は署名を終えている。見慣れたはずのその筆跡が、今はいやに冷徹に見えた。


 夫の愛情がとうに冷え切っていることなど分かっていた。跡継ぎを産むことが千寿子に課された使命なのに、三度までもしくじったのだ。まだ胎脂を纏った我が子を――母に似て下膨れの三女を見た時の、古舘の落胆・憤怒・嫌悪の入り混じったあの瞳……


「書け、千寿子。それがお前にできる、(わし)への最後の"孝行"だ」


 離縁されることは覚悟していた。跡継ぎを産めずにいるばかりか、千寿子の従兄弟が帝都興産の金に手をつけて行方を眩ませたのだから。

 かなりの大金である。それを警察沙汰にせず、離縁で手打ちにしようというのは、むしろ長く古舘を支えてきた千寿子への温情と言ってもいい。


 しかし。

 千寿子の暗い瞳が、書類の一角に落ちた。そこには、三人の娘はいずれも千寿子が引き取るべしとある――つまりそれは、「母娘まとめてこの屋敷を追放する」という通告に他ならなかった。


「……私のことは覚悟しております。この度は本当に……身内がとんだご迷惑をおかけしました。これ以上お詫びのしようもございません。

 でも、でも……後生でございます。娘共々追い出されては、とても生きていけません……せめて子供達だけはこの屋敷に置いていただけませんでしょうか。


 贅沢は望みません。親の愛も望みません。下女のように扱っていただいて構いませんから……どうか……」


 下膨れの頬を――かつては「福が詰まっている」と愛でた頬を――震わせて千寿子が泣く。

 経営が苦しく、木の皮を煮て食べるしかなかった時でさえ涙を見せなかった女だ。その千寿子が、寄る辺のない蔦のように身悶えしながら泣いている。


 古舘は苦虫を噛んだような表情を浮かべた。

 三つも()を残しておくなど、愛しいあの娘が納得してくれるだろうか……


 ◆ ◆


「あの女、ほんっと邪魔ね。死んじゃえばいいのに」


 薄いシーツを羽織っただけの裸形で細く紫煙を吐き出し、明美が言う。シーツからは白く形のいい乳房がこぼれているが、それを隠そうともしない。


「例の田舎女か? 弟だか従兄弟だかが会社の金を横領して出奔したんだろう。お前の目論見通り、さっさと離縁して終わりじゃないのか」


 明美に応じる男もまた裸形だ。日灼けした若い身体に派手な和彫を入れている。

 男を睨み、明美が苛立ったように煙草を灰皿に押し付ける。情事の後の睦みごとにしては、いやにきな臭い話題だった。


「離婚届は書かせたわ。でもあの女、娘を置き土産にするだの言い出しやがってサ。

 冗ッ談じゃないわよ! あたしがあの古狸を落とすために何回股を開いたと思ってんの? 莫迦な従兄弟とやらを焚き付けてお膳立てまでしてやったのよ。ようやくあの、糞ったれのダンスホールから足を洗えると思ってたのに……瘤付きの後釜だなんて絶対に嫌!」


 明美の小さな拳が枕を打つ。駄々をこねる子供のような明美を引き寄せ、男が乳房を鷲掴みにした。剣呑な声を吐いていた明美が、「あ、」と甘い吐息を漏らす。


「あまり無茶しないどくれよ……腹にやや子がいるんだから。帝都興産の跡継ぎ様だよ」


「どっちの種だか分かりゃしねえがな」


 男がクックッと可笑しそうな声を上げる。


「しかし、この身体を好きにこねくり回しておきながら、ジジイが約束も守らないときちゃ俺も穏やかじゃいられねえ。……やっちまうか?」


 その言葉を聞いて、明美の大きな目が怪しく光る。


「……できるの?」


「できるさ。細腕の女子供なぞ、四人まとめてあの世行きだ……ほら、俺の手練手管でお前も極楽浄土に……」


 帝都の夜は昏く、長い。



 

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