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骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第一章 銀座綺譚
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六十 猫を追え!




 カウンターに並んで座る蛇川とくず子の前に、軽やかな音と共に湯呑みが置かれた。

 中身は暑気払いの麦湯だ。丁寧に炒られた新麦の芳ばしい香りが心地よく鼻をくすぐる。蛇川の前には続けてライスオムレツも供された。


「そういやあ、最近お前さんの連れを見かけんな」


 ところてんを頬張りながら山岡が言う。

 蛇川は麦湯をぐいとひと息に呑み干し、湯呑みをくず子の前に置いて眉をひそめた。


「連れだあ?」


「ほれ、いつもお前さんの隣に座っている巨漢の。あれぁ……結局のところ男かい? それとも、私にゃあさっぱり分かりゃせんが、女形(おやま)か何かかね」


「気になるなら本人に直接訊けばいいだろう」


「本人に訊けんからお前さんに訊いてるんだよ」


「やれやれ」と蛇川は呆れ顔で、「本人に訊けんようなことを他人に訊くな。後ろめたさがあるなら口に出すな。あんたも詮索されて赤っ恥をかきたいか?」


「よっ、よせ!」


 山岡はバッと両腕を交差して顔を庇った。


「お前さんのその目にゃ敵わん! 本官には守秘義務ってもんがあるんだ!」


「ハ! だったら黙って空腹を慰めておけ。ご内儀の機嫌はしばらく晴れんぞ」


 掴みどころのないやり取りではあるが、しかし山岡にはその言葉の真意がしっかりと伝わったらしい。しおしおと肩を落としてところてんを噛み締めている。蛇川の前でうっかり余計なことを言えば、倍以上になって手酷いしっぺ返しが返ってくるのに、懲りない男だ。


 その会話を聞くでもなしに耳で拾っていたりつ子が「見かけないと言えば」と口を挟んだ。


「最近、全然ミケを見かけないわ。くず子ちゃんは?」


 問われたくず子がおかっぱ頭を横に振る。


「ミケ?」


「この辺りにいる野良猫です。きれいな三毛猫でね、すごく人懐っこいの。くず子ちゃんと一緒に、うちで出た魚の切れ端なんかを時々分けてあげたりなんかしてて……仲良しなのよ。ね。両目の上に薄茶の(ブチ)があって、それが眉毛みたいで可愛いんだぁ」


「あいつかッ!」


 思い当たる節があった。

 蛇川の住まう『がらん堂』は『いわた』が入居するビルヂングの二階にある。出入りにはビルヂングの脇をすり抜け、建物と建物の間にひっそりと佇む入り口を使うのだが、その、ビルヂング脇の小路によく(フン)をしていく忌々しい猫がいるのだ。見かけた時に何度か蹴飛ばしてやろうと試みたが、素早く身を躱されて当たらなかった。若い雌猫だった。


「心配だわ。お腹を空かせてやしないかしら。あの子、小柄だから、カラスに虐められてるかも……」


「猫は死期を悟ると姿を消すと聞く」


 と、なんの後ろめたさもなく知識を披露した蛇川だったが、その場にくず子もいることを思い出して、


「あるいは仔を産むのに適した安全な場所を見つけでもしたのやもしれん。ま、そのうちまたふらりと現れるさ」


 慌ててそう付け加える。口に出してから後ろめたさを覚える場合もある、ということだ。

 一週間ほど前、鉄製の長針を七本も刺されて惨たらしく殺された猫がいた、という手札もあったが、こちらはさすがに呑み込んだ。あまりに剣呑過ぎる。


 その後話題は芝大神宮の話になり、季節の話になり、梅雨の入りに起きた神田川の決壊の話になり、ミケのことは種々の会話の波に押し流されていったが、蛇川の形のいい頭蓋には若い雌猫の失踪話が丁寧に仕舞い込まれた。

 くず子が寂しげな顔をしていたからだ。その憂いを晴らす手伝いをするのは気が進まなかったが――子供であれ、女が喜ぶ場所は人混みと相場が決まっているので――猫を捜す程度の事ならば蛇川にもできよう。


 麦湯片手にライスオムレツをかき込みながら、そんなことを考えている。



 ◆ ◆



 蛇川はいつも大抵ソファで寝る。

 奥の自室には立派な布団があるのだが、もう何年も敷いていない。わざわざ出すのが面倒くさいのだ。起きたら今度は布団を上げねばならぬとくればなおさら。


 ソファは買い求めた際に三人掛けと聞いていたが、実際には大人四人が座れてしまう大きさなので、長身の蛇川が横になっても不便はない。山積みにしてあるクッションから適当なものを選び、抱えて眠るのが癖で、一度寝付くと朝までほとんど身動ぎもしない。


