四 童喰らう鬼
「依頼人の名前は古舘周三、五十二歳。帝都興産っていう不動産屋の社長さま」
手元の紙片に目を落としつつ報告する巨漢の情報屋・吾妻に、蛇川がフンと鼻を鳴らした。
「その程度のことは名刺にも書いてある」
「茶化さないの。
帝都興産は古舘が一代で築き上げた大会社よ。蛇川ちゃんも耳にしたことあるんじゃない? 『復興の立役者、帝都興産』って謳い文句。大震災で焼け野原になった帝都の再開発に携わって、ここ数年で急激な成長を遂げているわ。
た・だ・し。急成長なだけあって相当きな臭いこともやってるわよ、あの古狸。焼け出された住人から土地を奪い取る火事場泥棒じみたことはもちろん、寺社仏閣を移転と称して取り壊したり、立ち退きを拒む住人の家に嫌がらせしたり……こりゃ、裏でそのスジの人間とも繋がりがあるわね」
今度は吾妻がフン、と鼻を鳴らした。蛇川はチラと吾妻を見遣ったが、特段触れることもなく「それで」と続きを促す。
「息子が高熱で、というのは事実。まだ四歳の坊やなんだけど、もう一ヶ月半も寝付いたままだそうよ。遅くに生まれた待望の跡継ぎが大患いで、古舘も気が気じゃないでしょうね」
「四歳? 随分と歳の離れた親子だな。孫と言われてもおかしくない」
「二度目の結婚でようやく授かった男児ですからね。最初の結婚――まだ帝都興産が大きくなる前の苦しい時期だったけど、その時の奥さんとの間にできた子は三人とも女の子だったの」
ふぅん、と蛇川が生返事をする。こういう時には大概、彼の形のいい頭蓋に収められた脳髄が目まぐるしく活動を始めているのだ。
そんな蛇川の鼻先に、言葉もなく皿が置かれた。
中にはホクホクと湯気を立てるライスオムレツが乗せられている。大阪の人気洋食屋『パンヤの食堂』のように米を卵で包んだ代物ではない。銀座『煉瓦亭』の流れを汲む、米を具材の一部として混ぜ込んだオムレツだ。
蛇川はいつもこれしか食べない。味が気に入ったのではなく、「米と御菜を同時に食べられる」という効率性を愛しているのだ。蛇川とはそういう男である。
「大会社の社長ともなれば、跡継ぎである男児にこだわるのも頷ける。離縁の原因は、前妻が女児しか生まなかったためか」
半ば無意識のうちにライスオムレツをかき込みながら蛇川が言う。口いっぱいにオムレツを頬張っているくせ、滑舌の良さは健在だ。
蛇川の推論に、しかし吾妻は首を横に振った。
「ううん、アタシもそう思ったんだけど、今回はそうじゃないのよ」
蛇川が片眉を吊り上げて吾妻を見る。
「原因は前妻さんの従兄弟……当時まだ二十歳過ぎの、金にだらしない若造だったんだけど、これが突然帝都興産の役員に登用されてさ」
「縁故採用か。嫌われるな」
「ね。ただ、従兄弟を引っ張ってきたのは社長の古舘本人だから、誰も表立って文句は言えなかったみたいだけど……」
その時、ダン!と激しい音がした。蛇川が匙を持った手をカウンターに叩きつけたのだ。
突然の大音に、女給と客がビクリと肩を震わせた。吾妻だけは、慣れっこなのか、一寸の動揺も見せずに蛇川の面を見守っている。
「理解できん! 僕が見た古舘の姿と、あんたの寄越した情報を合わせると、出来上がるのは『短気で矜持ばかりが高い、醜く肥え太った成金の糞』だ。無能な若造を、ちょっと縁があるからといって拾ってやるような男とは思えん!」
話の流れが自分の見立てから逸れていくことに苛立ったか、蛇川がガシガシと猛烈な勢いでライスオムレツをかき込んでいく。
同時に、「食いっぷりのいい男って好きよ」と軽口を飛ばす吾妻を、射殺すような目で咎めることも忘れない。器用な男である。
苛烈な視線をカラカラと寛容な笑顔で受け止めながら吾妻が続けた。
「そう、アタシもそこが引っかかったの。でも、その従兄弟はね……実は結構苦労人なの。
もともと頭の出来はよかったみたいで、中学校に進学してね。印刷所で日雇い仕事をしながら猛勉強してたんだけど、結局、学業と労働の両立ができずに一年足らずで退学しちゃったの……若かりし頃の古舘と同じようにね」
「なるほど、若造の境遇をかつての自分と重ねたわけか。それに、中学に受かった頭脳にも一応期待はできる……と。
それで? どうせその従兄弟が何かやらかしたんだろう? おおかた、会社の金に手をつけでもしたか」
