六一 猫を追え!
いざ取り組んでみると、消えた猫の痕跡を追うのは想像よりずっと楽しかった。
乾いた路面に猫の足跡を見出すことは極めて難しい。体重が軽すぎるからだ。石畳やアスフハルトが敷かれていれば論外だ。
必然的に糞を追うことになるのだが、これが意外に奥深い。
表面の乾き具合や蠅の卵の有無、またそれの成長度合いなどを見ればいつ頃の糞かは大体予測がつくが、それで満足しないのが蛇川だ。糞が落ちている場所の日当たりや風の通り、湿度はもちろん、排泄から今日に至る期間の天気まで加味して素早く正確に判断していく。蛇川にとってはほとんど遊びの範疇だ。
さすがにその落とし主がミケかそうでないかまでは分からないが、猫の気配を辿っていけば、いずれかの群れにミケもいよう。
植木鉢や天水桶の脇を覗き込んで「ほうほう」「なるほど」と嬉しそうな声を上げ、猫の糞を突ついて回る美丈夫の姿はさぞかし奇異に映ったことだろう。人通りの少ない早朝のうちはまだ良かったが、街が活気付く頃になると蛇川の周りがざわつき始めた。
「何ぞお探しですか」
その背に声をかける者があった。振り向くまでもない、声の主は蛇川が懇意にしている古本屋の主人だ。蛇川は手にしていた枝を投げ捨てて立ち上がり、ぐぐっと緩慢な動きで腰を伸ばした。
「なぁに、猫ですよ。可愛がっていた野良が姿を消したというのでね」
「猫……ああ、そういや最近はとんと見ませんな。どこぞで風が強く吹きでもしたのやら」
蛇川は薄く唇を吊り上げた。悪くない洒落だ。
「しかし当道座は明治に解体されましたからな。今の世じゃ盲の飯の種は大抵が按摩か鍼灸師です。風が吹いたところでそうそう猫は消えませんよ」
ましてや街中の猫がだ。三毛猫のみならず、黒も白も、老いも若きもまるで見当たらない。
気配すらないのだ。蛇川の調べでも、結局『いわた』周辺では五日以内と見られる痕跡は見つからなかった。
古本屋主人と別れ、捜索の足をさらに伸ばす。
より新しい痕跡を追っていけばいずれ必ず猫に出会すはずで、実際、糞を辿った先で何度か野良猫を見掛けることもあったのだが、ミケなる猫の姿はなかった。
「蛇の旦那ァ」
続いて声をかけてきたのは満ツ前銀次だ。T型フォードのハンドルに片手を置き、切りっぱなしの短い髪を風に遊ばせている。
慣れた手付きでハンドスロットルを戻し、あちこちを覗いて回る蛇川に車体を寄せる銀次。フォードの運転、とりわけ発停止の際には手足を同時に動かさねばならず、二本のレバーと三本のペダルをうまく使い分ける技術が求められるが、さすが器用な男である。
「何ですの、物陰ばかり覗き込んで。猫でも捜したはるんですか」
「まさにだ。若い雌の三毛猫なんだが、見ないか」
「んにゃ。お困りでしたら若い衆使って捜させましょか?」
「それには及ばん。だがもし見掛けたら教えてくれ」
「承知しやした」
小気味よく短い会話を交わすと、両手足を素早く動かして流れるように再発進していく。本当に急いでいるらしい。タイヤに巻き上げられた砂利が立てる砂煙だけが後に残された。
そのうち。
猫がすっかり消えてしまった場所とそうでない場所が明確になるにつれ、猫の消えた場所が一本の道状になって蛇川の眼前に浮かび上がってきた。
きっと、この道を何者かが歩いたのだ。
そして猫共は、その何者かに惹かれるか、攫われるかしていなくなったに違いない。
既に太陽は天頂にあったが、蛇川は構わずその道を辿り始めた。昼飯はしばしお預けだ。
◆ ◆
その後も観察と共に足を進めていた蛇川だったが、やがて糞を追うのをやめてしまった。
必要がなくなったからだ。
今や、糞などと不確かな痕跡よりもはるかに明確で分かりやすいモノ――鬼の気配が、蛇川を先へと誘っていた。
右腕の鬼が目という目を震わせ、ゲタゲタと厭気のさす嗤い声を上げる。早く行け、先へ進めと蛇川を急かす。同胞の気配が右腕の鬼を通して蛇川を手招きしているかのようだ。
藪を突ついて蛇を出す、という諺があるが。
「糞を突ついて……」
ふと思い付いた言葉が口をついて零れ落ちたが、莫迦々々しくなって途中でやめた。明らかに駄洒落だ。
しかし、失せ猫を捜すだけのはずが、まさかこんなことになろうとは。
いつしか蛇川は築地の外れまで来ていた。
埋立地を過ぎた頃から辺りは湿地になっており、泥と瓦礫の入り混じった灰色の泥濘が否応なく革靴を汚していく。築地川から分岐したと見られる細い流れが蚯蚓のようにのたくり、それが地面に湿り気を与えているのだ。
泥濘には猫の足跡がくっきりと残されていた。
いったい何匹がこの道を行ったのだろう。その中にミケもいたのだろうか。到底判別もできない無数の足跡を見下ろし、蛇川は渋い顔をした。行く足跡は無数にあるのに、戻る足跡はひとつもない。ますます嫌な感じだ。
薮の隙間から立ち上がる蚊柱。顧みる者もなく棄てられたバラック。潮と川、それに腐った木材の臭いが入り混じった生温い風が頬を撫でる。
同じ築地といえども、中心部の華やかさ煌びやかさとは無縁の場所である。ここにもまた、明治大正という時代の性急さが生じさせた光と闇が澱んでいるかのようだ。
風が強く吹いている。
唸る風が藪の中を通り抜け、頭上まで伸びた葦が揺れてカサカサと乾いた音を立てる。その物悲しい音が寂れ具合を一層助長させている。ここは何もかもがうら寂しい。しかし、蛇川はなおも歩を進める。
其処ここに点在していたバラックも、ここへ至るまでにすっかり姿を消していた。
が、一軒だけ。
ほとんど廃屋のような、傾いたトタン屋根の平屋がひとつ、忘れ去られたようにポツンと建っていた。
湿気で腐り、指で突つけば貫けそうなほどに弱々しい板壁。潮に焼けてひしゃげたトタン。窓は極端に小さく、こんな街外れにあってなお人目を憚っているかのよう。
家の周辺に撒かれた白っぽい砂が、泥濘に抵抗せんとした住人の努力を。しかしその大半が黒ずみ、すっかり泥濘と同化している様が、その抵抗が徒労に終わったことを空しく物語っている。
なんとも憐れみを誘う平屋だった。
夕暮れの中だ、粗末な家の中は真っ暗に違いないが、灯りが入れられる気配はない。しかし平屋のぐるりは足でよく踏み固められていて、何者かが今もそこで暮らしていることは明らかだ。
両手で藪を掻き分けながら、これまでとは打って変わって慎重な足取りで平屋に近付く蛇川。
一層強まる鬼の気配が、この平屋こそが道の終点であることを声高に訴えていた。唸る風の音に混じって、何か不快な唸り声のようなものが低く微かに響いている。
ふと向きを変えた風が、潮でもなく、腐った木材が発する饐えた臭いでもない、別の臭気を運んできた。
「……どうやら、ここの住人とは仲良くできそうもないな」
それは、手で触れてしまえそうなほどに濃密な獣臭と。
幾重にも重なり、澱み、染み付いて、もはや呪いそのものと化した血の臭いだった。




