三二 夜を騒がす馬車のこと
しばらく蛇川の機嫌を窺っていたりつ子だったが、やがて意を決したように、しかし足運びには薄っすら躊躇を滲ませながら、慎重に、野生動物との距離を縮めるにも似た動きでカウンターへと近付いた。その後ろにおずおずと静江が続く。
蛇川は口元に笑みすら浮かべて厨房を見守っている。だが、
「断る」
りつ子が口を開こうとした瞬間、表情は変えず、視線も向けないまま短くキッパリと言い放った。いつも通り冷え冷えとした言葉と、にこやかな表情との落差で風邪を引いてしまいそうだ。
「なっ……まだ何も言ってないじゃない!」
「言っても言わなくても答えは同じだ。断る。以上、引き続き酸素の無駄遣いに励みたまえ」
グッと言葉に詰まるりつ子に、蛇川がようやく首を巡らせた。唇は依然として弧を描いているのに、柔和さは消え失せ、常と変わらぬ酷薄な気配が顔を覗かせている。
「これは失敬! 酸素などとインテリな言葉はあんたに馴染みがなかったか。ならばそちらのご友人に聞くといい。六女は庶民向けの学舎ではあるが、教育水準はまずまずだ。そこの五年生ともなれば、大気の構成ぐらい理解しているだろうさ」
そちらの、と手で指し示された静江が目を丸くする。
りつ子は額に手を当ててため息をついた。また始まっちゃった。今日は機嫌がいいと思ってたのに。いや、機嫌がいいからこそかもしれない……
「あの……わ、私のことご存知なんですか……?」
「まるで知らん! はじめまして!
だが君は都立第六女學校に通う五年生で、五歳以上年の離れたのっぽの姉がいる。姉は器用だが一方の君は不器用なうえに注意散漫、しかし負けん気は強い方だ。静かな爆発力を秘めた性質だな。ふむ。
引っ込み思案なくせに根は頑固。学友とうまく馴染めているとは言い難く、趣味は読書で、おおかた、死んだ祖父の影響でも受けたのだろう。祖父は家族から疎まれていたが、君だけは祖父を愛していた……と、まあ、この程度のことは誰が見ても明らかだ。
そんな陰気でいかにも面倒臭そうな女と、」
と静江の顔に人差し指をヒタと据える。
「世話好きで余計なお節介を焼いてばかりの嬶じみた小娘が、」
続けて、人差し指をりつ子の顔に向ける。りつ子は噛み付きそうな勢いで歯を剥いて見せた。
「雁首を揃えて相談事を持ち掛けてきたとして、いったい誰が話を聞いてやろうと思うのだね? そんな物好きの変わり者は……」
「はぁーい、ア・タ・シ! アタシが聞いてあげちゃう」
蛇川の怒涛の口撃に、のんびりとした口調で割って入る野太い声――吾妻である。いつも通り、寸足らずの女物の長着を身に纏い、綿入りの半纏に襟巻きを二枚重ねてのご登場だ。外の寒風にやられたか、太い鼻梁の先が赤く染まっている。
静江は頭がクラクラとするのを感じた。
いったいぜんたい、なんなの、この定食屋は。火を噴くように毒を吐く美貌の男に、六尺を優に超える女装の大男。まるで異界の見世物小屋のような、現代の羅生門のような……
◆ ◆
「ああ、馬車幽霊の話。アタシもそれ知ってる、最近ちょっと話題になってるもんね」
宣言通り、静江の話を聞き終えた吾妻が、紫煙をくゆらせながら事もなさげに言う。当たり前のように市井の噂を把握しているのだ。形こそ珍妙奇怪な男だが、情報屋としての腕は確かなものである。
「はい……。もう十日になります。毎日出るんです、同じ場所、同じ時刻に。怖くて怖くて……どうにも眠れなくって、私……。それで、尋常小学校で同窓だったりっちゃんに相談しに来たんです」
