六二 猫を追え!
耐え難い臭気に顔を顰め、蛇川は腕で鼻を庇った。肌から匂い立つ白檀の香りが、血と獣の臭いで侵されていくのが不愉快でたまらない。
深い知謀を宿した灰褐色の瞳は、すぐさま臭いの出処を突き止めた。平屋脇の小屋――いや、檻だ。
腐りかけの木とトタンでできた檻だった。
荒れた平屋と比べてもなお粗末な、小さな檻。その中から、微かだが生き物の気配を感じる。ひとつではない。四つから七つ。おそらくは猫。
愛玩動物として遇されているとは到底思えないその檻の周囲は、木の隙間から溢れ出したであろう糞尿でドス黒く汚れている。あるいは血も混ざっているのやも。
直視するにも覚悟を要するその檻から、実際的な臭気よりもなお強烈で胸糞の悪いもの――自分より弱いものにしか矛先を向けられない何者かのチンケな支配欲が強く臭ってくるように思われて、蛇川の目に怒りが灯った。
その目の片方を手で塞ぎ、次の行動に備える。
怒りに燃える瞳と、先を予測して常に最善の動きを取る冷静な手。激情と理性のコントラストだ。
しかし。
どれほど非情に押し込んだとしても、街中の猫をあの小さな檻に収容できるとは思えない。
そう考えて周囲に目を配った蛇川は、それに気付いた瞬間わずかに身を強張らせた。
目、目、目。
血に似た夕焼けに照らされて朱く濡れそぼった藪。その朱も届かない暗がりの方、地面近くの其処ここから、鈍く黄色に光る無数の目が蛇川を睨み付けていたのだ。
猫だ。
何十ではきかない。
百を超えるであろう猫が、目を怒りに爛々と燃やし、絶えず低い唸り声を上げながら蛇川を吟味している。先程風に紛れて微かに聞こえた奇妙な音はこれだったのだ。
蛇川は悟った。
「そう、か。お前達は……ここへ戦いに来たのだな。同胞のために」
常に生と死の狭間で生きている野の獣は、人間などよりよほど鬼の気配に敏い。その気配が小さな猫に与える恐怖はいかほどか。ましてや辺り一帯には同族の血の臭いも強くこびり付いているのだ。
それでも逃げず、どうにか隙を見い出そうとしてここにいる。小さな身体を膨らませ、恐怖に竦む脚を闘志で奮い立たせて――
実に好ましいじゃないか。
その気付きは、耐え難い臭気の中にあって、一種の清涼感にも似た風を蛇川にもたらした。蛇川は決して折れぬ魂の強き在りさまを愛でるのだ。猫など、所構わず糞尿を散らかしていくだけの迷惑な毛玉だと思っていたが、どうしてなかなか。
唇の端に微かな笑みを浮かべ、蛇川は平屋へと大股に歩みを進めた。
その動きに合わせ、波が引くようにして猫の群れが道を開ける。
酷い臭気を放つ檻の脇に屈み込み、扉を封じていた南京錠を外す。鍵は掛かっていなかった。ただ鉄の掛け金で猫の逃走を阻めさえすればよかったのだろう。
中を軽く一瞥したが、大きく身体を動かす個体はなかった。死んでいるのかもしれない。ただ、ため息にも似た細い吐息が微かに聞こえた。
「さて。反吐が出そうな小悪党の面を拝むとするか」
この惨状から推察するに、この平屋の住人は、まず間違いなく蛇川が愛でる魂の対極に位置するはずだ。つまり、遠慮は不要ということ。
立ち上がり、肩を回し、パキパキと指を鳴らして。
泥に汚れた革靴で、蛇川は平屋の戸を躊躇いなく蹴り破った。
もうもうと煙が立ち昇る。
蹴りの圧によって押し出された室内の空気が蛇川の髪を揺らす。外よりも一段粘り気のある湿度を帯びた空気だ。
血と獣臭に混じる、鼻を刺すほどの強烈な腐臭。
そして黴の臭い。
予想通り、光の差し込む余地の少ない室内はほとんど暗闇に近かった。しかし、片目を閉じておくことで予め暗闇に慣らしておいた蛇川は動じない。備えていた片目を開き、薄暗がりに沈む室内を睨み付けた。
その瞬間、蛇川の全身が総毛立った。
恐怖のためではない。
怒りと、嫌悪のために。
室内には住人の“成果物”が所狭しと並べられていたのだ。
鉄製の鉤に貫かれ、壁という壁にずらりと並べて貼り付けられた猫の首。
猫の頭蓋骨と、手脚の骨で作られた風鈴。
切り落とされた尻尾をふんだんに縫い留めたグロテスクな襟巻き。
行燈には猫の毛皮をいくつも縫い合わせた覆いが被せられている。きっと、灯を入れたら空洞になった目の部分が悪趣味に光って見えるのだろう。
猫の部品が使われているものの、おそらくは二足歩行を前提としていると思われる――人形のつもりだろうか――悍ましい剥製まである。頭頂部には黒い尾がふたつ縫い留められていて、それがおさげ髪のように見えなくも、ない。ボロ布で作った小さな着物が着せられているが、肝心の剥製には蛆が沸いている。お粗末な処理のせいで皮が腐っているのだ。
そうした“成果物”のいくつかに鉄製の長針が刺されているのを認めて、悪い推測が確信に変わった。
この、正気とは思えぬ平屋に住まう人物こそが、猫を甚振って惨殺せしめた犯人であると。外の檻に入れられた猫は、近日中に同じ運命を辿るはずの供物であったと。
知らず、蛇川は歯を食い縛っていた。
ともすれば叫び出してしまいそうなほどの激情を噛み殺し、戦慄く唇から細く息を吐く。ほとんど音すら立てない静かな息であったが、それが持つ威圧感は大地を震わすマグマの唸りに近い。これに対峙する者は覚悟せねばならぬ。
仰々しく飾られた“成果物”の奥。
一際濃い闇と臭気が澱んだ部屋の片隅にソレはいた。
大きい。
背を丸めて四つ這いになってはいるが、立ち上がれば成人男性の背丈ぐらいはあるだろう。
人か? あるいは猫か。
いずれにせよ、もはやこの世のモノではない。
「この……下劣漢めッ」
上衣のポケットに手をやった蛇川が、素早く〈鎮釘〉を引き抜いた。
「恥を知れ! 弱者を甚振るしか脳のない陋劣な下衆めが! 貴様の恐れる強者が来たぞ、鉄に貫かれる痛みをその身で知るがいい!」
蛇川の手から放たれた〈鎮釘〉が空気を引き裂き、怒りの咆哮を上げて異形の鬼に迫る!
