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二七 旅順に散らば




 戦場を駆けながら、蛇川は違和感を覚えていた。

 手応えがなさすぎるのだ。


 いや、肉を断ち、骨を穿(うが)つ感触は間違いなくある。鬼といえどもそこは()()だ。しかし、肉体的な手応えではなく……「情念」に届く感触、それがないのだ。


 鬼の情念を斬ってやれるのは〈哭刃(こくじん)〉の銘を持つ懐剣だけだ。しかし、それを断ち切るには、まず魂との間に隙を生じさせねばならない。二者が癒着したままでは、情念だけをうまく斬ってやることができないのだ。

 手段は何でもよかった。怒り、喜び、悲しみ、驚き、それに怯み……何だっていい。強い感情で鬼を揺さぶり、魂から情念を引き剥がせればそれでいいのだ。そのための暴力だった。殴り、痛めつけ、屈服させる。「ここにいてはならない」と魂で理解させる。


 しかし、兵士達からはその手応えがほとんど感じられなかった。情念が薄すぎるのだ。

 鬼の成り損ない。まやかしの傀儡(かいらい)。まるで他者の情念に操られているような……となると……


「『弁財天』ッ、本体を狙え!」


 その声に銀次が柱から顔を出す。


 折しもその時、銃剣による鋭い突きを何度も退けてきた薙刀がついに真っ二つに折れた。蛇川が忌々しげに舌を鳴らす。

 無論、それで攻撃の手を休めてくれる敵ではない。一層猛然と突きかかってくる兵士を蹴り飛ばして退けると、背後から迫る敵の気配に振り返る。


 相手を認識する寸瞬前にその左目が()ぜ、血飛沫が蛇川の顔に散った。白皙に朱の花が咲く。銀次の援護射撃だ。

 銃剣を取り落としてよろめく兵士に、とどめとばかり、剥き出しの筋繊維にも似た柄の折れ口を残った眼窩へと叩き込む。さすがに息が上がっているが、それでも叫ぶ。


「ほとんどの兵士はまやかしだ。情念の元締めたる本体がいる……韮山を恨み殺さんとしている奴だ! そいつを撃て!」


「恨み殺さんと、って……つまりどういう奴です!」


「違和感のある奴だ! 後は自分で考えろ!」


「やれやれ、無茶を言うお人や」


 呆れながら、しかし猛禽のごとき瞳は敵全体を冷静に観察し始めている。


 ずっと、統率力に秀でた者や、活きがいい敵ばかりを選んで狙撃してきた。あるいは味方の死角から迫る敵を。

 火薬をギリギリまで増やしている都合上、無茶な連射はできない。だが、南部大拳が火を噴くたびに必ず敵がひとり倒れた。脳、心臓、大動脈、肝臓……身体の重要な器官を撃ち抜かれて。


 だが着眼点を変えろ。

 今撃つべきは、違和感のある奴。他と違う動き、思惑を感じさせる奴――


「……()ぃーっけ」


 ガン、ガンッ!

 南部大拳特有の軽やかな発砲音より数段重い音が響く。その弾丸は、銃剣を正眼に構えて目の前の相手を突き殺さんともがく兵士ではなく、ただひとり、大上段に掲げて乱戦を抜け出そうとしていた兵士の額と心臓に命中した。


「グオオォォッッ!」


 着弾点から黒い靄を撒き散らし、兵士の鬼が吼える。その動揺が伝播したかのように、他の兵士らの像がわずかにブレた。銀次は当たり(クジ)を引いたのだ。


 混戦の真っ只中にいる蛇川からは、とても「違和感のある奴」を探す余裕などない。なにせ、四方から絶え間なく銃剣が襲いかかってくるのだ。

 しかし今、蛇川の目には、まるで狼煙(のろし)のように立ち昇る靄が映っていた。向かうべき先が定まった。


「あそこだな……!」


 目の前に迫る切先をかわし、喉笛を目掛けて足刀蹴りを放つ。相手が上体を反らせてたたらを踏んだところで、その膝、鳩尾、肩を踏み台にし、階段を駆け上がるようにして乱戦を()に抜ける。


 眼下では男達がもみくちゃになりながら殺し合いに励んでいる。足の置き場に困ることはなさそうだ。

 滑りやすい頭部は避けて、肩を足場に。猫のような軽やかさと俊敏さで、蛇川があっという間に狼煙の出処へと到達する。


「お前の怨みは何だ……ブン屋を殺して何とする? 示してみせろ、お前の無念を!」


 着地の勢いそのままに、折れて半分になった薙刀を構え、菖蒲造(しょうぶづくり)の刀身を鬼の首元へと叩き込む。


 ――パチリ。

 どこかで秘密箱が作動する音がした。


 ◆ ◆


 男は腕のいい植木職人だった。

 老母と二人、慎ましくも幸せに生きていた。

 ごく普通に育ってきた。だから、ごく普通に老いていくものと思っていた。


 全てを変えたのは戦争だった。

 派兵された先で見た地獄が、戦友達の死が、そして、異国の言葉で必死に命乞いをする相手を刺し貫く感触が、男を大きく変えてしまった。


 ずっと善良に生きてきた。

 誰かに手を上げたこともなかった。

 なのに、突然銃を渡されて、人を殺せと命じられた。


 逆らったり質問したりすれば強烈な張り手で()ちのめされた。誰もが疑心暗鬼になった。しようもない理由で間諜だと言いがかりをつけ、味方同士で殺し合うさまを見たこともあった。