「分かるぅ、相談したくなっちゃう気持ち。りっちゃんってすごく頼りになるもん。でも、寝れないのは困るよね。しんどいし、勉強に身が入らないし、お肌だって荒れちゃうし」
いかにも男らしいゴツゴツとした体躯の持ち主が「お肌だって」などと言いながら腰をくねらせる姿に、静江の背筋にゾゾゾと冷たいものが走る。
だめだめ。この人は親身になって話を聞いてくれてるんだから。
首を振り、静江は両頬を軽くはたいた。くず子が淹れてくれたミルク珈琲を飲み干し、気合いを入れ直す。
「学校は馬車幽霊の話で持ちきりです。先生が見回ってくださったこともあったんですけど、その日その時だけは静かで……でも、先生が戻られるとやっぱりまた出るんです。姿のない、音だけの馬車が……」
離れたカウンター席で、蛇川がひときわ大きなため息をついた。でも、気にしてはいられない。
「誰も馬車の姿は見たことがないのよね? 音だけ?」
「はい。でも、みんな馬車の幽霊だって確信してます。だって……寄宿舎のそばには鉄道小屋があるんですけど、先月、年が明けたばかりの時にそこで……あの、じ、じじ、自殺があって……」
「あったあった。路面電車に客を奪われて、いよいよ首が回らなくなった若い御者が、ってやつね」
「はい……」
新しい技術はいつだって諸手を挙げて歓迎される。だが、見捨てられた古い技術はどうなる? 必死でそれに従事してきた、市井のこれまでを懸命に支えてきた人々は?
さまざまな技術や文化の揺籃期であった大正の時代、華やかな技術躍進の裏で特に苦しめられていたのが馬車産業だ。
煌びやかな路面電車やバスが我が物顔で街中を走るようになった一方で、臭くて遅く、給餌も必要な馬車を喜ぶのは一部の富裕層や好事家のみとなってしまった。無論、御者の生活は極めて厳しい。
路面電車が街を走り始めた頃、客足を奪われまいと、御者達は結託して猛反発した。線路に馬糞を撒いたり、電車の前にわざと馬車を止めたりといった嫌がらせはもちろん、時には駅舎や鉄道小屋に放火するなどの暴力行為にも及んだ。しかし時代の波は止められない。
静江が話す御者の自殺というのも、こうした流れを受けてのことに違いない。せめてもの意趣返しにと、憎き鉄道会社の持ち物である小屋を最期の場所に決めたのだろう。
同情できる背景ではあるが、特に珍しいほどのことでもない。
「生活苦で命を絶った若い御者が、恨みを募らせ、死後も馬車を走らせている、と」
「そ、そうとしか思えなくて……」
その時、蛇川が椅子を鳴らして立ち上がった。声に喜色が満ちている。
「なるほど! ようやく面白くなってきたぞ。君は御者の自殺について前々から知っていたわけだな?」
我関せずを貫いていた蛇川が、ズカズカと大股にりつ子らが座る卓へと歩み寄る。
毒の香を纏った天女が近付いてくるのだ。恐ろしいような畏れ多いような心地で、静江は「ヒッ」と顔を庇った。吾妻が腕で蛇川の歩みを阻んでくれなかったら、静江の心臓は口から飛び出していたかもしれない。
「そこまで。それ以上近付かないの、アナタの顔面は若い女の子にとっちゃ凶器みたいなものなんだから」
しかし蛇川は自分が押し止められたことにも気付いていないらしい。
「知っていたわけだな? 君――ええと」
「し、ししし静江です」
「静江くん! 答えたまえ!」
「し、知ってました! 私だけじゃなく、寄宿舎中が知ってます……目と鼻の先で起きたことなんですから」
大きく頷いた蛇川は、突然、こんなことを言い出した。
「静江くん、君、旧約聖書を読んだことはあるかね?」
その場にいた誰もが呆気に取られた。
まったく。
この男の思考には、誰もついていくことができない。




