五 童喰らう鬼
「今時珍しいな」
悠然と伸びるうだつを見上げて蛇川が呟いた。
江戸時代まで、わが国の建造物はその大半が木造だった。そのため、地震や水害もさることながら、最も恐れられたのが火災である。なにしろ、狭い土地に小さな家々――つまり、よく乾いた木材が身を寄せ合っているわけだから。
うだつは火事の延焼を防ぐことを目的とした設備兼装飾だ。ひと昔前まで、ある程度大きな屋敷では必ずといっていいほど見られたものだったが、西洋の文化を取り込み、石造りの建造物が増えた昨今ではめっきり見かけなくなっていた。
そのうだつが、曇天を背負って高々と聳え立っている。運良く流しのタクリー号(初期の日本製タクシーの俗称)を見つけて乗り込み向かった先――古舘邸は、純日本風の巨大な邸宅だったのだ。
今や装飾的な意味合いしかなくなったうだつを、それも必要以上に大きなものを備えた屋敷は、主人の浅ましい虚栄心を世間に見せつけるかのようだった。
ポケツ(ポケット)に手を突っ込んだ蛇川が、うだつからタクリー号へと視線を移すなり怒声をあげる。
「吾妻ッ! まだかッ!」
「尻が……」
がなり声に急き立てられて、タクリー号から吾妻がまろび出てくる。
尻を押さえて呻くその姿は、過日『いわた』で見せた和装から洋装へと様変わりしている。遠目にも上等な鼠色の上下を着込み、前髪を上げ、長い癖っ毛を頸のあたりでまとめた今の吾妻を見て、平素の「巨漢の女装家」と結び付ける人間はまず存在すまい。
「タクリー号の由来も知らずに乗り込んできたのか、莫迦者め」
エンジンや車体の性能が悪く、ガタクリ、ガタクリと騒音をあげて走るから「タクリー号」。当然、振動も相当なものだ。
例の蹴り出すような歩き方でさっさと入り口に向かう蛇川の後を、大きな尻を労るようにさすりながら吾妻が追いかけた。
◆ ◆
通されたのは、屋敷の奥まったところにある座敷だった。襖を全て外せば二十畳はあろうかという大広間で、時にはここで乱痴気騒ぎが行われたりもするのだろう。
掛け軸のかかった床の間に、贅を凝らした蒔絵の文机。それでも、途中通り過ぎたいかにも成金趣味な応接間よりはかなり控えめだ。普通なら客は応接間に通されるだろうが――どうやら蛇川達は"あまり人目に触れさせたくない客"と判断されたらしい。
事前の通達もなく現れた来訪者に、古舘は苛立ちを隠さなかった。
『がらん堂』にいる間は呆気に取られるのに忙しくて怒りをほとんど忘れていたが、そこから解放されるやいなや心頭がグラグラと煮え立ち始め、さらにはなんの音沙汰もないまま一週間も放置されたのだ。
『がらん堂』に怒鳴り込んでやりたくとも夢現だったため場所が分からず、その存在を知る人もなく、ただ怒りを溜め込むよりほかなかった古舘である。座敷に入ってくるなり吼えた。
「どういう了見だ、骨董屋ッ! 連絡もないかと思えば今度は突然押しかけやがって……」
唾を飛ばしながら喚く古舘を見ても、蛇川は臆するどころか挑発的な笑みすら浮かべた。
「おやまあ、今日は随分と威勢がいいじゃないか!