「正解! さすが蛇川ちゃん、下衆の思考を読むにかけてはピカイチね!」
「莫迦ッ! 僕は限られた情報をもとに推論を立てる能力が極めて優れているだけだ! 下衆と一緒にするなッ!」
ゴツン!と再び拳骨がカウンターに打ち付けられる。皿を割られてはかなわんと、空になった皿を慌てて女給が下げていった。
鹿皮の手袋をはめた手で頭をガシガシと掻きむしり、怒り散らす蛇川を前にしても吾妻は動じない。垂れた目を柔らかく細め、いっそ微笑んですらいる。肝が相当に太いのか、見た目通りの変わり者か。
ともかく、万事に動じない吾妻はいいとして、可哀想なのは怯え切った周りの客である。
麗しい外見とは裏腹に、蛇川はとてつもない激情家だ。荒れ狂う暴風であり濁流だ。見目の良さに惹かれて安易に近付くと、心身のどちらか、あるいはその両方に手痛い傷を被ることになる。
頼むから無闇に刺激してくれるなと、哀願にも似た視線が背中に刺さり、吾妻は苦笑を漏らした。
「……まあ、それが理由で前妻さんとも離縁せざるを得なかったわけよ。苦しい時期を共にした女とはいえ、横領犯の身内をそばに置いておくわけにもいかないからね。
別れてしばらくしてから、ダンスホールで女給をしていた明美とかいう若い娘を後添えにもらって、そうしてできた子が……」
と言って、吾妻は額に手を当ててのけ反りながら「高熱に苦しむ跡取り息子ってわけ」と繋げた。
芝居がかったその所作に、蛇川の薄い唇からシュルシュルとため息が漏れる。呆れ混じりのため息ではあったが、激情も少しは落ち着いたようだ。
「まあいい。それで、離縁された前妻はどうした。僕の見立てでは、十中八九、この前妻が今回の肝だぞ」
「うん……そうね。三人の娘と共に身ひとつで放り出されたらしいんだけど……その後の消息は不明。頼れるのは郷里の岩手ぐらいなもんだけど、わざわざ岩手まで人を遣ったってのに前妻さんの足取りは追えなかったわ。
ほら、あの辺りってすごく閉鎖的じゃない? 腹を割って話してもらうためには五日じゃとても足りないわけよ」
「フン! まあいい。大人の女ひとりならともかく、ガキを三人連れての帰郷ともなれば、普通、大なり小なり噂が立つもんだ。それが一切ないとなれば、郷里には帰っていないと見ていいだろう。あるいはあんたの腕が落ちたか」
「お言葉ね。それはございません」
「臭いものを隠したい時、あんたならどうする?」
むくれる吾妻には取り合わず、蛇川が淡々と問いかける。
「なぁに、それ。なぞなぞ?」
「ただの質問だ。あんたならどうするね」
「あら、そ。なら、先人に倣って……」
吾妻は上げ台の上にあった団扇を取ると、灰皿の上に被せた。
「こうする。『臭いものに蓋をする』ってね」
「その程度の知恵なら犬畜生にもあるさ。もう少し賢い奴ならば……こうする」
言うが早いか蛇川が手を伸ばし、同じく上げ台に置かれていた納豆の小鉢を取って、団扇で蓋をされた灰皿の傍に据えた。
置かれていた、といっても、当然無意味に置かれていたわけではなく、その納豆はカウンターの左端に座る中年男が頼んだものだ。
焼き鮭と共に配膳されるのを楽しみに待っていたのに、突如伸びてきた革手袋に御菜を奪われた中年男。「ああ……」と情けない声を上げたが、威圧的な蛇川を前にしては反論もできなかった。
吾妻は灰皿と納豆を交互に見遣り、次いで蛇川に視線を戻した。柔和な笑みが消え、やにわに真剣味を帯びたその表情にはどこか凄みがあった。
「別の臭いもので、臭いの元を誤魔化そうってこと?」
「一時しのぎであることに変わりないがね」
「……従兄弟の横領は、前妻さんを体良く追い出すための目眩しってわけね」
「そういうことだ! 吾妻ッ! 僕の読みが正しければ、このままでは帝都興産からまた新たな死者が出るぞ!」
突拍子もなく飛び出した物騒な物言いに、女給と客の背中に電流が通ったかのような衝撃が走る。
カウンターの奥で新聞を読んでいた亭主までもが、紙面からのっそりと顔を上げた。
この男はいつだってそうだ。
彼の頭脳の速すぎる回転速度にただでさえ常人は置いてけぼりを食らうのに、それを顧みようともしないからいつも言葉足らずになる。
はからずも店中の視線を集めた蛇川は、小鉢を手に取ると「わはははは!」と滑舌よく笑いながら猛然と納豆をかき混ぜた。