 まだ薄暗いうちに起き上がり、小ぢんまりとした台所へ行って水を張る。大きな盥、小ぶりな木桶、湯沸かし用の薬缶にそれぞれ今日一日分の水を溜めるのだ。蛇川が台所に立つ唯一の時間である。


 水を張っている間にくず子の自室の様子を伺う。

 さしもの蛇川といえども、ドアを開けて寝姿を見るような無作法はしない。が、空気の揺らぎや微かな衣擦れの音からおおよそのことは見て取れる。


 変わりがないことを確かめると、寝起きの着流し姿のまま風呂敷を抱えて『がらん堂』を出て行く。

 風呂敷には新しい肌着が一式、それに洗面用具が包まれている。前夜のうちにくず子が綺麗に畳んで包んでおいてくれたものだ。


 それを片手に馴染みの銭湯へ行き、朝一番の湯に浸かる。湯の回転が遅いため、朝の新湯(あらゆ)といえども湯には昨日の余韻が残っているが、それでも、早朝の光の中で誰もいない湯船に浸かるのは気持ちがいい。

 それに、右腕は指先から肘の辺りにかけてまでひどい瘢痕拘縮(ひきつれ)――もとい、平時は目蓋を閉じている鬼――に覆われているうえ、右胸の辺りまで奇妙な模様の刺青が入っているため人前に肌を晒すことを嫌う蛇川にとっては、一番風呂は実に都合が良かった。稀に、早起きして瓦斯(ガス)栓を閉めて回った後の煤けた点灯夫や、逆によっぴいて働いていたらしい明らかに堅気でない男などと一緒になることもあったが、大抵の場合は湯船を独り占めできる。


 湯に浸かり、糠袋(ぬかぶくろ)でくまなく全身を磨き終えると剃刀を開き、軽く髭をあたる。いくら剃っても夕刻にはもう無精髭が伸びている吾妻とは違い、さして髭の生えない体質だが、習慣として根付いているのだ。


 銭湯から出ると足早に一度『がらん堂』に戻り、手早く身支度を整える。


 しなやかな肉体を柔らかく包む、いかにも上質な三つ揃えスーツ。

 手製の香油で軽く撫で付けた(はしばみ)色の髪。

 血の巡りが良くなったことで鮮やかさを増した唇の朱が白皙の肌に映える。


 いつもの蛇川の姿になると、次は朝餉だ。

 蛇川の身体は真実『いわた』でできている。昼夜のみならず朝餉もそうで、前夜に『いわた』で出た残り物と炊き置きの米をいただく。親切にも、店仕舞いしたあとにりつ子が岡持で『がらん堂』まで運んでおいてくれるのだ。残り物とはいえ量も種類も豊富だが、呑むような速さで平らげていく。せっかちの健啖家なのだ。


 食事を終えると再びドアを開け、まだ淡い微睡(まどろみ)の中にある帝都を散策しに出る。

 無論、ただ暢気に歩く訳ではない。蛇川のそれは、極めて高度な観察と実地、そして情報収集だ。


 明敏な五感は素早く現状を把握すると同時に、あらゆる変化も些細な違和感も見逃さない。

 隆盛を誇っていた白詰草が次第に褐色を帯びてきたこと。湿って重くなった風。消防屯所に貼られた尋ね人の紙、道端に落ちた吸い殻の銘柄、長らく閉まっていた質屋が再興の兆しを見せていること。ここ数日は雨も降っていないのに、玄関口に傘が広げられたままいる長屋……


 ほとんど毎朝こうした実地を重ねているのだ。それも半ば無意識に。並の人間が蛇川真純とまともに相対できようはずがない。


 昨日、山岡は蛇川に情報を与えまいとして必死に身体を隠していたが、彼が店に入って席に着く頃にはもう、女遊びが露見して内儀をこっぴどく怒らせてしまい、夕餉も朝餉も出してもらえず空きっ腹で長屋を追い出されたことなどとうに読み取られていた。いつもの定食では量が足りず、安価で腹持ちのいいところてんを食べていたのはそういう訳だ。


 しかし今朝、蛇川の意識は一点に絞られていた。猫だ。


「確かに古いな」


 ビルヂングを出てすぐの小路に立ち、蛇川が独り言ちる。


 草の上に残された糞は乾いて土塊(つちくれ)のようになっており、軽く見積もっても五日は経っていると思われた。しかし新しい糞は見当たらない。真実行方を眩ませているらしい。


 居て迷惑、消えてなお迷惑とは厄介な猫だ。

 忌々しげに革靴の底で砂利を蹴り、蛇川は三毛猫を追い求めて朝の銀座に繰り出した。



 

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