三 童喰らう鬼
西洋化の熱風吹き荒れる帝都東京・銀座。
明治初期に西から吹いてきたこの風は、大正の時代に移っても弱まる気配がなく、むしろ勢いをいや増しにしている。
煉瓦造りの洋館にはガス燈が架けられ、店先で揺れる洋風看板の前ではモダンな装いをした女学生らが立ち話に花を咲かせている。
髪を簡易島田に結い上げた女中と、シルクハットの紳士が未舗装の歩道ですれ違う。鼻緒の弛んだ下駄の音と、革靴がたてる硬質な音が交差する。腹掛けに股引き姿の職人達が握り飯を頬張る後ろで、活動写真の引札に描かれた西洋美人がニコリと微笑む。
が。白く輝くビルヂングが並ぶ表通りから一本路地を逸れると、華やかな空気は一変する。
建物は低く小汚く、表通りの立派なビルヂングの影に慄いて身を寄せ合っているかのようだ。
店の看板もまばらな一角に、その建物はあった。
三階建で灰色の雑居ビル。幅は狭いが意外と奥行きはあって、まるで化粧箱に無理やり詰められたおはぎのようだ。コンクリートが打ちっぱなしの壁は長年の風雨に晒され、ところどころに苔が滲んでいる。
その一階で、トントンと景気よく包丁の音を響かせているのが定食屋『いわた』だ。
日灼けした薄藍色の暖簾に、小ぶりの赤提灯。木の格子戸と煤けた板張りの外壁が、このビルヂングの無機質な冷たさに小さな温もりを添えていた。
中にはL字型のカウンターに、四人掛けの小さな卓が三つ。椅子は少々ガタついているが、手入れは行き届いている。
壁には色褪せた短冊メニューが整列し、鯖味噌・肉豆腐・焼き鮭などの馴染みあるメニューに混ざって、ライス咖喱やカツレツ、コロッケー(コロッケ)などの洋食も並んでいる。寡黙な亭主が作る料理は、価格のわりにどれも一級品だ。
そんな『いわた』では、昼前になるといつもちょっとした諍いが繰り広げられる。昼時になると決まって現れる、麗しの「白鷺さま」――もとい、蛇川の定位置であるカウンター最奥の席を心ゆくまで眺められる特等席を巡って、女学生とご婦人方とで席取り合戦が行われるのだ。
諍いとはいえ、その進行は極めてしめやかだ。一度、激しい舌戦に発展した際に折悪しく蛇川が来店し、雷鳴もかくやの恐るべき大喝を食らったためだ。蛇川の容赦のなさは、女子供にも分け隔てなく発揮される。
以降、女達の席取り合戦はもっぱら服や持ち物で競われるようになった。「どちらが白鷺さまに相応しいか」を、見た目の良し悪しで決着づけようというわけだ。
モダンな帽子、上等な絹の羽織、最新式の手袋の色合わせなど……主に懐に余裕があるご婦人方が勝者となったが、時に女学生らも若く瑞々しいセンスで勝ちをもぎ取っていくから油断ならない。
日に日に華美になり、落ち着いた定食屋には不釣り合いになっていく女達の姿に『いわた』亭主や女給はこっそりため息をついていたが、大切な常連客であることに変わりはない。それに、件の大喝は別として、蛇川や他の客に迷惑をかけるわけでもないので放置している。
今日の軍配はご婦人方にあがったらしい。
勝負を決めた銀細工の帯留めを指で撫でつつ、勝者たるご婦人方が特等席へ、女学生らはその隣の卓へと腰を下ろした。
呆れた様子の亭主らとは違い、その諍いを微笑ましく見守っている男がいた。巨漢である。六尺――いや、六尺三寸(約190cm)はあるだろうか。
彼もまた常連客のひとりだ。煙草を嗜みながら、ミルク珈琲とニシンの甘露煮という、およそ常人には考えられない珍妙な組み合わせをチビチビ楽しむのがお決まりの姿だ。
女物の着流しに身を包む巨漢の男がさらにもう一本と敷島の箱に手を伸ばしたその時――引き戸が開いた。蛇川だ。
平時よりやや早い「白鷺さま」の登場に、取り巻きの女達の間でワッと控えめな歓声が上がる。しかし、その歓声は蛇川の不機嫌極まりない怒声によってたちまちかき消された。
「臭いぞッ、吾妻!」
吾妻と呼ばれたのは巨漢の男である。しかし、
「やあねえ、ご挨拶」
その口から出たのは、紛れもなく女言葉だ。
地味な絣模様が浮かぶ女物の長着を身に纏い、カウンター席でしなを作って見せる吾妻。その巨躯に合う寸法の女物長着がなかったのだろう、つんつるてんの袖や裾からは筋骨隆々の立派な手脚が伸びている。だらしなく寛げた襟元から覗くのは、驚嘆すべき厚みを備えた大胸筋だ。
足元は素足に雪駄。ざんばらに伸び散らかした、癖のある黒髪。人好きする笑みを浮かべた目元には、特徴的な縦二連の泣き黒子。長年の喫煙習慣によって薄く黄ばんだ右手の指先。
ひと言でこの男を表すならば、まさに"異形"。
それで、人混みにあってもひとつ頭が飛び出すほどに目立つ巨漢なのに、その顔を正しく認識している者はそうそういない。誰も彼の顔を覗き込もうとしないからだ。関わり合いになりたくないから。
初めのうちは、さすがの蛇川もこの姿と話し口調には面食らった。しかしやがて慣れた。慣らしてしまった。
一度慣れてしまえば、意外なほどに懐の広い男である。それに、非常に役に立つ。
「顔を合わせるなり『臭い』だなんて、随分じゃない。煙草はレディの嗜みよ。それに、蛇川ちゃんだって時々やるでしょう、煙管」
「必要に駆られて已むを得ずやっているだけで本意ではない。元来、僕は純然たる嫌煙家なのだ。粗野な悪臭で僕の優れた五感を鈍らせられてはたまらん」
それで、と蛇川が言葉を繋ぐ。
「五日もやったんだ。相応の収穫はあったんだろうな?」
「相も変わらずの暴君ぶりだこと! 普通、こうした手合いは一ヶ月二ヶ月と時間をかけて調査するものなのよ。
でも――そうね。さすがはアタシ、といったところかしら。いろいろと分かってきたわよ、うろんな古狸……もとい、古舘のこと」
そう言って、吾妻が垂れた目をいたずらっぽく光らせる。
巨漢の女装家、という、
常人ならば誰もが目を逸らし、存在そのものを"なかったこと"にしたくなる異形の男・吾妻は、
陰謀渦巻く帝都における「刃を持たぬ刃」――つまり情報を巧みに扱うにおいて、右に出る者のない凄腕の情報屋だった。