五九 猫を追え!
「ごめんお父さん、遅くなっちゃった!」
『いわた』の障子戸を慌ただしく引き開け、りつ子が店にパタパタと駆け込んできた。後ろに続くくず子が苦笑がちに戸を閉める頃、りつ子はもう三角巾を手に取り、綺麗に結い上げた髪に巻き付けている。
今日は夏越の祓だ。
夏越の祓は六月の晦日に全国各地の神社で行われる神事で、半年分の穢れを落とし、残る半年の無病息災を祈願するのが慣わしだ。
ここ数年、夏越の祓の日には、りつ子とくず子は連れ立って新橋にある芝大神宮に出かけ、揃って茅の輪くぐりをするのが恒例となっていた。その間、店は亭主一人で切り盛りすることになるが、それで料理の提供が多少遅くなったところで文句を言う客は『いわた』にはいない。あの蛇川でさえ、だ。
なにせくず子が同道しているのだ。本来ならば蛇川がなすべき子守役をりつ子が買って出てくれているわけだから、文句など言えようはずがない。もっとも、当の娘達はただ友人同士で楽しく遊んでいるだけなのだが。
「はいこれ、お土産。新生堂の切腹最中! あたしは我慢できなくて帰り途でひとつ食べちゃった、えへへ。山岡さんにも、はい」
手早く仕事姿に着替えたりつ子が、常連客に最中を配って回る。いつも「白鷺さま」こと蛇川目当てで居座っている追っかけ連の女達にも、「『いわた』を贔屓にして頂きありがとうございます」と愛想よく配っていく。
蛇川に可愛がられているため(と追っかけ連には思われているが、実際にはただ揶揄われているだけだ)女達から妬まれがちなりつ子だが、こういう気配りを卒なくこなすため憎まれてはいない。うまいのだ。根っからの商売人気質がさせる業か。あるいは生来の人たらしか。
新聞を読む蛇川にも、最中がひとつ差し出された。
カウンターに最中を置き、にこりと笑いかけるのはくず子である。常には吾妻が座っている席に腰掛け、脚をぷらぷらと遊ばせている。くず子の笑顔と最中を交互に見遣り、蛇川は困ったような微笑みを浮かべた。
「甘い物は好かんと言ってるでしょう。あなたはいつも口癖のようにそう言うけれど」
これに耳聡く反応したのはりつ子だ。
「蛇川さん、『そう言う』って?」
「甘い物は心を解すと言うのだ」
「その……誰が言ったの?」
蛇川は心持ち目を丸くした。一瞬、虚を突かれた様子でいたが、何でもないように「ああ」と応じる。
「この人の婆様がね。口癖だったんだ」
「へえ、くず子ちゃんのお婆様! 蛇川さん、お知り合いだったんですね。なんだか安心したぁ、そういうお話全然聞かないもの。じゃあ、お婆様のご紹介で蛇川さんのところへ? お婆様も帝都に?」
「あのねえ、りつ子くん」
蛇川がゆるゆるとため息をつく。
「お節介も過ぎれば詮索だぞ。あんたとて無闇矢鱈に詮索されたくはあるまい。
たとえば、そうだな……芝大神宮を詣でている途中で若い男に声をかけられ、浮かれ気分で出店に立ち寄りアイスクリンを食べたはいいが、いざ帰ろうとするとむくりと罪悪感が顔をもたげたために慌てて手土産を買い求め、しかし女の甘味への欲求は留まることを知らぬものだから道中さらに最中をひとつパクリとやったことなど、あまり周囲には知られたくないものだろう」
「なっ、なっ……」
「な? 余計な詮索は野暮だ」
事もなさげに言い放ち、嫌々最中を一口齧って「やはり甘すぎるよ」と眉をひそめる蛇川。
いたたまれないのはりつ子だ。
「なんで知ってるの! まさか尾けてたわけ?」
「莫迦言え、そんな暇があるものか。第一、相撲が観れるならいざ知らず、くだらん神事のために人混みになど、頼まれたって行きたくもない。今言った程度のことなら、少し観察すれば誰にだって分かるさ」
のっそり立ち上がった蛇川がりつ子の背に手を回し、その腰元の帯から千代紙で作られた風車を抜き取った。
「気取られぬよう帯に差された風車からは、軟派な若者の存在が見て取れる。帰宅したあんたの声がいつも以上にはしゃいでいたことも、男に声を掛けられて浮かれていたと考えれば納得だ。英吉利結びなどしているから軟派者が寄ってくるんだよ、小娘が色気付きやがって。
最中の買い食いはあんた自身が白状したもの。出店に寄り道したことは、参詣にかかるおおよその時間と帰宅時間を照らせば簡単に推測できる。そこで何を食べたのかは、六月とは思えぬ今日の暑さから涼を求めたくなる心情と、何より――」
と言いつつ、今度はりつ子の顔に無遠慮な手を差し伸ばし、口元を親指で乱暴に拭いながら、
「十八にもなってだらしがない。口元にミルクの跡がついているんだ。大人の女を自称するなら手鏡ぐらい持ち歩きたまえ……あ、そうだ」
言うが早いか身を翻し、さっさと『いわた』を出て行った蛇川だったが、じきに戻ってきたかと思うとりつ子の胸元に何かを押し付けた。
りつ子はまだ呆けたままだ。あまりに短時間にいろいろな事が起こりすぎて、驚けばいいのか怒ればいいのか、それとも恥じらえばいいのか脳が判断しかねているらしい。
「ちょうどいい手鏡があった。やるよ。こいつで少しは身嗜みを整えなさい」
革手袋で荒々しく擦られた口元がヒリヒリと痛んだが、無理やり押し付けられた物に目を落とすとりつ子の唇が柔らかく綻んだ。
「……きれい」
「げえっ! 骨董屋、そいつは……」
横から泡を飛ばしてきたのは山岡だ。
なぜなら、りつ子が手にした手鏡――見事な寄木細工が施されたそれは、あの香津太夫が所持していた手鏡だったのだ。どさくさに紛れて蛇川がそれを持ち帰ったことには目を瞑っていたが、まさかりつ子に渡るとは。
「心配はいらん。今はもう、ほとんどただの手鏡だ。悪さはせんよ」
「しかしだなあ……」
「くどい。僕はその道のエキスパアトだぞ。その僕が大丈夫だと言っているんだ、あんたごときが口を挟むことじゃない」
鬼と化した香津太夫の恐ろしさ、悍ましさ。燃える吉原に引き摺り込まれたあの夜の恐怖が眼前に蘇り、山岡はブルリと小肥りの身を震わせた。
そんなことは露ほども知らぬりつ子は無邪気なもので、鏡に己を映したり、寄木細工をうっとり見つめたりして喜んでいる。
蛇川がりつ子に躊躇なく触れられるのは、りつ子を子供扱いしているからだ。腰や胸に伸ばされる手付きにも――さっきは抱き寄せられるかと思って微かな期待に身を強張らせたものだったが――山岡のような助平心が微塵もない。
それが情けなくて、でもそう感じることがなぜだか無性に恥ずかしくて、蛇川の前ではつい感情の上がり下がりが激しくなってしまうりつ子であったが、その手鏡は少女の心を優しく慰めてくれるようだった。
「ありがとう、蛇川さん。嬉しい」
やがて頬を染めて手鏡を胸元に仕舞い込むと、りつ子は弾むような足取りで食器を片付けにかかった。
カウンターには、忘れ去られた風車がポツリと寂しげに置かれている。