先日の『がらん堂』では粗相でもしかねん狼狽ぶりだっため冷や冷やしたが、いやはや……まるでカササギだ。外では縮こまって羽も満足に広げられんくせに、巣に戻るなりピーチクパーチク威嚇してきやがる。ハハハ!」
形のいい唇から飛び出す言葉の八割方が嫌味・罵倒・嘲笑の類いの蛇川である。しかも、相手が絶対に触れられたくない湿ったところばかりを的確に突く。
怒りと羞恥とで、みるみるうちに茹蛸のごとき赤みを帯びていく古舘を見ながら、蛇川が愉快そうに唇を歪めた。
「そッ……それに、その男はなんだ!」
その、と言いながら指差す先には吾妻が正座している。
着流し姿の時でも体躯の頑強さは十分に見て取れたが、肌に沿うスーツ姿になると一層その凄みがあらわになる。隙もなく鍛え抜かれた鋼のような肉体が、スーツの布地を通して威圧感を与えてくる。
少し膝を開いて正座し、柔らかく握った拳を逞しい腿の上に置いた吾妻。その顔には笑みが浮かべられているが、『いわた』で見せた人好きのする笑顔とはかけ離れている。一見静かな笑みではあるが、その実、貧弱な獲物を前にして「いつでも喰らってやれるぞ」と王者の貫禄を見せつけるかのような、肌をヒリつかせる類いの笑みだ。
「気にするほどの者でもない。それより、早速本題に入ろうではないか。
過日『がらん堂』を訪れた折に渡した香――僕が調香した特別な白檀だが――指示通り、毎日欠かさず息子の寝所で焚きしめていただろうな」
凄まじい威圧感を放つ吾妻から目を離せないまま、古舘が「ああ」と返事をする。
「結構! 確かに薄っすらと屋敷中に白檀の香りがする。
しかし……あんたからはまるで白檀が香らんな、古舘さんよ。どうも、愛息が苦しんでいるというのに、その枕元には寄り付きもしなかったと見える。まったく見上げた親父殿だよ。唯一の跡取り息子なんだ、人並みに愛情を注いでいるかと思っていたが、存外、真に愛したのは若い後添えの尻だけだったのやもしれんな」
古舘はギリ、と歯を鳴らした。当たり前だ、誰があんな場所に好んで近付くものか。
息子――清一の寝所には"何か"がいる。清一の息が日毎に細く、弱々しくなるのと呼応するように、それが次第に輪郭を持ち始めているように思えて……
アレの存在に気付いてしまってから、もう長いこと清一の寝所には近付いていない。息子の顔さえ見ていない。ここ数日は妻だってそうだ。彼女もまた、アレが見えてしまったのやもしれん。
が、他の者には何も見えぬらしい。ただ背筋に薄ら寒いものを感じるぐらいで。それで、寝所の世話も看病も、香の始末も、すべて女中に押し付けていた。
しかし、蛇川とかいう骨董屋……この男には、いつも自分の内側にあるものを言い当てられる。
まるで、妖しげな灰褐色の瞳がすべてを見透かしてでもいるかのような……
「まあ、そんなことはどうでもいい。それより、例のご子息と御内儀をここへ呼んでくれ。御内儀、などと上等な呼び方が相応しいかどうかは知らんが――ともかく、女給上がりの明美夫人のことだよ」
「……そッ、そんなことまで調べたのか!?」
その反応に、吾妻が心持ち胸を張る。
「儂は息子の病をどうにかせいと言ったのだ! 誰が身辺調査のような薄汚い真似をせよなどと……」
「必要だから調べたまでだ。帝都興産の裏の顔、従兄弟の横領、寄る辺もなく屋敷を追われた哀れな前妻と娘のこと……それと引き換えに得た息子の名が清一ということも分かっている。
秘密箱は今まさに開かんとしているわけだ。
しかし最後のピースが足りない。それを確かめるためにここへ来たのだ、清一と明美を連れてこい」
バシリ!と古舘が腿を叩いて立ち上がった。蛸が完全に茹で上がっている。
「……断るッ! お前達のような、粗野で粗暴で不愉快極まりない輩に妻を会わせるわけには……」
しかし、言い終えないうちに、風もないのに蛇川の髪がブワリと逆立った――ように見えた。それは憤怒を纏った風だった。
「『断る』!? ハ! 凡愚の成金風情が、随分と大きく出たもんだ!
言い当ててやろうか、古舘。あんたは僕が渡した白檀のありがたみを強く実感しているはずだ……清一の熱は幾分か引いたのだろう、ええ? だから突然の訪問にも拘らず僕達を屋敷に入れた。更なる改善が期待できると踏んだからだ。そうだろう?
そこまではよろしい。駄犬の吠え声は耳障りだが、僕とて目的を果たしたいのだ。少しぐらいは目を瞑ろう。
しかし……しかしだよ、古舘さん。人を頼みにしながら隠し事をするのはいただけないと、先般も忠告したはずだが? 一度ならず二度も僕の忠告を無視するばかりか……あまつさえ、僕の指示を『断る』だと?」
話すうちに、蛇川の総身がどんどん大きく膨らんでいく。
言葉も圧も、存在感までもが――まるで雷鳴轟く黒雲のように蛇川の身を包み、膨らませ、そして――
「身の程を弁えろッ、愚か者! 貴様のごとき門外漢は、ただ僕の言うことに黙って従っておればいいのだ!
分かったなら今すぐ、ガキと女を連れてこい! 手遅れになって二人を喪いたくなければな!」
渦巻く嵐は、突如怒号となって炸裂した。
屋敷中が震えんばかりの大喝だ。古舘のごとき小物がなんでたまろう。
怒りに任せて立ち上がったはずの膝から力が抜け、だらしなく崩れ落ちた体勢そのまま「や、安田ッ」と後ろに控えていた部下を呼び付ける。その声はほとんど悲鳴に近い。
安田と呼ばれた部下もまた、蛇川の気勢に呑まれていたが、小さく頷くと慌てて奥へと走り去った。清一らを呼びに行ったのだろう。