鬼はその身の大きさからは想像もつかぬ俊敏さで釘を躱し、怒張した鞠のように蛇川へと突進してきた。
軽やかなステップで鬼の突進を避けた蛇川だったが、壁に激突したと見られた鬼は、鮮やかな身のこなしで壁を蹴って方向を変え、さらに勢いを増して再び蛇川にぶち当たってきた。
咄嗟に顔を庇って交差した腕に、深々と爪が突き刺さる。
「この動き……獣か!」
そのまま、蛇川と鬼はもつれ合うようにして平屋の戸口から外へと転がり出た。恐る恐る平屋に近付いてきていたらしい猫の群れが、シャアッと鋭い威嚇音を鳴らして後退する。
絡まり合いながら相手を組み伏せようとする両者だったが、痛む腕で敵の牙を押し留めるのに気を取られた蛇川が下に敷かれた。しかし、相手が馬乗りになった瞬間にその腹を蹴り上げて距離を取り、優位を取らせない。
まさに一瞬の攻防。
互いに飛び退って仕切り直しの体を取る。頬を膨らませ、蛇川は鋭くひとつ息を吐いた。
朱が藍に塗り替えられゆく空の下、ついに鬼の姿が明らかになった。
それは浮浪者じみた男だった。
垢と脂で束になったざん切り頭。
粗末な着物も同じく垢と脂に汚れている。
整えもせず伸び散らかした髭と髪の境目は判然とせず、額に張り付いた髪の隙間から脂下がった目がギョロリと蛇川を睨み据えている。
しかしそれは同時に猫でもあった。
両手脚を床につき、高々と尻を突き上げた威嚇姿。
怒張して膨れ上がった身体は、猫が毛を逆立てているかのよう。
片手を軽く宙に浮かし、脚先に体重をかけたその姿勢は、獲物の筋肉の強張りを認めた瞬間に飛び付くための狩りの構えだ。
指先に生えているのは爪ではない。
鈍い光を宿すそれは、薄明かりを受けて黒く輝く鉄針だった。
ヒトと猫の魂が混ざり合っているのだ。
鬼となったヒトが猫を喰らったのか、あるいは鬼となった猫がヒトを喰らったか。どちらにせよ、歪で哀れな形をした鬼だった。
このままでは猫も彼の世に逝けまいて。
ここ最近は鳴りを潜めていた蛇川の暴力的衝動が毛穴という毛穴から噴き出した。ドス黒い感情が全身を駆け巡り、細胞を熱し、鼓動を早める。鹿皮の手袋に包まれた十指が意思と関係なく蠢く。
蛇川の唇が凶悪な三日月状に吊り上がる。
「来い。嬲られる恐怖を教えてやる」
紅い唇から粒だった白い歯が覗く獰猛な表情。
まごうことなき捕食者の笑みだ。
その笑みがもたらす強烈な気迫に押し負けたか、誘われるように鬼が地を蹴った。
速い。裸足の指が泥濘をうまく捉え、矢のように一直線に飛び掛かってくる。狙いは蛇川の喉笛だ。
しかし。
蛇川は体重を右に預けるわずかな動作で易々と狙いを逸らすと、通り過ぎざま、鬼の横っ面に拳の一撃を叩き込んだ。
腰の捻りを乗せた痛烈な一打。
それは鬼の左頬を的確に打ち抜いた。
「……まずはひとつ」
振り抜いた拳をゆるく握りしめたまま、蛇川がゆらりと上体を起こした。沈みゆく夕陽がその背を濡らし、長い影が伸びて、蹲る鬼を呑み込んでゆく。
「貴様が弄んだ命の数だけ、貴様の骨を砕いてくれる。これは僕なりの弔砲だ。震えて数えるがいい」
これが強者の一撃だ。
覚悟ある者の一撃だ。
骨が軋む嫌な音と共に――パチリ。
どこかで、秘密箱のピースが嵌る音がした。




