四一 廃墟ホテル
「そう邪険にしないでくださいよ。同業同士、仲良くしましょう」
大食堂を出た蛇川のあとを、嬉しげに夏見が追いかけてくる。
まるで親鳥に付き従う雛鳥だ。あるいは遊び相手を見つけた仔犬。供された食事に一切手を付けようとしない蛇川を見て、すっかり「心得のある者」と確信したものらしい。
蛇川は肩を落として長々とため息をついた。
「さっきも言ったが、僕はただの骨董屋だ。旅先で誰かと馴れ合う趣味はないし、あんたの遊びに付き合ってやる義理もないね」
「失礼な人だなあ。遊びじゃないですよ。あなた同様、僕も鬼を祓うためにここへ入ったんです。"怪しからん気配"がしたものですから」
「祓うのではない。僕は斬るのだ」
うーん、と夏見が首を捻った。いちいち仕草がわざとらしくて鼻につく。
「それの何が違うんです?」
「やれやれ」
鎮守会については話に聞いたことがある。
この国は古来より鬼の類と陰に陽に共生してきた。それぞれの領分を超えずにいれば害はないが、人の生に執着する鬼が、あるいは外道の力を求める愚かな人がたびたび境界を侵すので、その尻拭いをする人種が常に一定数存在してきた。
それは時に隠れ巫女であり鍛冶屋であり、駄菓子屋の婆あであり、骨董屋の主人でもあった。彼らは個人として人知れず鬼と対峙してきたが、より強い力と結束を求めて組織をなした集団も多い。
鎮守会もそのひとつだ。
元は郷ごとに祀られた鎮守社を護る人々の集まりであったが、徐々に組織化され、明治の神仏分離によって一度弱体化したものの、今も表向きは氏子会として存続しながら鬼を祓い続けていると聞く。
「鎮守会は集団で鬼を祓うのが常だろう。見たことはないが、祭礼の形を取るとか。なぜひとりでここに?」
「おや、ご存知でしたか! ご認識の通りです。巫覡には二種類おりまして、我々祓方が鬼を祓った後に鎮方が穢れを清めるのが普通ですが……
祓方だけでも少なくとも三人、多い時は数十名。崇徳院の怨霊を祓った時なんかは百名近くで臨んだと聞きますが――僕は花形役者なんです。鎮守会の市川團十郎というわけですよ。単独公演でも僕が看板を張ればたちまち札は完売、満員御礼」
……うざったいな。
心の声がそのまま口からも出た。
「うざったいな。自負を持つのは結構だがね、あまり自分を過信するなよ。足元を掬われるぞ」
「ご心配なく。こう見えて結構やるんですよ、僕」
「それが過信だと言うのだ。"斬る"と"祓う"の違いも分からん悪趣味な田舎坊主には理解できんかもしれんがね」
夏見がムッと顔を顰めて、花柄の肩掛けを引き上げた。どうやらこの扮装を気に入っているらしい。
「そこまで仰るならひとつご講義いただきましょうか、骨董屋さん」
「斬るのは赦しさ。しかし祓は封殺だ」
「ますます分かりませんね。なぜ鬼を赦す必要があるんです? 鬼は人に仇なす存在ですよ」
「だが鬼も元を正せば人だ。女の胎から産まれた子だ。そして人の魂は本来無垢だ、どれほどの悪人であろうともな」
夏見の眉間に険が宿る。
にわかに雲行きが怪しくなってきた。しかし蛇川は構わず持論を展開する。
「それを穢し、歪める存在があるとすれば、それこそまさに情念だ。人を鬼たらしめるのはいつだって情念なのだよ、夏見くんとやら。
ならば、その情念を斬ってやればよい。そうすれば魂も解放されて往くべき場所に往けよう。
僕から言わせてもらえば、情念も魂も一緒くたにして力尽で祓ってしまう鎮守会のやり方は、累々と続く生の営みに対してあまりに横暴だよ」
蛇川が淡々と言葉を重ねるほどに、夏見の顔色がみるみる変貌していく。少女じみた顔からは愛嬌が失せ、今や、隠しきれない怒りで醜悪に歪んでいた。
蛇川の態度に腹を立てたのではない。その言葉が、考え方が、夏見のもっとも根深い部分――それこそ、情念が澱む泥溜めの部分を踏み荒らしたらしかった。
自信と余裕を感じさせる笑みは消え去り、怒りが鼻梁に皺を刻む。
「鬼の魂も本来は無垢ですって? 笑わせないでください! あんなの……あんなのッ、見境なく人を踏み躙る、ただの化け物じゃないですか!
