六 童喰らう鬼
そう時間を置かず、古舘の妻子を伴って安田が戻ってきた。
顔は蒼白だが、安田に肩を支えられながらも自らの足で歩く清一の姿を見て、吾妻は人知れず安堵の息を漏らした。蛇川の「少しは熱が引いた」という読みは正しかったのだろう。どんな理由であれ、子供が苦しむ様はなるべく見たくないものだ。
清一と安田、距離を置いて明美が並び、その後ろに続いて新顔の男達がぞろぞろと座敷に入ってくる。その数、六人。揃いも揃って薄汚れた着流し姿で、襦袢もつけず、いたずらに素肌を露出している。これ見よがしに懐から匕首を覗かせる者すらいた。
男達はニヤニヤと下卑た笑いを浮かべて吾妻を品定めしていたが、一方の吾妻は視線をそちらに遣りもしない。置物のように静かに正座し、蛇川のやや後方で控えている。
清一は四歳という年齢よりもさらにおぼこく見えた。長患いで手脚が痩せ細り、顔に覇気がないためもあるだろう。可愛げのある顔立ちをしているが、頬は痩け、唇は渇き、丸い目で不安げに正体不明の珍客達を伺っている。
後妻の明美はといえば、これがなかなか堂々としたものだった。
和装より洋装が似合いそうな若い女であったが、屋敷に合わせてだろうか、白練に藤模様の小紋を纏っている。気の強そうな吊り気味の目、自信を滲ませる丸い額に、銀杏返しに結い上げた髪には珊瑚の簪。
持ち上げた袖口で鼻先を覆っているため顔の下半分が隠れているが、まず相当に美しい女と見えた。その女が、濡れた目で真っ直ぐに蛇川を睨み付けている。
蛇川もまた、明美から目を逸らさなかった。いや、逸らせずにいるらしかった。
先程の激昂ぶりは嘘のように消え去り、締まりなく口を開き、右腕を押さえ、驚愕とも困惑とも取れぬ色を瞳に浮かべて瞬きもせず、食い入るように明美を見つめている。
様子のいい男女が、言葉もなく見つめ合う。
そのまま一枚の絵になってもおかしくない情景なのに……なぜだろう。無性に不安を掻き立てられるような、無意識に筋肉が強張るような……
忍び寄る緊張感にもまるで気付かずにいるのが古舘だった。明美が現れた途端、人が変わったように呆けてしまった蛇川を見てニヤリと唇を歪める。どうやら、下衆い勘繰りをしたものらしい。
「どうだ、骨董屋。いい女だろう。ダンスホールでも飛び切りの売れっ子でな……儂も随分と金を積んだものだ。
前の妻は――千寿子といったが――下膨れのいかにも田舎じみた女だったが、明美はいいぞ。肌が瑞々しくて締まりもよくて……こう、吸い付いてくるようでな」
息子が同席しているというのに、平気で猥雑な言葉を囁く古舘。それが聞こえているのかいないのか、蛇川はまだ明美から視線を外さない。
本当に心を奪われてしまったのだろうか。右腕を押さえたきり身動ぎもしない。
やがて、唇を軽く湿らせると、ようよう小さな声で独り言ちた。
「そう、か。そうだったのか。僕は前妻が肝かと思っていたが……渦の中心にいたのはあんただったか」
そこでようやく古舘に目をやると、
「古舘さん。残念だが、とうに手遅れだったようだ」
「……はぁ?」
「御内儀のことだよ。お悔やみ申し上げる」
言うが早いか、スーツの胸元から何かを取り出した蛇川が、目にも留まらぬ速さでそれを明美に投げ付けた。
鉄釘である。三寸(およそ10cm)はあるだろうか。
古舘も、清一も、安田や着流しの破落戸連中も、吾妻でさえもすぐには反応し得なかったそれを、しかし明美は易々と片手で弾き落とした。しかし……
ギィン!と硬質な音が鳴る。
放たれた釘は一本ではなかったのだ。
立て続けに投げられた二本目の鉄釘は、狙い過たず明美の眉間に深々と突き刺さった。
「ぎいゃあああぁぁッ!」
「こッ、骨董屋! 貴様いったい何を!」
額から釘を生やした若き愛妻を見て、古舘が半狂乱で悲鳴を上げる。
頃合いだ。置物のように動かずにいた吾妻が、眠りから醒めた獣のようにゆったりと腰を上げる。その様子を見て、安田と着流し連中も慌てて立ち上がった。手に手に匕首や寸鉄を構えるも、突然の事態に気が動転したか、その手はひどく震えている。
「あ……明美お前……ああ、ああ……なんということだ」
「お、お母さま!」
全身を戦慄かせながらも明美に歩み寄ろうとする、古舘と清一。その足を蛇川の大喝が竦ませた。
「莫迦者ッ、よく見ろ! これが貴様の女房に、母親に見えるか!?」
天井を向いて大絶叫した後、糸の切れた人形のようにダラリと両腕を垂らしたまま動かなくなった明美。
焦点を失った黒目がブルブルと震え、紅を引いた唇からは涎が一筋垂れている。ゴボ……ゴボ……と湿った音を立てながら呼気が喉を通過するたび、明美の中から"何か"がこぼれ落ちていくのを感じる。白目に走る無数の血管が、端の方からドス黒く色を変えていく……
「白檀を焚くようになってから、明美は決して清一に近付こうとしなかったろう。さっきだってそう……支えが必要な清一に手を貸しもせず、距離を置くばかりか、臭そうに鼻を覆ってさえいたではないか。
なぜか分かるか? 清一が、白檀の香りを強く纏っていたからだ。
仏事にも使われ、心身を清める作用のあるあの香りはな……"鬼"にとっては、それはもう耐え難い悪臭なのだよ」
パチリ。
何かが嵌まる音がした。
秘密箱のピースが、正しい位置に嵌まった音やもしれぬ。
途端に、まるで薄氷を踏み割ったかのように、明美の美しさが音を立てて崩れ始めた。
額からは墨よりも黒くドロドロとした粘性のものが溢れ出し、白粉の肌を汚しながら流れ落ちていく。ギチギチと耳まで裂けた唇がカパリと開き、中から太く赤黒い舌が這い出してくる。眼窩が窪み、白目が盛り上がる。白く長く、細かった腕が、節くれだった古い木の幹のように変質する。障子をぶち破って飛び込んできた黒い靄――古舘が見たのはこれだろう――が明美だったモノに纏わりつき、ひとつとなる。
焦点を取り戻した黄ばんだ双眸が、ギョロリと蛇川を睨み据えた。
「これが鬼だ。鬼の姿だ。
ヒトの醜く穢れた情念が積もり積もって鬼と成る。
残念だがな、古舘さん。あんたの息子を取り殺そうとしていたのは、自らの穢れと前妻の怨みによって鬼と成り果てた、愛しき明美夫人であったのだよ」
明美が――いや、鬼が吼えた。
野獣とも嬰児ともつかぬ、刺々しく、禍々しく、金属を引き裂くような甲高い叫び声が、古舘邸を芯の底から震えさせる……