七 童喰らう鬼
その絶叫が轟いた瞬間、室内の空気が一変した。
安田は耳を塞ぎながら後退りし、柱に背を預けると腰を抜かしたようにズルズルと崩れ落ちた。
着流しの男達は皆一様に顔を蒼くし、口を力なくパクパクと動かしている。まるで酸素を求めて喘ぐ金魚の一群のようだ。
怒りと混乱で顔色をコロコロと変えていた古舘は、今も空気を震わす絶叫の残滓に身を竦ませて「あ……あ……」と言葉にならない声を漏らしている。恐怖が喉を握りつぶしていた。
およそ人間の出し得る声ではなかった。
赤子の泣き声のように甲高く、
野獣の咆哮のように猛々しく、
錆びた鋸で鉄を裂くように耳をつんざき、
聞く者の骨の芯までを震わせる。
恐怖が皮膚から入り込み、粟を立て、血を冷やし、背筋を凍らせる。
これが鬼の雄叫びだ。
まるで、死そのものが音を伴ってこの世に現れたかのようなその声は、生者の精神を磔にする強力な呪縛であった。
座敷の中で、声による鬼の支配を打ち破っている男が二人いた。蛇川と吾妻だ。
鹿皮の手袋を引き剥がそうと、口元に両手をやる蛇川。脚を開いて腰を落とし、徒手空拳で我流の構えを取る吾妻。両名とも寸分の隙もないが、無闇矢鱈に力んでもいない。
――いや。もうひとりいた。
「お、お母さま!」
清一だ。
顔中の穴という穴から黒い液体を撒き散らし、髪を振り乱し、悍ましい枯れ木のような四肢を垂れ下げた明美――もはや崩れてヒトの形を保ててすらいないソレをなお母と呼ぶ、子供の無垢さ、哀れさ、愚かさよ……
「お母さま、どうかしっかり……僕です、清一です!」
涙で濡れた子供の叫びに、鬼と成った明美がぐるりと首を巡らせる。標的を蛇川から清一へと変えた明美に、革手袋を噛んだまま、蛇川が珍しく焦った声をあげた。
「くそッ、だからガキは嫌いだ! 吾妻ッ!」
声が早いか動くのが早いか、すでに吾妻は畳を蹴って走り出している。あまりに強い踏み込みに、よく手入れされた畳が音を立てて凹む。
黒い濁流となって蛇川の脇を通り過ぎた吾妻が、勢いそのまま、今しも清一へ手をかけんとする明美の頬を殴り抜けた。
メキリ、と嫌な音がして、明美の首があらぬ方向に折れ曲がる。
普通、これほどの強打が直撃すれば相手は二度と動かない。しかし、首が折れたまま顔だけを吾妻へと向け、明美は邪悪な笑みを浮かべた。
「うへえッ、気味が悪い!」
「退がれッ、吾妻!」
間合いから飛び退る吾妻と入れ替わりで、ようよう革手袋を剥ぎ取った蛇川が明美に肉薄する。首が折れ、妙な角度からこちらを睨めつける明美の顔を、再び強烈な拳が襲う。
吾妻の恐るべき拳打に比べれば、蛇川のそれの威力は半分にも満たない。
しかしその拳は明美の頬骨を的確に砕いた。衝撃で飛び出した左の眼球が、青黒い血管と神経を数本引き連れたまま床に落ちる……
「ヒッ、ヒイイィィッ!」
古舘が引き絞った悲鳴を上げる。
零れ落ちた眼球を目の当たりにしたせいではない。古舘の視線が釘付けになっているのは、革手袋を剥いであらわとなった蛇川の右腕――
それは、人間の腕の形をしていながら、もはやヒトのものではなかった。
腕の表面では、瘤のように醜く腫れ上がった血管が幾重にも絡み合い、捩れ、もつれ合いながら脈打っている。肌はところどころがひび割れ、焼け爛れたように引き攣っていた。
まるで、酷い熱傷を負った肉塊そのものが意思を持ち、痛みと怒りで今も悶え苦しんでいるかのようだ。
かつて人間の腕だったことを示す名残は、かろうじて保たれた表面上の形だけ。しかしそれも風前の灯に見える。
何よりも悍ましいのは。
古舘に悲鳴を上げさせたのは、その表面に浮かぶ――無数の"目"だった。
右腕に巣食う大小さまざまな目が、血走った目が、瞳孔を震わせながらギョロリ、ギョロリと周囲を睥睨している。
責めるような、恨むような、嘲るようなその視線には、視られた者の精神を総毛立たせるような、いわく形容しがたい忌まわしさがあった。
ギュウ、と踏み潰された蛙のような声で呻く古舘に、蛇川が冷え切った声で嗤う。
「恐ろしいかね。僕の右腕は、肘の先まで鬼に喰われている。五年先か十年先か……あるいは明日か、いずれ僕は鬼に喰い尽くされるだろう。
だが、だからこそ、この拳は鬼に届く。その怨みを晴らし、無念を慰め、痛みを分かつことができる。それが僕の――」
その時、乾いた銃声が空気を切り裂いた。熱い銃弾が、蛇川の頸をわずかに撫でて後方の柱へ突き刺さる。
安田だ。全身をガクガクと震わせ、照準を蛇川に合わせるべきか明美に合わせるべきか迷っている。
「ばッ、化け物! 化け物化け物バケモノ……」
唇の両端に泡を噴きながら安田が叫ぶ。もはや正気ではない。
逡巡の末、蛇川に狙いを定めた安田。
しかし二発目の引鉄を引くことはかなわなかった。第三の標的が猛然と迫ってきたからだ――吾妻だ。畳を踏み荒らしながら、怒れる獅子のように突っ込んでくる。その巨躯からは想像もつかないほどの速さだ。
目の前に迫る脅威を排そうと銃身を揺らす安田だったが、引鉄にかけた指に力をこめるよりも早く、怒張した拳がその顔面に炸裂した。
ゾッとする音。安田の鼻が正面を向くことは金輪際あるまい。
「一度狙いを定めたら死んでも銃身をブラすな。……とまあ、これは"古女房"の請け売りだがね」
折れて飛び出た骨が突き刺さったか、右の拳から血を垂らしながら、事もなさげに吾妻が言う。
ピピ、と手を振って血を飛ばしながらジロリと視線をくれてやると、睨まれた着流し連中はソワソワと互いに顔を見合わせた。
「余計なことはするな。少しでも頭の働く奴は、手前らの主人と跡取り坊やを連れて、大人しく裏に下がってろ」
巨漢の女装家、という珍妙な仮面は捨てた。
今の吾妻は、まさしく暴力の化身であった。