弱い者を嬲って、泣かせて、苦しめて喰らう……鬼に堕ちた魂に救う価値なんてありませんよ!」
「自惚れるな。僕もあんたも、ただ今この時代にたまたま肉を得ただけの魂だ。他者の魂を己の勝手な基準で断罪していい権利などあるはずがない。そもそも、無辜の魂に肉を着せ、情念を抱かせた時点で我々は皆等しく罪人だ」
蛇川が斬れば、魂は歪んだ情念から解放されて彼の世へ往ける。魂が裁かれるとしたらその先でだ。そこはもう蛇川の範疇にない。
しかし、祓えば全てが"塵"となる。情念も魂も一緒くたになって塵と化し、霧散して――長い、長い、気の遠くなるような長い時を経て降り積もり、澱み、やがてまた新たな情念と結び付いて鬼と成る。
魂が鬼の輪廻に囚われてしまうのだ。赦されもせず、悔い改める機会も与えられず、ただ罪禍を重ねていくだけの虚しい輪廻に。
要するに、鎮守会のやり方はその場凌ぎだ。
塵を散らすことはできるが、全て掃き清めるには至らない。
確かに効率はいいだろう。蛇川のように時間をかけて鬼の理を知る必要もなく、多勢で押し込めば傷を負う恐れもほとんどない。
だが横暴だ。他者の魂を弄ぶに等しい。蛇川からしてみれば、鎮守会も、このまやかしのホテルを作り上げた鬼も、その点において同類に見える。
蛇川の言うことに筋が通っていることは、夏見にも理解できるのだろう。だが感情がそれを拒絶しているらしかった。俯向き、肩を震わせながら歯を噛み締める。
「……あなたは、大切な人を鬼に奪われる悲しみを知らないから、そんな風に冷静でいられるんだ」
胡桃型の瞳が蛇川を睨む。
怒りに顔を赤らめ、唇を震わせて感情を剥き出しにしたその姿は、先ほどまでの芝居がかった都会っ子ぶりより余程好ましく蛇川の目に映った。
「僕は! 僕は……鬼に成り下がった父に、母と弟妹を殺されました。
人であるうちから酒を飲んでは母を殴り、罵り、虐げて……。ようやく、ようやく死んでくれたと思ったのに、これで皆んな幸せになれると思ったのに、未練たらしく鬼と成って家族を喰らったんです。そんな奴に赦しが必要ですか!?」
「僕とおたくらが相容れない理由はそこだ。
夏見くん、僕は、魂と情念はまったくの別物であると考えている。そして赦すのは魂をだ。分かるかね、情念ではない。実体を得るほどに膨らんだ欲は罰せられるべきだと僕も思う、だから斬る。情念を斬って魂を赦すのだ」
「……でも、結局、それは鬼への慈悲じゃないですか。僕は、鬼に虐げられる弱い人々をこそ救いたい」
「それもまた一つの在り方だ」
その時、力無く萎れる夏見の髪先を掠めるようにして何かが舞い込んできた。
蝶だ。窓の隙間からでも迷い込んできたか――いや、蝶ではない。蝶の形をしてはいるが……
「折り紙? なぜこんな物が」
まるで本物の蝶のように翅を動かして飛ぶ折り紙は、フラフラと頼りなく、しかし迷いなく蛇川の手元に収まった。
「なんです、それは。あなたも術を使うんですか」
「言ったろう、僕は骨董屋だ。骨董屋が扱うのは骨董品と決まっている。
これもそう……逢瀬が叶わぬ男女が交わした恋文を水に溶き、漉き直して作った特別な紙だ。僕が飛ばした〈女紙〉は風に乗って男の元へ。そして、帝都にいる男から今まさに〈男紙〉が舞い戻ったというわけさ。
一通しか残らなかったか。吾妻め、貴重な紙だと伝えているのに余計な落書きを添えやがって」
折りを開かれ、再び紙に戻った蝶には小さな文字がびっしりと書き連ねられている。素早くその内容を追っていた蛇川だったが、夏見が言葉もなく佇んでいるのに気付くと手を止めた。
「……少しだけ、同情するよ。鬼に大切な者を奪われた傷は癒えにくい。その死があまりに唐突で理不尽だからだ。その痛みを糧にずっと闘ってきたのだろう」
やや逡巡するように宙空を見つめてから、
「慰めになるか分からんが、僕もまあ、似たようなものでね……君と同じだ。僕も、鬼に母を」
「――え?」
「何もできなかったよ。母を喰らい、居合わせてしまった人をも喰らい……その鬼がこれだ」
蛇川が右手の革手袋の口をめくる。
わずかに覗いた素肌には、無数の目玉が痛々しく噛み付いている。血走った瞳が夏見の困惑を捉え、ヒトの理を外れた声でケラケラと嗤った。
「鬼が……! あなた、鬼憑きじゃないですか!」
「右の肘まではな。その先は入れ墨で封じている。いずれ斬るが、その前にやらねばならぬことがある。
鬼に喰われるのが先か、目的を果たすのが先かは分からんが……まあ、精一杯やってみるさ」
蛇川が革手袋を元に戻す。
悍ましい鬼の視線から解放され、夏見の身体から徐々に強張りが抜けていく。知らず、安堵のため息が漏れた。
「……苦しく、ないんですか。日夜鬼に蝕まれて」
「まあ、あまり心地いいものではない」
怒ればいいのか呆れればいいのか分からず、夏見は曖昧な笑みを漏らした。
「少しだけ、同情しますよ。あなたが鬼に成り果てたら僕が祓ってあげますね、特別料金で」
「おい、僕を鬼の輪廻に落とすつもりか。非道い奴だな」
「大切な人を手にかけてしまうよりは上等でしょう」
クルリと背を向けて、夏見がホテルの壁に手を沿わせた。とうに朽ち果てたはずの廃墟を煌びやかなホテルたらしめているモノの存在を、掌の向こうに強く感じる。
今夜祓います、と夏見が言う。静かな決意を感じさせる声だった。
「やはり、祓うのかね」
「ご講義には感謝します。でも、それ以外にやり方を知りませんから。僕はとにかく、浜野さんの魂を早く救ってあげたいんですよ。
……では。準備がありますから」
遠ざかっていく夏見の背を見送りながら、蛇川は静かに独り言ちた。
若者の熱に当てられて、少し、喋りすぎたかもしれん。