 次第に何も考えなくなり、ただ命じられるままに敵を殺した。戦場にはまだ頰の紅い少年兵もいた。無論、殺した。


 しかし、国のお偉方同士が互いの利害と体面に折り合いをつけでもしたのか、前触れもなく、突然戦争の終わりを告げられた。

 与えられたのは名ばかりの勲章と、一五円そこら(当時の会社員の給与一ヶ月分程度)の賜金(しきん)だけ。これを誇りに再び市井へ戻れと言う。銃を道具に持ち替えて、これまで通り善良に生きよと……


 苦心しながら、なんとか市井に戻った仲間もいた。しかし、相手を制圧することで、殺すことでなんとか生き延びたという経験から抜け出せず、暴力沙汰を起こして捕まった仲間も大勢いた。

 男もそうしたうちのひとりで、くだらない言い合いが殴り合いに発展し、相手を半殺しにしてしまったせいで牢にぶち込まれた。地獄を見てきた駄賃にしてはあまりに安い賜金も、すべて賠償金となって消えてしまった。


 母親は一度だけ面会に来た。その時、涙ながらに老母の漏らした言葉が忘れられない。


「旅順に散らば……」


 お前も旅順で死んでいたらよかったのに、と母は言うのだ。男とは目も合わせようとしなかった。

 男が半殺しにした相手は、同じように徴兵され、旅順で死んだ幼馴染の父親だった……


 刑期を終えて家に戻ると、そこにはもう別の家族が住んでいた。言伝も何も残されてはいなかった。



 金もないのに酒を飲み、酒代を踏み倒して逃げ回るだけの日々。財産は薄汚れた長着に半纏のみだ。


 寒さを凌ごうと拾った新聞紙は、帰還兵らの暴力性を危ぶむ記事で連日賑わっていた。除隊済みの帰還兵が逮捕されれば、紙面はたちまちお祭り騒ぎとなった。氏名はもちろん、所属部隊や従軍地などの軍歴まで、全てが明らかにされて晒し上げられた。


 人を殺せと命じられて日本を発ったはずなのに。

 無我夢中で殺しに殺して戻ってみれば『血の凍った冷血漢』と蔑まれた。


「オイ、貴様。著しく評判が悪いぞ」


 ある日、人力車の乗客から声をかけられた。見覚えのある顔だった。確か木本とかいったか。旅順では隣の小隊にいたはずだが、とにかく下品で強欲、さらには狡猾らしく、その悪名は男のいた小隊にまで届いていた。

 帰国後、戦時中にこっそり蓄えていた配給品を闇市に流し、得た金で暴利の貸金業を営んで、みるみるうちに巨万の富を築いたとか噂に聞いたが……


「貴様のような落ちこぼれのせいで、我ら帰還兵が皆悪し様に言われるのだ。堂々とせい、さもなくば死ね! 我らは国を戦火から守った英雄だぞ! 兵隊様様、戦争様様じゃないか!」


 戦争万歳! 戦争万歳!

 笑い声と共に去っていく人力車を睨み付ける男の拳から血が滴った。あまりに強く拳を握ったために、爪が掌の皮膚を破ったのだ。それでもなお収まらぬ怒りが、身を焼き焦がすような憎悪が、男の中で渦となって(うごめ)いていた。


 何なんだ、この世界は。

 己の生きてきた世界は何だ。

 己が必死に守ったはずの世界は何だ。

 数え切れぬほどの人を殺し、それ以上に多くの仲間を見送り、寒さから逃れるために半死の戦友から外套を剥ぎ取ってまで生き延びた理由は何だったのだ。


 ――旅順に散らば……


 憎い。

 俺の人生を奪った戦争も、俺を見捨てた母も。

 戦後を謳歌している奴らも、

 俺達の戦いを否定する新聞記事も、

 それに簡単に流される莫迦な民衆も、

 一度与えておいて、俺から"殺し"を奪ったお偉方も!


 そして……


 戦友達の魂を鎮めるための慰霊碑が、彼らの誇りと涙の名残りであるはずの慰霊碑が、

 愚かな若者によって無惨に破壊され、小便をかけて辱められているのを見た時、男はついに鬼と成った。



 誰が男を鬼にしたのか。

 何が、男を鬼にしたのか。



 

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